☆1話
誰かに何かを『期待』するという行為は。
――それは存外、簡単なことで。
――そして存外、難しいことだ。
仮に人を疑うことを知らなければ――。
たとえ、不審者であろうと無防備に期待してしまうし。
仮に人を信用することを知らなければ――。
たとえ家族であろうと警戒して、期待なんて思慮の外になる。
そう考えてみれば、人間の心なんて大変ちょろいもので。
容易に変わりやすく、実に単純にできていると言えるだろう。
――とはいえ、とはいえだ。
ちょろくて、変わりやすく、単純であるといっても。
度を越して思い込んでしまったなら――覆すのは、困難。
常識を変えるのと同じ。
無知に疑心を説いても理解しないし。
――理解せず、何があっても相手に期待するし。
不安症に無害を説いても聞きはしない。
――聞きもせず、何があっても相手に期待しない。
ならば。
ならば、一体どちらが正しいのだろう?
無知でもなく、不安症でもなく。
ちょっとやそっとのことで、心変わりしてしまうなら――。
人は相手を、どう思うべきなのだろう?
――そいつに期待するべきなのか。
――そいつに期待しないべきなのか。
どちらが、正しいのだろう?
……その問いには。
未だに、ちゃんとした答えを用意することはできないけれど。
でも――きっと。
今は、いいのだろう。
“彼女”になら……この程度の期待、いいだろう。
だって相手は、あの『天使』だぜ?
“優しさ”を求めるくらい、普通だろ――?
「……んっ、んあ?」
深い眠りに……いや。
“意識が完全にシャットダウン”されていたような……。
そんな、生まれて初めての感覚に。
少年は戸惑いながらも、何とか瞳を開いた。
――なんだか。
瞼を開くという――とても些細な行いでさえも。
それが再びできたことに。
少なからずの喜びを感じてしまうのは――どうしてなのだろう?
まるで。
まるで二度と、それさえも叶わないと。
そう――諦めていたみたいに。
「こ、こは……?」
どうやら自分は、床に倒れていたようで。
仰向けだったためか、天井が――いや。
これは、天井と呼べるのか……?
宇宙のように暗い空が――。
けれど、星はなく、惑星さえもない、空が――。
――広がっている。
無限に続いていそうな、そんな気さえした。
(……どこだ、ここ)
こんな空――少年は知らない。
創作物で見かけたことはあっても、リアルで見たことはない。
なぜ、こんな所で倒れているのだろう?
確か。
確か、自分は――
「おっと、目が覚めましたか? やっと覚めましたか? 覚めてないならとっとと起きてください。朗報ですよ~」
「ろう、ほう……?」
……つーか……。
誰――と、重たい頭で、見知らぬ少女へと向く少年。
しかし、顔を動かさずとも、視線を変えるだけで。
すぐ斜め前には、その少女らしき人物がいた。
少年のすぐ傍で、座り込んでいる。
――こちらを覗き込んでくる。
じっと視線を合わせてくる、それに。
様々な意味で、少年は動じずにはいられなかった。
久しぶりに出会った、同年代ほどの異性が、すぐそこに。
しかも――近距離で。
しかもしかも――こんなアングル、体験したことないし。
何より――
「……っ」
――こんな美少女、お目にかかったことがないもので。
『美しい』という感想だけを残して。
眠気も何もかも、吹き飛んでしまう。
端整な顔立ちに、華奢な身体。
それらを包む幻想的な衣装に、妖艶な緑色の瞳……。
そのどれもが、あまりに別次元で。
知らない空間で、わからぬ空間で。
「踊り子……いや、天使……か?」
目を見張らせて、息を殺し。
気づけば――そんなことを呟いていた。
少し、大げさなようにも思われるかもしれないが……。
それは大げさなんかではなく、誇張なんかでもなく。
――事実。
事実として彼女の容姿は、それほどまでに空想としている。
――あまりの『美術』に、呆然としていると。
目の前に居座る少女は――動いた。
絵画でも、幻でもなく、そこに実在する少女は。
あろうことか――人並みにも動き出したのだ。
眠そうに半分だけ開いた瞳で、小さく笑う。
「は~い正解っ。仰る通り、私は天使です。飲み込みが早くて助かりますよ。手間と労力と時間が省けるというものです。控えめに言って、最こ――」
「え……ほ、本当に?」
「――と、言いますと?」
「本当にあんた……天使なのか? あだ名とかじゃなくて?」
――相手が話している間であるにも関わらず。
しかし少年は、遮らずにはいられない。
それとなく口にした連想……印象が。
まさか――実際に、そういう種族だなんて……。
――現に少女の、首を傾げる所作は。
当人からすれば、なんてことのない普通の仕草なんだろうが……。
少年の眼には……とても、とても。
可愛らしく――たったそれだけで、鮮やかに見えるのだ。
異様なまでに、異質なまでに、可憐――。
だが、それが。
天使を名乗る少女が。
今軽やかに、舞う。
「あー、はいはい。天使ですよ。天使天使。よく悪魔と間違えられますが、紛れもなく天使です。主に付けられた『レイキメイ・ラン・レティアーナ』という名前にもほら、その意味がちゃんと込められてるんですよ」
「どこに?」
「『ラン』の部分です。これのせいで天使以外になろうにもなれませんよ」
「……そ、そうか」
指をくるくると回して。
少女は、光り輝く文字を空中に漂わせた。
『レイキメイ・ラン・レティアーナ』
どうやら彼女は、そういう名前らしい。
天使の意味が込められてるとか、主に付けられたとか。
その辺は……正直、追いつけないが。
――ともかく。
日本人でないことは、確かなようだ。
しかも、人間でもない。
こんな魔法じみたこと……並の生物にできるわけがない。
――そうやって、大体整理もできてきた頃合い。
いつまでも寝っ転がっているわけにもいかないと。
少年は――上半身だけでも、起き上がらせる。
それを汲み取った少女は、三歩ほど後ろに下がった。
(……ん?)
そこで、気づく。
少女の頭の上に浮いている――ある物に。
気になって、指をさしながら少年。
「それ……“天使の輪っか”か?」
白と黄色を混ぜ合わせたような色の。
輪っか状のものが――少女の頭の上で、漂っている。
その色、その形状は……。
まさしく、少年が知っている『天使』そのものであった。
「人間たちはそう呼びますよね。これのこと。実際には、天使の中でも私だけしか付けてないので、『天使の輪っか』というより『レイキメイの輪っか』なんですけど」
「へぇ……」
――確定である。
彼女は、架空でしか存在しない生き物。
……いや、生き物と呼んでいいのかは、何ともだけど。
ともかく――。
そんなありえない生命がいるなら、ここはおそらく。
この世界は……と。
推測して、察していく内に。
少年は口ごもるようにして、視線を下げた。
訊きたくない――。
そんなこと、認めたくないが。
けれど……確認しなければならないだろう。
「……じゃあ」
「はい」
「ここは、やっぱり……死後の世界、なのか?」
――目が覚めた直後は、混乱していたが。
次第に思考が冴えて、思い出した記憶。
最期に映った――あの、ワンシーン。
迸った痛みと、死を悟った心境。
夢のようなあれが、掛け値なしの現実で……。
夢のようなこの場所も、ある意味では現実。
もう、少年にとって現世とは。
失ったもので、無くしたもので、触れることができないものなのだ。
いつかは訪れると覚悟していたものの。
こんなにも早く、こんなにも唐突に与えられたことに。
やや寒気を覚え。
手が震えそうになるも……それでも。
きちんと認識しなければと、少女を見てみれば……。
……え?
「ええ、はい、そうですよ。ガッツリ死にました。やっと状況を理解してくれましたね。んじゃ転生の説明に入りますよ」
「は――え――」
「えーっと、あなたがこれから行くのは――」
「ちょ――ちょっと待ってくれ!」
「ん、なんですか?」
珍しく声を荒げる少年に。
そう、純粋に問いてくる少女の姿は――。
子供のような、無邪気な瞳。
――憂いや陰りを持たない瞳。
笑顔というほどではないが、平常心な表情。
――沈みや悲しみを帯びない表情。
容姿ばかりに気を取られていたが。
思い返してみれば。
これまでの態度も、そんなものばかりだった。
少年の死に。
一人の人間の死に。
まるで、何の感傷もないかのように……。
(……い、いやいや、そんなはずない……)
彼女のおっとりとした口調に引っ張られて。
あるいは彼女の外見に引っ張られて。
――到底、受け入れられず。
というより、受け入れたくなくて。
つい――少年は確認してしまう。
もしも自分の想定する天使像が、全て幻想だったなら。
早めに打ち砕いておきたい。
「……あの、俺死んだんだよね?」
遠慮がちながらも、声に出してみれば。
「ええ、死にましたよ。さっきも言ったじゃないですか。もしかして、まだあれが夢だなんて勘違いしてるんですか?」
……と、やはり軽々しく。
何も意図が読めないとばかりに、浮き沈みなく。
少女はそう、返してくる――。
そのことに、とうとう言い逃れできないと踏むも。
それでも。
彼女にも、『良心』があると信じたくて。
引きずり出したくて。
少年は、更に畳み掛けた。
「いや、そういうわけじゃないんだけど……その、トラックに轢かれたのも、覚えてるし」
「そうそう、真正面からぶつかったんですよ。覚えているなら言うことないですね。サクッと本題に入らせてください」
「…………それより、なんかないのか?」
「…………はぁ。私には、あなたが何を求めているのか分かりかねるのですが」
どゆこと? とばかりに、眉を顰める天使。
まるでこちらの言いたいことが伝わらないようだ。
さしもの、予想していたとはいえ。
呆れずにはいられない少年は。
偏頭痛のようなものさえ感じながらも。
意を決して、直接伝えることにした――。
「ほら……俺、早い段階で現世との繋がりが絶たれたわけだし……トラックにはねられるのって、『かなり痛い』じゃ済まないんだよ。こう見えて、結構ショックなんだけど……同情的な言葉とか、せめてそういう表情はしないのか?」
――なんでそんなに平然としていられるんだよと。
暗にそう、責め立てた。
……実を言えば。
正直に、暴露してしまえば。
嘆きつつ、要求しつつ。
彼は――“現世にそれほどの未練はない”。
せいぜい、楽しみにしていた新作を拝めずに終わったとか。
……うん。
例を挙げようとしても、それしか思いつかないほどに――。
――ない。
綺麗さっぱり、何もない。
けれど、それは。
それとこれとは、別であって。
『死』というものはやはり、胸に穴が開くものであり。
――決して幸せと呼べる人生ではなかったからか。
(真っ当に生きてから死にたかったと……そういう後悔なら、ある)
だから。
それ相応の励ましが、欲しかった。
慈悲深い天使なら、それくらいしてくれると思っていた。
……これくらい、期待したっていいだろう?
「ああ、なるほど。そのことですか」
ようやく合点がいったように。
なるほどなるほどと。
“そういや人間ってこんな感情持ってたな”とばかりに。
特にこれと言ってシリアスになるわけでもなく。
変わらぬ呑気な声色で。
最低にも。
最悪にも。
彼女はこう、続けるのであった。
「ですが私としては、こんなのって日常茶飯ですし、いつものことすぎていつものことですし。というか、生きてる時と死んでる時の違いもよくわかってないんですよね」
「…………」
「まぁ、別にいいんじゃないですか? どうせ転生するんですし、問題ないでしょ。さして気にするほどのことじゃないですよ」
「…………ああ、そう」
これを最低だと、最悪だと。
そう感じるのは、人として正しいと思う。
(こんなのが天使とか、この世界終わってるだろ……)
少年は潔く、同情を貰うのは諦め。
彼女に『天使らしさ』を期待するのもまた、やめることにした。




