子供はいつだって子供
――8月2日――
「ただいま」
「お邪魔します」
夜7時。私とゆうちゃんは家のドアを開けると、お父さんが笑顔で出迎えてくれた。
「おかえり。香澄。お、ゆうちゃん、久しぶりだねぇ。随分と男前になって驚いたよ」
「お久しぶりです。おじさん」
ゆうちゃんは子供の頃からお父さんの事を『おじさん』と呼んでいた。
お父さんの姿を見たゆうちゃんは、悲壮な表情でお父さんの顔を見る。
「あの、おじさん……」
ゆうちゃんが何かを言いかけると、それを遮るようにお父さんが話す。
「さあ、上がってくれ。今日は焼肉だよ」
「や、焼肉……!?」
焼肉という単語に反応したゆうちゃんは目を輝かせた。
「ゆうちゃん、焼肉好きなの?」
「人生で一度も焼肉を食べた事がないんだ。母さんは仕事で疲れてるし、洋子さんは焼肉好きじゃなかったし。それに、金田たちは一応、金持ち家庭だから、焼肉屋には行かないんだ」
そうだったんだ……
「俺、憧れてたんだ。肉の取り合い」
――
「香澄。焼肉って楽しいな。今度、焼肉屋に連れて行け」
「すっかり焼肉の虜ね。いいわよ」
焼肉を食べ終えた私たちはリビングでくつろいでいる。ゆうちゃんはソファーに座り、私はゆうちゃんに向かい合うよう床に座る。
テーブルには、私の淹れたお茶が置かれていた。
それにしてもゆうちゃんってば。焼肉の食べ頃とか全然知らないんだもん。見てて面白かった。この調子じゃ、肉の取り合いなんてまだまだ先ね。
「香澄。お風呂沸いてるから、入ってきなさい」
お父さんがリビングに入ると、私にお風呂に入るように促す。
「うん、お父さん」
私は、浴室へ向かった。
――
「ゆうちゃん。僕に何か言いたい事でもあるんだろう?」
香澄が浴室へ向かった後、おじさんは優一の隣に、少し離れた距離へ座る。
「おじさん、病院に行きましたか?」
「行ったよ。香澄が帰って来る前にね」
「おじさん、がんですよね? しかもかなり進行してる……」
「さすがにお医者さんの息子で医学部生のゆうちゃんの目は誤魔化せないか……そうだよ。肝臓がんだ。今は痛み止めで何とかやっていけてるけど……病院行くまで全然気づかなかったもんなぁ」
おじさんは穏やかに笑うが、かなり無理をしているはずだ。
「がんの事、香澄に伝えようか悩んだよ。しかし香澄は大地くんと色々あったようだし……そんな時にお父さんが肝臓がんだなんて言ってごらん。香澄が参ってしまうんじゃないかねぇ?」
「どんな事情があるにせよ、言わなきゃダメです。香澄にとっては、たった1人の家族なんですから……」
「ゆうちゃんは言い方キツイけど優しいね。昔から変わらない。わかった。明日、香澄に話すよ」
「ゆうちゃん。『おばさん』の事、覚えてるかい?」
おばさんは、香澄のお母さんだ。
「ええ。香澄が中学生の頃に亡くなったとか」
「おばさんは自殺したんだよ」
おじさんは昔を悲しむかのように、乾いた声で淡々と話す。
「月子ちゃんが亡くなってしばらくした後かな……月子ちゃんはいじめを苦に自殺したんじゃないかって噂が囁かれていた時期があってね。いじめの主犯格は香澄だって流れたんだ。もちろん、僕やおばさんは信じてたよ。香澄をよく知ってるからね」
「それとね、ウチにイタズラ電話がよく来るようになったんだ。電話を取っては、『この人殺し!』とか『警察に行ってください』とかある事ない事、罵声を浴びせられたね」
「しばらくして、世間の目に耐えられなくなったおばさんは、首を吊って……そのまま……ね」
「それから、僕たちは引っ越したんだ。ここでは誰も僕たちの事を知らない。平穏な日常は徐々に戻ってきたし、噂もすっかり忘れ去られるようになったよ」
「それからじゃないかな? 香澄が学校の先生を目指すようになったのは……」
姉さんの死後、香澄の家がそんな事になっていたなんて知らなかった。それにしても、香澄が主犯格なんて噂、誰が流したんだ? クラスメイトなら、香澄は自分から進んでそんな事をする人じゃないって知っているはずだが……
俺は、5年前のある場面を思い出した。姉さんをいじめた張本人と会話している場面だ。
◆◆◆
『はあ? アンタ、シスコンなの? 気持ち悪い! ……そうだわ! 月子をいじめた子ならあと一人いるわ!』
『……香澄か?』
『そうよ! 香澄の事、知ってたのね。アタシたち、香澄から月子をいじめるように指示されただけよ! アタシたちもある意味被害者よ! ねえ、だからアタシを助けてよぉ……』
◆◆◆
彼女たちは……海に落ちて死んだ。今となってはもう、知る術はない。
しばらくの沈黙を破るようにして、おじさんは優しい声で俺に語りかける。
「ゆうちゃん。おじさんのお願い、聞いてくれるかな?」
「出来る事なら」
おじさんは、優しい顔で俺を見る。
「香澄をしばらく見守ってくれるかな?」
「見守るだけ……ですか?」
「うん。ゆうちゃんが香澄を助けてくれた事には感謝するよ。でも、ゆうちゃんには、ゆうちゃんの人生があるんだから。しばらくして何もなければ、好きにしていいよ」
「香澄は1人でも大丈夫。僕たちは香澄をかなり厳しく育てたつもりだ」
俺はてっきり『香澄を頼む』と言われるのかと思った。おじさんはそれぞれの自立を望んでいた。
香澄が香澄であるのは、おじさんとおばさんの愛情の賜物、ということか――俺は思わず、含み笑いを浮かべた。
「おじさん、俺の意志を言います」
「俺は香澄と一緒にいたいです」
おじさんは、驚いた表情で俺を見る。
「え? ゆうちゃん? それは……」
「すみません、まだ香澄からの気持ちは聞いてませんが、俺は香澄を愛してます。だから、しばらく見守るだけでなく、これから一緒に助け合っていきたい」
おじさんは困惑しているようだ。さすがに急すぎたか。
「香澄が良ければ……いいんじゃないかな。僕は何も言わないよ。それに、僕はもう長くないからね」
「ちゃんと治療すれば、まだ長く生きられますよ。香澄だって、おじさんにはまだ長生きして欲しいと思ってますよ」
「いいんだ。肝臓がんは再発しやすいと聞いたし、香澄に負担をかけるのは嫌なんだ。それに……そろそろお母さんの元へ行きたいね。そのために、抗がん剤治療も手術も拒否したんだ。僕が入院するのは、末期になってからかな」
おじさんは笑顔だったが、どこか悲しそうだった。おばさんを亡くして、今も寂しい思いをしているのだろうか?
「僕の代わりにゆうちゃんが香澄のそばにいるなら――それでいいかな、て思っちゃった。不思議だね。昔から知ってるからなのかな……大地くんの時はためらったのに」
「そうなんですか?」
そういえば、大地はおじさんと1回だけ会ったんだったな。
「大地くんは表面上、友達思いでいい人だな――て思ったよ。でもね、僕のカンが囁いたんだ。大地くんは危うい、てね」
おじさんのカンは、年の功てヤツか? 確かに大地はおかしくなっていった。
「香澄と彼のやり取りを見る限り、彼は簡単に引き下がらない人のようだったし――それで僕は賭けに出たんだ。大地くんにとって厳しい条件を出した。『大学卒業までキス以上の行為は禁止』てね。もちろん、彼がそれをしっかり守ってくれたら、素直に結婚を祝福するつもりだったよ」
「キス以上の行為て――少女漫画好きのおじさんからしたら、キスだけじゃないですか」
「バレたか。まあ、大地くんにとって――キス以上の行為がいくつかあったみたいだけどね」
おじさんは意地悪い顔をする。おじさん、性格悪いな。俺も人の事言えないけど……
「香澄から連絡がきた時は正直驚いたよ。こんな事になるなら、香澄にキツく注意しておくべきだったね。それと、大地くんにも……おじさんが甘いのがいけなかったね」
おじさんは悲しそうな表情だった。
――8月3日――
朝6時。お父さんが全身の痛みを訴えてきた。私とゆうちゃんは、お父さんを大学病院へ連れて行く。
病院に到着すると、私は受付に向かい、お父さんの容体を話した。
容体があまり芳しくないと判断されたお父さんは、すぐさま検査へ向かった。
――
午後4時。私とゆうちゃんは、お父さんのいる病室へ向かった。
お父さんはベッドでぐっすりと眠っており、掛け布団の中から何本かの管が出ていた。
検査結果によると、あと1ヶ月――もつかどうか。お父さんは手術も抗がん剤治療も拒否し、痛み止めだけを注がれている状態だ。
「ゆうちゃん。すまないけど、香澄と2人で話したいから、席を外してくれるかな?」
「……わかりました」
ゆうちゃんは病室から出て行った。
お父さんは私のいる方に顔向けると、穏やかに笑う。
「香澄。実はね、香澄から連絡が来た次の日……大地くんの実家に行ったよ。婚約破棄を伝えに、謝罪しにね」
「え?」
お父さんは寂しそうな声で話す。きっとその時の大地の家族の様子を思い出したのかもしれない。
大地の家族は私を受け入れてくれた。私は、それを台無しにしてしまったんだ。
「香澄。今回は僕にも非があるんだから、1人で思い悩んではいけないよ。――だけど、これでわかっただろう? 結婚する事とはどういうことか……その意味をよく考えなさい」
私は結婚を簡単に考えていた。お父さんの言葉が重くのしかかった。
「そうだ、香澄。大地くんの実家なんだが……香澄が行った時、違和感は無かったかい?」
「え? 特に何も……普通の温かい家族だったわ」
違和感? どういうこと?
「そっか……じつは謝罪したあと、大地くんの家族の表情は完全に冷めていたんだよ。自分の息子が婚約破棄されたというのに……なんだか、途中で怖くなったよ」
「え? そんなはずは……」
大地の家族に何かあったの?
しばらくの沈黙のあと、お父さんが優しく微笑んだ。そして……
「香澄が愛しているのは、ゆうちゃんだろう?」
お父さんの言葉が私の心に深く突き刺さった。
お父さんは私の心の奥底を見抜いている。5年前に封じた、心の奥底を。
「月子ちゃんが亡くなった後、香澄はゆうちゃんをずっと心配してたのに……ある日からゆうちゃんの話をしなくなったね」
私はお父さんにゆうちゃんの話をしていた。
ゆうちゃんから突き放された事、私が高校の先生になった時、ゆうちゃんが陰で悟くんをいじめていた事……お父さんはいつも親身になって私の話を聞いてくれていた。
ある日というのは……ゆうちゃんたちが高校2年の頃の夏休み。ミナトくんが大怪我をした次の日だ。私はその日を境にゆうちゃんの事がわからなくなって……怖くなって逃げ出した。
「その後、大地くんの話を始めた。その時に思ったよ。ゆうちゃんから逃げたな……てね。ゆうちゃんへの気持ちを大地くんへ無理やり、向けるようにした。違うかい?」
「香澄。ゆうちゃんの事、ちゃんとケジメをつけなさい。このままだと、ゆうちゃんも大地くんも……大地くんの家族も可哀想だ」
お父さんは優しい声で語っていたが、私の弱さを嘆いているのが伝わってくる。私はお父さんの胸に顔を埋めて答えた。
「……はい。お父さん……心配かけてごめんなさい……」
「香澄。謝る相手は僕じゃないよ」
お父さんは、私の頭を優しく、力無くなでる。
「はい……」
「香澄、ゆうちゃんに素直に自分の気持ちを伝えてごらん。ゆうちゃんは香澄を待ってるよ」
「はい……」
私は、力無いお父さんの言葉にただ泣きじゃくるだけだった。
――
夜8時。私とゆうちゃんは家に戻ると、リビングでくつろぐ。
「ゆうちゃん。話があるの」
ゆうちゃんはキョトンとした顔で私を見る。
「その……ごめんなさい!」
「香澄?」
私はゆうちゃんに頭を下げた。ゆうちゃんの反応から、困惑した様子が伝わる。
「私、ゆうちゃんのお姉ちゃんになるって決めたのに。私は、途中でゆうちゃんから逃げた」
「何だ、そんな事か。あの頃は俺が勝手に不貞腐れただけだったし……」
私は顔をあげるも、視線は下を向いたままだ。
「私が愛していたのは、ゆうちゃんなの……でも、私はゆうちゃんと向き合う事をやめてしまった。私がもっとしっかりしてれば……ゆうちゃんも大地も……他の人たちももっと違う人生を歩めたはずなのに……」
私は、ゆうちゃんに自分の気持ちを正直に伝えた。ゆうちゃんはただ、黙って私の話を聞く。
「もし……ゆうちゃんが私を、ひどい女だと思って許さないのなら、ゆうちゃんと関わるのやめるから……だから……」
ゆうちゃんはため息をつくと、ポツリと呟いた。
「はあ、香澄はひどい女だな」
ゆうちゃんの一言は心に刺さるけど、その通りだ。私は都合のいい、ひどい女だ。
ゆうちゃんは私に呆れて、離れていくだろう。
「まったく。そんなふうに思ってたなら、早く言ってくれれば良かったのに。俺の長年のジェラシーは一体何だったんだよ」
ゆうちゃんは視線を私に合わせ、頭をポン、と置いた。
「え?」
「だから、俺を愛してるなら早く言えって言った。あえて許さない事をあげれば……本来、俺に注がれるはずだった愛情をバカに流した事くらいだな。反省してるなら、今後はその愛情を俺に注げ」
ゆうちゃんはニッコリ微笑んだ。
……
――9月15日――
夕方。お父さんの危篤の連絡が入ると、私は急いで大学病院へ向かう。私が見守る中、お父さんは静かに息を引き取った。お父さんの最後の言葉は……たった一言だった。
「良かった」




