1話 目が離せない
まるで神聖な儀式のようだ。
ドアの隙間から見た光景に、諏訪大輝は感嘆した。
「Come」
ロッカーが並ぶ狭い部室のベンチに座る、甘井呂と名乗った金髪の生徒から目が離せない。
彼が低い声で囁いた言葉が耳から全身に行き渡り、「その通りにしなければならない」と、脳に指令を送る。
諏訪に向けられた言葉ではないというのに、だ。
部屋の中では、甘井呂の涼しげな瞳と彼を見上げる恍惚とした瞳が絡み合っている。
緩く開いた腕の中に遠慮がちに近づく相手を、甘井呂は優しく抱きしめた。
「Good boy」
優しい声と共に大きな手で撫でられた相手は、あまりにも幸せそうだ。
いつも過ごしている部室が、まるで甘井呂たち二人だけの空間のよう。
諏訪は、生唾を飲み込んだ。
(いいな……)
心の高揚が、抑えられない。
Subとか、Domとか、Playとか。
Normalの自分には関係ないと思っていたのに。
自分は今、甘井呂の前に出て跪きたい。
命令されて、従って。
それから頭を撫でて褒めて欲しい。
初めての欲求に戸惑いながら、その光景を目に焼き付けた。
◆
ガス欠だ。
諏訪大輝は授業が終わるなりすぐに走り出したにも関わらず、部室に辿り着く前に足を止めた。
たかだか数分走っただけで頭が霞み、心臓が破れるほど動いている。上手く呼吸が出来ず喉が痛い。
幼児の頃から高校三年を迎えた今年まで、サッカーボールを追いかけ回して生きてきた。そんな彼にとって、これしきで息が上がるなど信じがたいことだった。
視界を一切邪魔しないように短く切った髪を、グシャリと掴んでため息を吐く。
(風邪かなぁ)
これまで無視してきたが、最近はそういう日が増えてきている。睡眠の質も落ちていて朝も怠く、授業中は今まで以上に何も頭に入ってこない。
一番大切にしている部活動にはまだ支障が出ていないのが救い、といったところだ。
ふらつく足で、それでも校庭の端にある部室棟へと足を進めていく。春の陽気の下、さほど暑くもないのに額に滲んでくる汗を拭った時。
バフンっと何かにぶつかった。
「……っ」
「おい、前見て歩けよ」
「わ、悪い」
衝撃で倒れそうになった体を、腰に回った力強い腕に支えられる。と、共に低く耳心地良い声が聞こえて、足に力をこめながら諏訪は謝罪した。
前は向いていたが、指摘の通り全く見えてはいなかった。
「おお……お前、一年生?」
顔を上げた時に目に映った姿に、諏訪の目がキラリと輝く。体調悪いのが吹っ飛んだ。
そこには、男でも見惚れるほどの美形がいた。
こんな目立つ生徒、同学年や二年生にいたらとっくに気付いているはずだから新入生で間違い無いだろう。
前髪がサラリと長くて後ろだけ刈り上げた金髪は、日焼けした諏訪とは正反対の白い肌にとてもよく似合っている。
だが諏訪の心を昂らせたのは彼の体格。
同年代の平均身長より少し高い諏訪より十センチは高い上背と、学ランを着ていても分かるしっかりした厚み。きっと脱いだら良い筋肉がついているに違いない。
(それに……なんだろ……)
触れられているからじゃない。
支えられた腰から広がる不思議な熱。
とにかく捕まえておきたくて、諏訪はまつ毛の長い目を食い入るように見つめた。
「俺、三年の諏訪! お前の名前は?」
「……」
持ち前の明るさでテンション高く問いかけたというのに。
その男子生徒は諏訪がしっかり立っているのを確認すると、ふいっと目を逸らして歩き出してしまった。
「こらこら! 無視は良くないぞ!」
「……っ、なんなんだ急に」
逃してなるものかと二の腕にしがみ付いた諏訪を、男子生徒は迷惑そうに見る。だが意外にも、無理矢理振り払うことなくその場に留まってくれた。
諏訪は手の力を緩めることなく、満面の笑みで綺麗な顔を見上げる。
「身長高いな! サッカー部入らねぇ?」
「入るように見えんのか」
「いや見えねぇけど」
ため息と共に吐かれたセリフに、諏訪は正直に即答する。
アイドルみたいなスタイルにした金髪はもちろん、左右の耳で光る銀のピアスも首のシンプルなネックレスも、校則違反のオンパレードでとてもスポーツマンには見えない。
しかし、諏訪は掴んだ腕の触り心地から想像通りの筋肉を感じて食い下がる。
「すっげぇ良い体格してるから勿体な」
「諏訪副部長ー!!」
「おお?」
なんとか口説き落とそうとしているのに、けたたましい声が邪魔に入ってきた。
思わず体をビクつかせながら振り返れば、よく見知った後輩が血相を変えて叫んでいる。
「部室で佐藤さんがサブドロップしちゃってます! 震えて蹲ったまま全然動かない!」
「サブド……っ!?」
サブドロップ……Sub drop。
後輩の口から出てきた単語を聞いて、諏訪は目を見開いた。
この世界には、男女の性とは異なるDomとSubという特殊な第二の性を持つ人たちがいる。
Domは支配したいという欲を持つ性。対するSubは支配されたいという欲を持つ性だ。
第二性を持たない人々はNormalと呼ばれ、人口の七割を占めている。
DomとSubは互いの欲求を満たすことが出来る関係にある。
が、人間同士のことだ。上手くいかないことがあって当然だ。
そして欲求が上手く解消されないと、DomもSubも体調に悪影響を及ぼしてしまうのだ。
その内の一つが「Sub drop」。
Sub性を持つ人間が己の欲を溜めすぎたり、Domから強すぎる影響を受けたりして陥る、鬱のような状態だ。
薬やDomのケアによってすぐに回復することがほとんどだが、場合によっては命を落とすこともあるという。
DomでもSubでもない、いわゆる「普通の」男である諏訪にはその感覚はわからない。
だがとにもかくにも。
震えて動かない人がいるなんて、Sub dropだとか部活だとか関係なく緊急事態だ。現場に急行しなければならない。
「悪い! ちょいごたついてるけど一緒に部室まできてくれ!」
「なんでだよ」
「諏訪副部長、これは誰ですか」
「入部希望者!」
「えっ」
緊急事態でも、ついさっき出会ったばかりの男子生徒を離さない諏訪。
金髪の男子生徒の出立ちを見て、目を剥く後輩。
そして逃げようと反対方向へ動こうとする男子生徒。
「希望してねぇ……って、おい聞けよ……!」
抵抗なんて気にせず勢いよくグイグイ引っ張って諏訪が走り出すと、途中で男子生徒が諦める。
運動部室が並ぶ校庭の端っこまで、二人は手を繋いだまま走り抜けることになった。
◆
「唐渡ぉ! お前このままだと退部だぞ!」
「わざとじゃねぇっつってんじゃないっすか部長! そもそも佐藤先輩が」
「とにかく早くケアしろ! 先生に見つかったら」
「ストーップ!」
部室の前に着いた瞬間から聞こえてきた怒鳴り声の応酬に、諏訪はドアを開けながら割り込んだ。
諏訪の姿を見た他の部員はあからさまにホッとした表情になり、場の空気が少し和らぐ。
それでも、後ろから入ってきた金髪の部外者を気にする余裕は誰にもないようだった。
壁に沿って備えられたロッカーと青いベンチだけがある狭い空間で、諏訪は視線を巡らせる。
まず目に入るのは部長の林と二年生の唐渡。
Domの唐渡は、林に練習着の胸ぐらを掴まれながらも、全く怯まずに言い返していた。
次に、ベンチにぐったりと倒れる一人の部員。顔は見えずとも、報告のあったSubの佐藤だろう。
ガチャンと鍵をかけてから、諏訪は自分より大きい二人の胸に臆さず手を当てて引き離す。
「二人とも落ち着け。唐渡、ケア出来そうか?」
「……」
諏訪は興奮して息を荒げる二人の肩を叩き、シュンッと大人しくなった唐渡に視線を向けた。
唐渡はDomらしくプライドが高いが、諏訪の言う事だけはいつもすんなりと聞いてくれる。
しかし今回は、首を縦に振らずに俯いてしまった。
唐渡と佐藤の間で何があったのか、諏訪には分からない。それでも青い顔をした唐渡が佐藤のケアが出来る状態ではない事は容易に察せられた。
「佐藤、大丈夫じゃなさそうだし……唐渡が無理なら保健室に」
かろうじて呼吸していることは分かるものの、動かないし声も出さない佐藤の傍へ諏訪は移動する。近くで顔を覗き込めば、額に脂汗を浮かべた小柄な男子生徒はゆるゆると首を振った。
「せんせに……知れたら……」
この状況を作り出してしまった唐渡は、エースストライカーだ。もし校内でチームメイトをSub dropさせたことが公になれば、次の大会に出られない可能性がある。
諏訪は「それは避けたい」と頭を過った自分を叱咤して眉を寄せた。
「あのな。そんなん言ってる場合じゃ」
「おい」
「あ、待たせてごめんな! ちょっと保健室に行ってくるから」
なんとか場を取り繕おうとした諏訪の言葉は聞こえていないかのように、連れてきていた金髪の男子生徒は佐藤の横たわるベンチの側に膝をつく。
険しい表情で佐藤の顔を覗き込んだ彼から、地の底を這うような低い声が部室に響いた。
「このSub以外は部屋を出ろ」
男子生徒が発した圧のある命令口調を聞いた諏訪は、間髪入れずスッと立ち上がる。
そのままドアに体を向けた時には、まるで自分の意思とは無関係に足が動いたかのようだった。
更にはふわりと体が軽くなった気がして、首を傾げる諏訪だが、
「特にお前」
男子生徒が指差した先を見てゲッと顔を歪める。
人差し指の先にいたのは唐渡だった。
唐渡は初対面の相手に「お前」呼ばわりされて不快げに表情を歪めた。男子生徒が一年生だと知っていたら間違いなくキレていただろう。
整った顔同士がバチっと火花を散らすのが見えて、諏訪は思わず背筋を伸ばした。
唐渡の不機嫌さは伝わっているだろうに、男子生徒は態度も口調も改めずに棘のある台詞を続ける。
「Sub dropさせといてなんも出来ねぇならSubの視界に入るな」
「なんだとお前……っ」
「唐渡」
拳を握りしめた唐渡が乱暴に一歩踏み出したが、諏訪は手で制する。そして歯を食いしばりながらも止まった唐渡を確認し、金髪の合間から覗く瞳を見つめた。
「お前、ケア出来るのか?」
「Domだからな」
諏訪は授業で習った知識を頭の引き出しから引っ張りだす。
(Sub dropしてしまったSubの体調を戻す方法で一番いいのはDomとPlayし、Commandを受ける事。二番目が薬……任せた方がいいか)
保健室に行ったところで、薬を渡されるだけだ。
諏訪が部長の林に視線を向けると、全く同じ事を考えていたらしい。
二人は頷き合って、他の部員を引き連れ部室の外に出ることにした。
◆
任せると決めて男子生徒の指示に従ったものの、ソワソワする。何か忘れているような、物足りないような、そんなモヤモヤが胸に渦巻いていた。
(なんだ? さっき会ったばっかの奴にチームメイトを丸投げしちゃったから落ちつかねぇのかな……でも、PlayするならNormalに出来る事とかないし……)
Domの支配欲とSubの被支配欲を満たすための特殊なコミュニケーションをPlayという。
Domが命令し、Subがそれを遂行することで成立するものだ。
Play中に出される命令はCommandと呼ばれ、Subは基本的に抗うことができない。
そう思うと、諏訪は今更ながら佐藤のことが心配になってきた。
人を見かけで判断してはいけないと分かってはいるものの、逆立ちしてみたって諏訪が連れて来た男子生徒は真面目な雰囲気ではなかったからだ。
先ほどは素晴らしい体格に目が眩んでいたが、冷静に考えると怖そうな生徒だというのが正直な感想だった。
(もしも悪化したら……)
すぐ近くで部長の林が唐渡を叱る声を聞きながら、諏訪はほんの少しだけ部室のドアを開けた。気付かれないように慎重に、隙間から中の様子を覗き見る。
「佐藤……さん、か。俺は一年の甘井呂翔だ」
「甘井呂、くん」
どうやら二人は自己紹介から始めていたらしい。
諏訪は「そんな場合なのか」と焦れた気持ちになるが、Playは信頼関係が大事なのだという。相手の名前くらいは知っておいた方がいいのだろうと思い直す。
「じゃあ、始めるか」
柔らかく深い声に、耳の奥を刺激される。
覗いているという背徳感からだろうか。自分に向けられたものでもないのに、諏訪は体の奥が熱くなるのを感じた。
横たわっている佐藤の青白い頬に長い指がスルリと触れ、血色の良い唇が弧を描く。
「Stand up、出来るか?」
青いベンチから佐藤がゆっくりと立ち上がる。ふらりと体が傾いたのを、甘井呂は肩を抱いてしっかりと支えた。
「Good。上手だ」
ぽんぽんと背中を撫でながら、耳元で囁いた甘い声。
それは不思議と諏訪にもはっきりと聞こえ、音色が脳に浸透していくようだった。
まるで甘井呂の声が自分に向けられているかのような錯覚に陥っていく。
(さっきまでと別人みたいだ……)
大切なものを慈しむような甘井呂の横顔から目が離せない。
諏訪がふわふわとしている間に、甘井呂はベンチに腰掛けて緩く腕を広げていた。
「Come」
優しいCommandに従って遠慮がちに近づいた佐藤の体を、甘井呂は両腕で包み込む。そのまま腰を引き寄せて、小柄な体を膝の上に抱き上げた。
「Good boy」
(う、わ……)
頭を撫でられた佐藤の頬に赤みが差し、甘井呂に体を預けてとろんと心地良さそうな目になっている。
(見ちゃ、ダメなのに)
甘井呂に任せて大丈夫そうなことも分かったし、Sub dropのケアとはいえPlayを覗き見るのはやめた方がいいことを諏訪は理解していた。
でも。
(いいな……)
頭が痺れる。鼓動が早い。頬どころから指の先まで熱くなっている。
自分の中に初めて生まれた感覚に戸惑いながら、諏訪は生唾を飲み込んだ。
(もうちょっと……)
後少しだけ、この世界に浸っていたい。
そう思って改めて息を潜めた矢先。
「Play中のSubみたいなポーズになってますよ、副部長」
「ひょぁあ!」
説教されていたはずの唐渡にポンと肩を叩かれて、いつの間にか地面に座り込んでいた諏訪は間抜けな声を上げたのだった。
お読みいただき、ありがとうございます!