黙っていれば全て解決するんでしょうか
――月曜日の夕方――
悪夢のような合コンから、翌週の月曜日。
俺は優一と大学近くの喫茶店にいた。
「大地、何かあったのか?」
「え? 何もないよ?」
優一の問いかけに、俺は我に返り返事をした。
「じゃあ、何故飲めもしないコーヒーを注文したんだ? 飲めるようになったのか?」
俺の前にコーヒーが出される。
「いや、俺、コーヒー飲めない……」
優一がコーヒーを注文したとき、俺はぼーっと考え事していた。それで、うっかり同じものでと注文したのを思い出した。
「あのな、淹れてくれた店員さんに失礼だろ」
優一は眉間に皺を寄せ、鋭い言葉を言い放った。
「……すみません」
「露骨に元気がないな。悩み事でもあるのか? 言ってみろ」
今の俺は明らかに落ち込んでいた。俺は重い心のうちを語った。
「俺、童貞を卒業したんだ」
優一はしばらく沈黙したあと、冷静な様子で口を開いた。
「そ、そうなんだ。おめでとう。『結婚するまでは柊先生とはエッチしない!』とか散々言ってたくせに。大地も本能には勝てなかったか」
「……違う」
俺の否定を聞いた優一は片眉を下げた。
「初めての相手は合コンで知り合った女の子なんだよーー!!」
優一は「は?」と言いながらも、冷静だった。俺、結構酷い事を言ったと思ったんだけど、なんでこんなに落ち着き払ってんだ?
「大地、自分が何を言ったか、わかってるのか?」
「う、わかってるよ」
俺は童貞を失った経緯を説明した。
「なるほど。簡単にまとめると、大地は合コンに仕方なーく参加した。そして、そこで知り合った女からしつこく迫られた。とりあえず、大地は最後まで抵抗した」
優一は「毒蛇大陸」という不穏なタイトルの分厚い本を眺めながら、要点をまとめた。
俺がコクンと軽くうなずいたあと、彼は更に続けた。
「しかし、その女は簡単に引き下がらなかった上に、何かやらかしそうで怖かった。そして仕方なーく童貞を捨ててしまったと。そういう事だな?」
「はい、要するにそういう事です」
全てを済ませた後、桃園さんは俺のベッドで、俺はソファーで一晩を過ごした。桃園さんは色々と話をしていたが、俺には何一つ耳に入らなかった。
そして、土曜の早朝。桃園さんは俺の部屋から出ていった。「奪っちゃおっかなー♡」と桃園さんから宣言したわりに、あっさりとした別れだった。まあ、俺は単にヤリ捨てられたんだろう。
幸い、連絡先の交換はしていない。だから、もう会う事はない……はず。
「ちなみに土曜日は香澄ちゃんとクレープを食べに行く約束をしてたんだけど――俺、彼女に合わせる顔がなくて……具合が悪いって嘘をついたんだ」
俺の話が終わると、優一はため息をつきながら本を閉じ、コーヒーカップの持ち手に指をかけた。
「お前の話が本当なら……それは事故みたいなものだ。忘れたらいいんじゃないか?」
「ちょっと! そんな事言わないで! 俺、香澄ちゃんに何て言えばいいんだよ!? 香澄ちゃんに嫌われるのはイヤだよ!」
他人事のようにコーヒーを飲む優一に、俺は詰め寄った。彼はコーヒーカップをテーブルに置いた。
「あのな、何でもかんでも柊先生に正直に言う必要はない。大地が黙ってれば先生は何も知らないし、いつも通りの生活を送れる」
「香澄ちゃんに……黙ってれば……」
優一の話を聞き、俺はモヤモヤした気持ちを抱いた。それから、そのまま頭の中を整理した。
彼の言う通り、俺が黙ってさえいれば、香澄ちゃんは傷つかない。俺たちの関係はいつも通りだ。
それでいいのだろうか。嘘を重ねると、それが習慣になり、当たり前になっていく。
香澄ちゃんを騙し続けるなんて、俺に耐えられるのだろうか。
……でも、それでもっ!
それでも、香澄ちゃんに嫌われる事だけは避けたい。
長い葛藤の結果、俺は香澄ちゃんに何も告げない事に決めた。
「なあ、優一は好きな人いないのか?」
俺は優一に違和感を感じていた。高校時代は生徒会長を務め、いつも難しい本に没頭している真面目な優一。しかし、今の彼はいつもと少し違うような……そんな感覚があった。
「そんなもの、いない」
優一は本から視線を外さずに答えた。彼の表情はどこか冷めていて、感情が読み取れなかった。まあ、彼の場合は女の子から勝手に寄り添ってくるだろうし……恋愛感情が芽生えにくいのかもしれないな。
※※※
日が沈み、時刻は夜の7時。
喫茶店を出た俺は重い足取りで自分の住むアパートへと向かっていた。
なんだか、喫茶店に入る前よりも心が曇ったような気がする。
恐らく、それは優一に相談したからだろう。かえって気持ちが重くなってしまった。
アパートの門が見えてきた。
「うっ! あの子は……」
門の前に、トートバッグを肩にかけた女の子が立っていた。見覚えのある女の子だ。俺はさらに重い足取りでアパートの門へと向かった。
「あらー、佐々本センパイ、こんばんは♡」
女の子の正体は桃園さんだ。彼女は俺の家を知っている。先週の金曜日、自分の部屋に入れてしまったからだ。
「センパイ1人で良かったね。婚約者さんと一緒だったら、どーしましょーね」
確かに香澄ちゃんと一緒だったらと思うと……そんな事、考えたくもない。
「何しにきた?」
俺は冷静を装いながら質問すると、桃園さんは笑顔で答えた。
「あのね――アタシってばぁ、佐々本センパイの連絡先を聞くの忘れちゃって、ここで待ってたんだ♡」
「誰が教えるか。頼むからもう俺に構うな」
俺は桃園さんとはこれ以上関わりたくなかった。だから、彼女にハッキリと拒否の意思を伝えた。
「ふーん、そんな事を言っていいのかなー?」
彼女はそう言うと、バッグからスマホを取り出し、その画面を俺に見せつけた。
「う! こ、これは……」
スマホに写っていたのは、俺の上に桃園さんが乗っかっている画像。香澄ちゃんには絶対見せたくない、忌々しい光景だった。ていうか、こんな写真いつ撮ったんだ?
「ふふ、隠し撮りしちゃった。アタシね、自分で言うのも何だけど、かわいいじゃない? 高い確率で痴漢に遭遇しちゃうんだぁ。だから、いつもカバンに小型カメラ仕込んでんの。痴漢の証拠を押さえるために」
なんという防犯意識の高さ。……じゃなくって、隠し撮りしただとぉっ!? 嘘だろ!?
桃園さんは小悪魔スマイルを浮かべていた。最初は可愛らしさが目立ったが、今ではただ苛立ちを感じるだけだ。
「センパイ、連絡先を教えてください。でないと、この画像がどうなるかな〜♡」
拡散するつもりだろ!? なんて女だ。クソ!
俺は桃園さんからスマホを取り上げようとしたが、彼女はそれを華麗にかわした。
俺は彼女を睨んだ。
「そんなもの早く消してくれよ! もしも香澄ちゃんに知られたら……」
「ん~? 香澄ちゃん?」
桃園さんはスマホをバッグにしまいながら、首をかしげた。
「あ! 佐々本センパイの婚約者か。こ~んな恥ずかしい姿見られたくないもんねぇ」
当たり前だ! バッカ野郎! と、我を忘れて怒鳴りたかったが、俺はグググッと抑えた。また桃園さんに悲鳴を上げられたら困るからだ。
「桃園さん、こんなことをして、何が狙いだ?」
「やだ~、最初に言ったじゃない。アタシの目的はセンパイ。更に言うとセンパイの、こ・こ・ろ♡」
俺には香澄ちゃんがいるって言ったのに。どうしてわからないんだ? 桃園さんの図太さに、俺は嫌気が差し、疲れた。
「うーん。でもぉ、センパイの1番は香澄ちゃんとやらみたいだし、今は2番目で妥協してあげる」
「1番も2番も関係ないだろ。お前はそれでいいのかよ……。こんな俺なんか忘れて、さっさと……」
「あのさぁ、佐々本センパイ」
桃園さんの表情は冷ややかだった。先ほどまでの小悪魔のようなオーラは消え、まるで別人のように見えた。その突然の変貌に、俺は急に落ち着きを取り戻すことができた。
「早く連絡先教えてください。連絡先教えてくれたら、今日はすぐ帰るから」
彼女は静かに瞬きをしながら、そう言い放った。
ハッキリ言って、桃園さんには早く帰って欲しい。俺と彼女がこうして一緒にいるのを知人に、見られたらと思うと……落ち着かない。
ここはとにかく俺の連絡先を教えて早く帰ってもらおう。俺は安直にそんな事を考え、自分のトートバッグからスマホを取り出した。
「……連絡先を教えるだけでいいんだな?」
俺は桃園さんに連絡先を教えた。桃園さんは愛らしく微笑んだ。
「ありがとうございます♡ ちなみに、アタシの事をブロックしたら……わかってますよね?」
「わかってる。ブロックしない……だから早く帰ってくれ」
「はーい。今日はここらへんで帰るね♡」
桃園さんの眩しい笑顔が、怖い。
「桃園さん、1人で大丈夫かよ? タクシー乗り場までなら送っていくけど」
「今日はお迎えが来るから平気よ。じゃあね、センパイ♡」
桃園さんは立ち去った。
ミナトを助けようと合コンに参加したはずが、こんな事態になるとは。
呪われていたのはミナトではなく、実は俺自身だったのかもしれない……
俺は別にミナトを恨んではいない。
桃園さんとの出会い、一夜の過ち、そして今。
これらはすべて偶然の連続。この時の俺はそう考えた。だが、実はそうではなかった。
そして桃園さんの本当の気持ち。俺がそれを知るのはまだ先の話である。
※※※
――パタン。
自分の部屋に戻った俺は灯りをつけた。今は桃園さんはいない。
それから俺はスマホをチェックすると香澄ちゃんからメッセージ届いていた。
<こんばんは。
<体調は良くなった?
<無理しないでしっかり休んでね^^
これから先、何があっても俺の心を覆う雲が晴れる事はないと思っていた。
だが、結局香澄ちゃんのメッセージを目にすると、俺は気持ちは晴れるのだ。