絲師
都内某所。
真夜中の繁華街を練り歩き、一際開けた広場に出た。
広場には大勢の若者が集まっている。
この界隈で夜遊びをする高校生や大学生、夜間に働く社会人などさまざまな人間がそこにいた。
ここに集う若者には、さまざまな色の「絲屑」がついており、皆悩みを抱えているようだ。
だが、今の僕にそんなことは関係ない。
僕はある人物を探すために、一定間隔で並んでいる若い女たちを物色し始める。
そして、ついに目的の人物を見つけた。
「四万だと!? 高すぎる! この前は二万だったじゃないか!」
「相場は常に変動するんだよ、おっさん。だけど、今回だけは三万でいいよ。一万もサービスしてあげられるのはウチだけだからね」
「チッ、まあいい。さっさと行くぞ」
「ありがとうございまーす」
「待て、僕はその男の三倍出す」
二人の行く手を遮ったあと、取引を持ちかける。
すると、女はすぐさま僕の隣に立った。
「お、おい! 先約は俺だぞ!?」
「ごめーん、おじさん。今日はね、ウチはこのお兄さんの気分なのー」
「くそっ! ふざけやがって、このガキ!」
男は悪態をつきながら、殴りかかってくる。
僕はそれを冷静にかわし、後頭部にある、橙色の絲を指先でほんの少しはじく。
男は瞬く間に意識を失い、その場に倒れた。
「……えっ? 今……何したの……?」
その光景を見た女はひどく動揺している。
僕はそんな彼女の肩を抱いて囁いた。
「相場の五倍出す。いいから、僕に付いてこい」
行きつけのホテルで部屋をとったあと、女をソファーに座らせ、その隣に僕も座る。
そしてもう一度、震える彼女の肩を抱いて囁いた。
「伊藤由奈だな? 安心しろ、僕はきみを襲ったりはしない」
「な、なんで、あんたがウチの――!?」
僕は間髪入れずに指を二本立て、「絲能」の力を込める。
そして、複雑に絡み合い、さまざまな色を含んだ一番太い絲の束を断ち切った。
すると彼女は、先ほどの男と同じように意識を失い、その場に力なく倒れる。
次の瞬間、彼女の記憶の一部が頭の中を満たしていく。
……この女も好きな男のために身体を売ってたのか。
本当にくだらない……。
彼女の呼吸の有無を確認したあと、すぐさま汐織に電話をかける。
「もしもし、僕だ。後始末を頼む」
「伊織ー! 起きてるー!?」
ノックもせずに部屋の扉が勢いよく開かれる。
同時に、ボーイッシュな格好をした、金髪の女性が侵入してきた。
「ノックぐらいしろよな、汐織」
「伊織ってば、全然電話に出ないんだもん。お姉ちゃんが緊急招集かけてるよ」
「わかった。すぐ行く」
一瞬で着替えを済まし、汐織と一緒に下の階にある、「絲原探偵事務所」に向かう。
事務所の応接室に着くと、長い黒髪に洋風な和服を着た女性がいた。
彼女は片杖をつきながら、こちらに視線を向けている。
「遅かったわね、伊織。依頼者とは入れ違いよ。窓の外を見れば、まだ間に合うわ」
「灯織姉! ごめん!」
灯織姉に頭を下げたあと、事務所の前の通りを窓から見下ろした。
そこには、灯織姉のマーキングがついた中高年夫婦が腕を組みながら歩いている。
夫婦の絆はとても強いようで、二人の間に真っ赤な太い絲が繋がっていた。
しかし、赤い絲だけではなく、なぜか大量の桃色の絲屑が二人についている。
「今回の依頼の内容は?」
「娘をホストから救ってくれ、というものよ」
「最近そんな依頼ばっかだね。同じことの繰り返しで飽き飽きだよー」
「そうだな。さすがに辟易するよ」
「二人とも、これは仕事なのよ。そこは飲み込みなさい」
「愚痴ぐらいいいじゃんかー」
他愛のない会話が終わると、灯織姉が杖をつきながら、こちらにゆっくりと近づいてくる。
途端に、厳しい目つきになり、僕を睨みつけた。
「伊織、規則を破るのはいけないことなのよ」
「……何のことだか?」
「ごまかしたってムダよ。私の目は節穴じゃないわ」
「素直に全部吐いちゃいなよ」
「……はぁ、わかったよ。相手の同意もなしに絲を切ってごめん」
つい視線を泳がせてしまう。
一方、灯織姉は呆れたような溜め息をついた。
「幸い、今までの対象者には後遺症がなかったわ。だから、今回も大目に見てあげる。ただし、次はないわよ? しっかりと肝に銘じておきなさい」
「お姉ちゃんに感謝しなよ? あと後始末が大変だから、あたしにも気を遣うこと。わかった?」
「……わかりましたよ」
「よろしい。では、話を本題に戻しましょう。依頼人は、先ほどの夫婦。対象者は依頼人の一人娘よ」
灯織姉は一枚の写真を机の上に置いた。
写真に映っているのは、茶髪で髪の長い童顔の少女だ。
制服を着ているので、まだ高校生なのだろう。
「依頼内容は、ホストと同棲している彼女を連れ戻す、というものよ」
「高校生がホストと同棲? それって、やばくない?」
「ああ、世も末だな」
「これが同棲しているホストよ。都内のホストクラブ『FLAME』で、黒羽ツバサという源氏名で働いているわ。しかも、そこのナンバーワンホストらしいの」
灯織姉は写真をもう一枚机の上に置く。
そこには、見るからにチャラそうな白髪のホスト写っている。
しかし、そのホストには何か違和感があった。
もしかして、このホストは――。
「ねぇ、お姉ちゃん。訊いてもいい?」
「ええ、どうぞ」
「このホストって、女の人だよね?」
「汐織は勘が鋭いわね。このホストの本名は、佐神陵子。彼女は女性ホストよ」
灯織姉は淡々と受け答えをする。
やはり、汐織も気づいていたようだ。
「この二人に繋がっている絲を切ればいいのか?」
「最終的にはそうだけれど、今回は少し背景が複雑なの。だから、いつもより時間をかけて取り組んでほしいのよ」
「……プランを教えてくれ」
「対象者はホストに貢ぐために、このアプリを使って、パトロン相手に特別な接待をしているそうよ。伊織には、パトロンの一人として彼女に近づいてほしいの」
「なるほど」
「わかっていると思うけど、規則はしっかりと守ること。いいわね、伊織?」
「了解だ、灯織姉」
「あたしの第六感が囁いている。今回は絶対に面倒くさいことになるよ。気をつけてね、伊織」
「ああ、ありがとな、汐織」
対象者の名前は、花柳文香。
年齢は18歳で、都内の進学校に通っていた。
依頼者である両親曰く、元々真面目で手がかからない子だったらしい。
しかし、半年前から急に学校に行かなくなり、家にも帰らない日が続いたそうだ。
両親が気になって探偵に調べてもらうと、佐神陵子という女ホストの家に転がり込んだらしい。
その探偵はそこまで調べていたが、なぜか途中で調査をやめてしまったというのだ。
ほかの探偵を雇っても、それは同じだった。
しかも、警察すらも相手にしてくれなかったそうだ。
そんな中、とある探偵から僕たちの探偵事務所を薦められ、藁にもすがる思いでやってきたという。
警察が相手にしない理由はだいたい察しがつくし、とある探偵のことはよく知っている。
まあ、要するに今回は僕たちの領分ということだ。
いつもどおりにこなせば問題はないだろう。
「さっきから難しい顔してどうしたんですか、あおくん?」
「なんでもないよ、あやのちゃん」
「もしや、何か悩みがあるのでは? 私でよかったら、聞きましょうか?」
「ありがとう。その気持ちだけで十分だよ」
アプリ内で花柳文香とマッチングしてから早三か月。
コツコツとやり取りを繰り返し、今では実際に会って、こうして頻繁に食事をする関係にまで至った。
こちらは偽名を使っているが、それは相手も同じなのでおあいこだ。
問題なのは、関係があまり発展しないことである。
原則として、食事を共にすることや、映画やショッピングなどのデートをするだけだ。
しかし、前情報では、特別な接待をして高額な報酬を貰っていると伝えられている。
そこを狙ってホテルに誘い、二人きりになったらホストと繋がっている絲を切ることが今回の最終目標だ。
だが、現実はなかなかそこまで進展しない。
しかも、会うたびにデート代や食事代、さらにはお小遣い代がかさんでいく。
このまま関係を続けていたら、こちらが先に破産してしまうだろう。
いくら今回の報酬がいいとはいえ、このままじゃまた事務所が赤字になってしまう。
そろそろ決着をつけないといけないな。
「あの……違ったらすみません。もしかして、私ともっと仲良くなりたいとか……ですか?」
彼女はほかの客に聞こえないように、小声で話しかけてくる。
今まで数多くの女性と対面してきたが、心の内を当てられたことはなかった。
もしかしたら、僕は焦りすぎていたのかもしれない。
これからは慎重にいかないとな……。
「ごめん、そんなつもりはなか――」
「あおくんならいいですよ」
「……え?」
「だから、あおくんとならそういうことをしてもいいですよ」
「……それはなんでかな?」
「あおくんって、これまでの男性と違って若くてイケメンで、年も近いので話してて楽しいんです。それに、実は私、あおくんにガチ恋してる……かもしれません」
彼女は顔を赤らめ、上目遣いをしながら見つめてくる。
これは絶好のチャンスだ。
今日こそ決めてやる。
そして、灯織姉に一人前の絲師として認めてもらうんだ。
「僕もあやのちゃんのことが好きだよ。食事が終わったら、二人でゆっくりできるところに行こうか」
「は、はい……。でも、休憩する場所は私に決めさせてください」
「……わかった。今回はあやのちゃんに任せるよ」
食事が終わったあと、僕と花柳はホテルに向かった。
いつものホテルではないが、この際、人目がつかなくて、二人きりなれる場所ならどこでもいい。
後始末をする汐織には悪いが、この仕事を一刻も早く終わらせるほうが先決だ。
ホテルの部屋に着くと、花柳は真っ先にシャワーを浴びにいく。
その隙に、絲能の力を指先に蓄える。
あとは花柳が出てきたら、彼女に纏わりついている、一番太い絲を切ればいい。
「あおくーん。やっぱり、シャワーを一緒に浴びましょうよー」
浴室から花柳の声が聞こえてくる。
最初は断ろうとしたが、怪しまれるとまずいので、素直に彼女の提案に乗っかることにした。
「あやのちゃん、開けるよ」
「どうぞー」
浴室の扉を開けると、バスタオルを身体に巻いた花柳が抱きついてきた。
次の瞬間、背中に鋭い痛みが走る。
僕は反射的にのげぞり、声も出せずに床に倒れた。
彼女の手にはスタンガンが握られている。
同時に、部屋の扉が開く音がした。
そして、浴室に黒いスーツの男たちが入ってくる。
男たちは僕を取り囲み、一斉に襲いかかってきた。
本気で抵抗したが、さすがに数の暴力には勝てない。
僕はそのまま暴行を加えられ、意識を失った。
気がつくと、あたりは真っ暗で何も見えなかった。
いや、見えないわけじゃない。
おそらく、僕の頭には袋が被されているのだ。
加えて、身体は椅子に固定されていて、両手両足がロープのようなもので縛られている。
何とか脱出しようと身体を揺らしたが、徒労に終わった。
「やっとお目覚めかい? お兄さん」
突然、低いハスキーボイスの人物が話しかけてきた。
すると、袋が剥がされ、視界が広がる。
周りを見ると、まるで独房のような部屋に僕はいた。
目の前には、白いスーツを着た、黒髪で中性的な女性が立っている。
その後ろには、僕を襲った黒いスーツの男たちがズラリと並んでいた。
女性の顔には見覚えがある。
間違いない、こいつは佐神陵子だ。
「へぇ、お前が『あおくん』か。まだガキじゃねぇか」
「僕はガキじゃない」
「最近、ここいらの女どもにちょっかいを出してるのは、お前だな?」
「人違いじゃないか?」
「アタシの目はごまかせないぜ? なぜかお前と接触した女どもは二度と戻ってこない。売掛を払わずに飛んじまうから、アタシらは困ってるんだよ。どんなトリックを使ったんだ?」
「……」
ここはひたすら沈黙することが正解だ。
下手に話せば、墓穴を掘ってしまう。
「やっぱり、そう簡単には口を割らないか。おい、野郎共。もう少しかわいがってやれ」
佐神が合図をすると、男たちは指を鳴らしながら近づいてきた。
僕は歯をくいしばって、男たちからの暴行をひたすら耐え続ける。
そして、気がつくと、僕は繁華街の路地裏に投げ出されていた。
「これだけやれば十分だろ。次会ったときは、わかってるよな?」
佐神は僕の顔に唾を吐いたあと、ホストクラブに戻っていく。
ぼろぼろの僕は、それをただ見ていることしかできず、また意識を失った。
意識を取り戻すと、僕は見知らぬ部屋のベッドに寝かされていた。
あたりを見回してみると、白を基調とした明るくて清潔感のある、お洒落な部屋であることがわかる。
しかし、ここがどこかは見当もつかない。
同時に、身体のあちこちに痛みが走る。
もしかしたら、骨が何本か折れているかもしれない。
すると突然、部屋の扉が開き、誰かが入ってきた。
「目を覚ましたんですね。身体は大丈夫ですか?」
「花柳……文香……?」
「やっぱり知ってたんですね。私の名前」
なんとここは花柳の部屋だったのだ。
だけどなぜ、僕はこんなところにいるんだ?
「すみません、蒼澄さん。私、今まであなたを騙していたんです。私はあなたを釣り上げるために陵子さんと協力してたんですよ」
どうやら僕は、最初から佐神の掌の上で転がされていたようだ。
報酬がいいからといって、繁華街の依頼ばかり受けていたのが仇になったな。
花柳の言葉から推察すると、たぶんあの街全体が組織的に動いていたのだろう。
ホストクラブを利用する女性たちが飛ぶと、売掛金の関係で、店にとって大損害になることはよく知っている。
ああいうやつらは、いざとなったら結束力が強いので非常にやっかいだ。
「もうあの街を訪れるのはやめたほうがいいと思います。今回はこの程度で済みましたが、次は命の保証ができません。お願いです、私と約束してください」
花柳は本当に心配そうな顔をしながら話している。
彼女は優しい子なのだろう。
それは今までの言動から理解できる。
しかし、彼女がどう思っていようが、僕には関係ない。
灯織姉のためにも、この仕事は成功させないといけないんだ。
幸い、この部屋には僕と花柳の二人だけだ。
今ならやれる――。
「よお、お兄さん。調子はどうだい?」
花柳の絲を切ろうとした瞬間、佐神が現れる。
そういえばここが元々、佐神の家だということを忘れていた。
佐神と花柳の間には、金色と赤色、そして紫色の混じった絲の束が繋がっている。
やはり、二人はそういう関係なのか……。
「陵子さん、おかえりなさい。蒼澄さん、意識を失ったあなたをここまで連れてきたのは陵子さんなんですよ」
「……何?」
「いやー、兄さんは意外と重かったぜ。女みたいな見た目をしてるのに、意外と鍛えてるんだな」
「陵子さん、その発言は失礼だと思います。今まで蒼澄さんは、とても紳士的に私に接してくれたんですよ?」
「ふーん……なんだか妬けるねぇ。そういや、文香。酒がないから、いつものを買ってきてくれないか?」
「え? ……わかりました。じゃあ、ちょっと行ってきますね」
花柳は言われたとおりに、買い物に行ってしまう。
そして、部屋には僕と佐神だけが残る。
「文香はいい女だろ? アタシにはもったいないくらいだ」
「それなら、彼女を解放しろ」
「解放……? 物騒なこと言うなよ。まるで、アタシが文香を縛りつけているみたいじゃないか」
「……違うのか?」
「文香は自分の意思でここにいる。あいつにもいろいろ事情があるんだよ」
「お前はそんな彼女を利用して、金を稼いでいるじゃないか」
「それはあいつが勝手にやってるんだ。あいつは自分で稼いだ金を、全額アタシの店に落としてくれるんだよ。しかも、ほかの客と違って、ベッドでのお世話がいらねぇんだぜ? 本当にありがたい太客だよ」
「……何だと?」
「お兄さんはもうあの街には来ないほうがいいぜ。あんたを狙ってるのは、アタシだけじゃないんだ。もっと怖いやつがあの街にはいるんだよ」
「脅しは僕には効かないぞ」
「警告はしたからな。じゃあな、生きてたらまたどこかで会おうぜ」
「ただいまー。陵子さんはお店に戻るんですか?」
「ああ、また店で待ってるからな、文香」
「わかりました。今日もラストソングを陵子さんに歌わせてあげますね」
佐神は花柳の頭を優しく撫でたあと、店へと戻っていく。
その結果、また彼女と二人きりになった。
二人を繋いでいる絲はいつでも切れる。
だけど僕は、彼女がここにいる理由を知りたくなってしまった。
「花柳、僕の本名は絲原伊織と言うんだ。ここを出る前にどうしても訊きたいことがある。質問に答えてくれるか?」
「伊織……いいお名前ですね。教えていただいてありがとうございます。伊織さんには、これまでのご恩があるので、なんでもお答えしますよ」
花柳は笑顔でそう言ってくれた。
僕は彼女の瞳を真剣に捉えながら質問をした。
質問の内容はさっきのとおりだ。
僕の質問を受けた彼女は、思い詰めた表情になりながらも、ゆっくりと話し始めた。
「半年前。私が体調不良でいつもより早く家に帰ると、玄関にたくさんの靴が並んでいたんです。お客様かな、と思いリビングを覗くと……その……」
「大丈夫か?」
「大丈夫……です。話を続けますね。リビングを覗くと、父と母が大勢の人たちと裸で交わっていたんです」
「何だって……?」
「両親は私が生まれる前から、そういうことをしていたらしく、今までずっと隠していたのです。しかも、悪びれる様子もなく、あろうことか私に参加を強要してきました」
「それは……つらかったな」
「それ以来、私は両親が信じられなくなりました。そして、ある日家出をしたんです。たどり着いた先は、あの広場でした。あそこには私と似たような境遇の人たちがたくさんいて、安心感を得られたんです」
「佐神ともそこで出会ったのか?」
「はい、そうです。最初は男性相手の商売をしていたんですが、どうしてもつらくなっちゃって……。薬とお酒を大量に飲んで、倒れているところを陵子さんに拾われたんです」
「佐神にひどいことはされなかったのか?」
「陵子さんは、無条件に私を家に置いてくれたうえに、衣食住も無償で提供してくれたんです。だから、私は恩返しをしたくて、男性相手に接待をし、稼いだお金を彼女のホストクラブに還元しているんですよ」
佐神の言うとおり、花柳には複雑な事情があった。
しかし、佐神が彼女を利用しているのも事実だ。
いくら好きな人のためとはいえ、自分を犠牲にするのは間違っている。
花柳には悪いが、この縁は切らせてもらう。
僕は涙を流している彼女を前にしながらも、躊躇なく繋がっている絲を切断した。
昔の夢を見た。
四年前、初仕事で妖絲と対峙したとき、恐怖のあまり何もできなくて、殺されそうになったときの夢だ。
あのとき灯織姉が庇ってくれなかったら、僕は死んでいただろう。
僕のせいで灯織姉の身体には、汐織の絲能でも治せない傷が残り、杖がなければ満足に動けない身体になってしまった。
絲原探偵事務所で妖絲を退治できるのは、僕しかいない。
灯織姉に恩返しをするためにも、早く一人前になることが僕に課せられた義務なのだ。
目を覚ますと、涙が頬を伝う。
嫌な夢はいつまでも忘れないものだ。
現在僕は自宅謹慎中である。
理由は簡単で、相手の同意もなく絲を切ったからだ。
『あなたには失望したわ。しばらく頭を冷やしなさい』
『ちょっとは周りのことも考えなよ』
灯織姉に叱られるのはかなり堪える。
汐織も文句を言っていたな。
さすがに考えを改めなければいけないか……。
「伊織! 大変だよ!」
勢いよく部屋の扉が開かれ、汐織が飛び込んできた。
汐織は僕の腕を強く掴み、そのまま引っ張る。
「どうしたんだ? そんなに慌てて」
「お姉ちゃんが佐神陵子に捕まったの!」
「……場所はどこだ?」
佐神のホストクラブがあるビルの屋上に到着すると、そこには巨大な黒い蚕のような姿をした妖絲がいた。
その近くには、灯織姉が血を流して倒れている。
よく見ると、妖絲は花柳を胸に抱えていた。
妖絲と花柳は絲で繋がっている。
やはり、あの妖絲は佐神のようだ。
「汐織! 灯織姉を頼む! 僕は花柳を助ける!」
「任せて!」
僕は身体から大量の絲を放出し、絲衣を纏う。
そして、白い蚕のような姿へと変貌を遂げる。
「おやおや、お兄さん。アタシとの約束を忘れたのかい?」
「黙れ! よくも灯織姉を! 花柳も離せ!」
僕は翅を使い、佐神との距離を詰める。
それから爪に力を宿し、佐神の腕を切り落としたあと、花柳を解放した。
「ぐっ!」
「とどめだ!」
「やめてください、伊織さん!」
花柳が僕たちの間に割って入る。
そのせいで、一瞬動きを止めてしまった。
「おいおい、お兄さん。隙だらけだぜ?」
佐神は翅を羽ばたかせて、大量の黒い鱗粉を飛ばしてくる。
こちらも翅で防御をするが、鱗粉は僕の身体をズタズタに切り裂いていく。
気がつくと、目の前に佐神がおり、巨大な爪で何度も切りつけてきた。
それに負けじと僕も爪を使い、お互いノーガードで切りつけ合う。
「なぜ灯織姉を傷つけた!?」
「あいつもお前のように、アタシと文香の間を引き裂こうとしたからさ!」
「お前が切った絲を繋げたのか!?」
「ああ、どうやらアタシにも、その絲ってのが扱えるようだ!」
佐神は身体を勢いよく回転させ、強烈な回し蹴りを放つ。
僕はそれを片腕で受け止めたが、衝撃に耐えられず、骨が折れてしまう。
まずい、再生が追いつかない。
佐神は翅を再び羽ばたかせ、いったん後ろに下がったあと、勢いをつけ体当たりをかましてきた。
その衝撃で、僕は激しく塔屋に叩きつけられる。
「がっ――!」
「伊織!」
「もう終わりかい? それなら、さっさと死んでもらうよ!」
佐神は再び、無数の黒い鱗粉を飛ばしてきた。
そのとき、予想外のことが起きる。
「陵子さん、もうやめてください!」
なんと再び花柳が割って入ってきたのだ。
花柳は鱗粉に全身を切り裂かれ、その場に倒れる。
「ふ、文香……!?」
僕は佐神が動揺した隙をつき、鱗粉を回避する。
そして、一気に佐神と肉薄した。
だが、佐神は地面を強く蹴り、素早く空中へと舞い上がる。
「くそっ!」
「ははっ! 残念だったな!」
「【アラクネの絲】」
灯織姉らしき声が聞こえた瞬間、佐神の背後に巨大なクモの巣が出現した。
佐神の翅は、クモの巣に絡め取られ動けなくなる。
「なんだこれは!?」
「これで終わりだ!」
僕は力を爪に集中させ、佐神に纏わりついている絲をすべて切断した。
同時に、佐神の記憶の一部が流れ込んでくる。
どうやら、佐神も花柳と似たような境遇だったらしく、昔の自分と重なる彼女のことを本気で心配していたようだ。
絲から解放され、空中に投げ出された佐神をキャッチし、花柳の前まで持っていく。
花柳の傷は汐織の力によって癒えており、彼女はものすごい速さで佐神に抱きついた。
「陵子さん! 大丈夫ですか!?」
「……アタシは……大丈夫だ……文香は……?」
「私も元気いっぱいです!」
「そうか……ならよかった。今まで……ごめんな……文香」
弱った佐神は、花柳の膝に頭を乗せ、謝罪の言葉を口にしていた。
今の佐神と花柳にはほとんど絲屑がついておらず、まっさらに近い状態だ。
そこで僕は一本の白い絲を紡ぎ、二人の間に繋げた。
「伊織さん、この絲は……?」
「これは僕からのささやかなプレゼントだよ。この絲が繋がっていれば、きみたちはずっと一緒にいられる」
「そうか……ありがとな」
「ありがとうございます、伊織さん」
こうして、約三か月にもおよぶ大仕事を、僕は無事成功させたのだった。
佐神との戦いから、約一週間後。
結局、花柳は両親を許せず絶縁し、さらに「家族の絲」も切ったので完全に繋がりはなくなった。
これで、彼女は親から解放される。
現在花柳と佐神は足を洗い、二人とも堅気の仕事をしながら一緒に暮らしているらしい。
僕は二人の幸せを願いながら、いつもの日常へと戻った。
「ごめん、灯織姉!」
「もう謝るのはやめなさい、伊織」
「でも、灯織姉が怪我をしたのは僕のせいだ」
「そもそもああなったのは、私の実力不足も起因しているわ。あなたは、あなたなりによく頑張ったじゃない。絲衣の使い方もだいぶ上達したようで安心したわ」
「灯織姉……」
「けれども、もう絲を勝手に切ってはダメよ。私と指切りしなさい」
「約束するよ。でも、指切りって……。もう子どもじゃないんだからさ」
「やっぱり、お姉ちゃんって伊織に甘いよね。伊織を謹慎にした本当の理由は、あれ以上傷ついてほしくなかったからでしょ? そのうえ、伊織の代わりに佐神と直接対峙して、依頼を遂行しようとするなんて過保護すぎない?」
「し、汐織! それは言わない約束でしょ!」
「……え? それはどういう――」
そのとき、事務所内に電話の音が鳴り響く。
灯織姉はワンコールで電話を取り、話し始めた。
すると、灯織姉は僕と汐織を一瞥する。
どうやら次の依頼が舞い込んできたらしい。
さあ、新たな仕事の始まりだ。