第6話(ユージーン視点)
初めて会ってから数年。
僕とメイシアの関係は相変わらずだったけど、メイシアは変わったとスーラン伯爵がよく僕にも話してくれた。
父についてスーラン伯爵邸に遊びに行くと、それがよくわかった。
大抵メイシアは家庭教師の授業を受けていて、遊ぶ暇もなく忙しくしていたから。
それも婚約が決まってから、自らスーラン伯爵に頼み込んだことだと言う。
頑張り過ぎてはいないか心配だったけれど、正直に言って嬉しかった。
相変わらず僕から逃げてはいても、メイシアがこの婚約に対して前向きなのだとわかったから。
だからその日も、本当はせっかく来たのだから少しくらい話したいなと思っても、邪魔にならぬよう、そっと見守っていた。
「メイシア様、時間はかかりましたがよくお出来になりましたね。これからも焦らず、地道に頑張っていきましょう」
満足そうに笑みを向けた教師に、メイシアはぱあっと顔を綻ばせた。かわいいか。
「はい、ありがとうございます! あの、私、ちゃんと素敵な淑女に近づいていますか?」
メイシアは、僕には向けたことのないキラキラとした瞳を教師に向けていた。
こんな姿を見られるのは覗き見……いや、見守っている時の醍醐味だったけれど、教師が女性で心からよかったと思う。
ダンスの練習相手も決して男にはさせないようにとスーラン伯爵にお願いしておいて本当によかった。
「ええ、勿論ですとも! メイシア様はダンスも苦手だと仰っていましたが、それだってこの頃は足を踏む回数も格段に減りましたし。あなたの努力する姿勢は、胸を張ってよいものですよ」
教師もいいことを言う。ここから飛び出せない僕の言いたいことを代弁してくれて心底ありがたい。
メイシアもほっとした顔を見せ、おずおずと教師を見上げた。
「あの、私、ユージーンの隣に立っても恥ずかしくないように、なれますか?」
そう言いながら真っ赤に顔を染めた。
俯きながらもそっと教師の顔を窺い見るその様子に、今すぐ隣に立ってやりたくなる。
教師はメイシアの視線に合わせてかがみ込み、優しく説いた。
「メイシア様。あなたはいつでも、ユージーン様の隣に立って恥ずかしいなどということはないのですよ。あなたは婚約者なのですから。堂々となさっていればよいのです」
その通りだ。
しかしメイシアはふるふると首を振った。
「『婚約者だから』が理由なうちは駄目だと思うんです。婚約を決めたのはユージーンの意思ではないもの。私自身が相応しくあれるように、好きになってもらえるように頑張りたいんです。私も私を好きになりたい。自信を持ってユージーンの隣に立ちたいんです」
その真っ直ぐさが眩しかった。
その向かう先が自分なのだと思うと、これ以上もなく嬉しかった。
だからつい、隠れていたのにメイシアの前に姿を現してしまった。
「メイシ……」
「きゃあああああああああああああ」
名前を呼び終わるよりも前に悲鳴がそれを掻き消し、メイシアは拳一つ分ほど浮き上がった。
十歳を過ぎても兎っぷりは健在だった。
そしてそのまま一目散に窓に向かって駆け出した。
君のそのひたむきな心こそが好きなのだと、前向きに努力する姿がいじらしいのだと、ただそれだけを伝えたかったのに。
完全に失敗を悟った僕は、がちゃがちゃと窓を開けようとするメイシアを走って追いかけた。
まさか窓から飛び降りられてはたまらない。
「メイシア、どうどうどう! ここは二階だ」
たぶんメイシアなら窓から庭の木に飛び移るくらいのことはしそうだった。
こんな狂乱状態でそんなことをしたら足を滑らせるかもしれない。
思わず背後から羽交い絞めにすると、逃げられなくなったメイシアは最終手段として両手で顔を覆った。
どうせ僕は背後にいるのだから顔なんて見えないのに、まったくそんなところまでかわいらしくて困る。
そんな僕の内心も知らず、メイシアはその隙間からくぐもった声で抗議した。
「来てたなら言ってよ! 『どうどう』って、私は馬じゃない!」
時々暴れ馬だが基本的に兎だと思っているとは言えなかった。
僕にとっては誉め言葉でも、メイシアにとってはそうじゃないだろうことはわかる。
「邪魔したくなかったんだ。メイシアが頑張っていると、スーラン伯爵からも聞いていたから」
そう答えれば反論できなくなったのか、両手に覆われた口元からは「うぅ~~」と獣のような低い抗議の唸り声が聞こえた。
これは急に姿を現して驚かせてしまった僕が完全に悪い。盗み見ていたのも。
さすがにメイシアに申し訳なくなって、羽交い絞めを解いて家庭教師にぽんとその背を預けた。
「驚かせてごめん。また来るよ」
そう苦笑して部屋を去ろうとすれば、はっとしたメイシアが追いかけるように一歩踏み出した気がした。
けれどくるりと振り返れば、メイシアは足を止めて、「また、今度」とだけ言って俯いてしまったから。
僕は言葉が返ったことに安堵しながら、そのまま軽く手を振って部屋を出た。
この時のことは、急に近づいたり、想いを口にしてもメイシアは逃げ出すばかりだという、いい教訓だった。
僕はずっと、ちょうどいい距離を探っていた。
けれど舞踏会でダンスを踊ればどれだけ練習しているかがわかって、いじらしくなって、やっぱりもっと近づきたくなって、ついつい捕まえてしまいたくなる。
距離を見誤っては逃げられて、でも時々俯きながらも足を止めてくれると嬉しくてまた距離を詰めてしまって逃げられて。
そんなことばかりを繰り返していた。
正直に言おう。
しつこく追いかけるからメイシアが怖くなって逃げるのだとはわかっていたが、その逃げる姿がかわいくて、ついつい追いかけてしまっていた部分はある。
それがすっかりメイシアの身に沁みついていたから、反射で逃げるようになってしまったのは自業自得と言わざるをえない。
それでいて、このびくびくと怯えるばかりの子兎を早く手懐けて、この腕に囲ってしまいたいとか思っていたのだから、僕も大抵始末が悪いと思う。
そう。自覚はあった。
そんな僕らだったから、この数年の日々は、進歩していたのか、後退していたのかわからない。
一進一退だったような気もするけれど、二人の中に降り積もるものは確実にあると、そう思っていた。
◇
一人称が自然と「僕」から「私」へと変わった頃、メイシアより一足先に学院に入学することになった。
メイシアとの関係は相変わらずなままで、それなのにあまり会えなくなるのがもどかしかった。
さらには、ここぞとばかりに学友の名を借りて近寄ってくるようになった周囲に辟易としていた。
パーティや舞踏会とは違って、学院には婚約者であるメイシアの姿もスーラン伯爵の姿もないからだ。
遠慮はばかることなくなった彼女らは、ただ伯爵家に流れる血とそれによる人目をひく容姿、肩書きに惹かれているだけだ。
メイシアが逃げる姿がかわいいなどと、とても人には言えないような趣味を持つ男だとは知りもせずに。
そんな人々から来年入学してくるメイシアをどう守るのかが課題だった。
実は過去に大きな失敗をおかしていたからだ。
舞踏会で私が目を離した隙を狙い、メイシアが令嬢たちに囲まれていたことがあった。
私はさっそうとメイシアの肩を抱き、庇った。
だがこれがまずかった。
貴族の結婚は多くが政略結婚で、互いに想い合って結婚する例はとても稀だ。
それなのに、同じ立場のはずのメイシアだけが愛されていることが令嬢たちは許せなかったのだ。
しかも自分で言うのもなんだが、相手はこの私だ。
いまだにメイシアから乗り換えないかなどと無礼千万にも娘を差し出されることも少なくない。勿論家族ぐるみでメイシアを可愛がっていたから、一丸となってそんな家とは距離を置いたが。
そうして私がメイシアへの愛を見せれば見せるほど、令嬢たちは躍起になった。
さらに悪いことには、メイシアが影で淑女らしくあろうと努力し、美しくなっていくほどに、令嬢たちの嫉妬はますます膨れ上がった。
そうしてメイシアは日頃から何度も何故何故と『あなたなんか』というマイナスな言葉ばかりぶつけられていた。
メイシアには自分でなんとかするからもう庇うなと言われる始末で、私もエスカレートするだけなことがわかって、手をこまねいていた。
とにかく社交の場に出たときはメイシアを一人にしないようにと両家で協力し合い、さりげなくメイシアを守っていたのだが、ギスギスした家庭が多い中で、両家の家族にさえ大事にされているのがまたいらぬ嫉妬を煽ってしまった。
そうしてある時メイシアは巧妙に一人呼び出され、連れられた先でまたもや令嬢方に囲まれることとなった。
「あんたなんかどんなに頑張ったってユージーン様とは釣り合わないのよ! 本当に好かれてるわけなんてないわ!」
何を言われても、ぐっと唇を噛みしめ堪えていたメイシアは溜まりかねたように、メイシアの思う真実を告げたのだ。
「ユージーンは幸せな家庭を築きたいと思ってるからよ。互いに思い合う、そんな夫婦になりたいから。だから婚約の決まっている私を好きになろうとしてくれているし、大事にしてくれるのよ」
それは確かにメイシアに過去語ったことではあった。
事実ではあるが、しかしそれは始まりにすぎず、メイシアに語って聞かせたときにはもうただメイシア自身が好きだった。なんとかして好きだと言わせたいという目論見と、私はいつまでもメイシアを好きでいる、簡単には離れないから安心してと伝えるために話したつもりだった。
そんな私の本心を後からいくら周囲に言って回っても、もうどうにもならなかった。
私がどんなにメイシアへの愛を示しても、全ては私の「理想」とメイシアへの誠意で「努力」していることと捉われてしまった。
嫉妬にかられた令嬢たちにとっては、都合のいい真実だったのだ。
ちゃんとメイシアに好きだと伝えていなかったのだから、メイシアまでもがそう思ってしまったことは自業自得だ。
それもこれも、好きだと伝えるときはきちんとメイシアの目を見て向かい合って伝えたいと、もったいぶってしまっていたせいだ。
その時のメイシアの反応を見られるのは一生に一度きりだから。
きっとこれ以上はないくらいかわいらしい反応をしてくれるのではないか。
それを見逃したくはないから、しっかりと逃げられない場所で、ちゃんと伝わるように、万全の準備をしてその時を迎えたいとか。
そんな打算をしていたせいだ。
策士策に溺れるとはこういうことかと思い知った。
結局現状を打破することができないまま、学院に入学することになり、ロクに会えなくなってしまった。
もはやメイシアはマイナスの言葉ばかり浴びてすっかり自尊感情が低くなってしまっている。
どう伝えれば信じてもらえるかという悩みと、さらには小さな社交場であるこの学院でメイシアがどうしたら健やかに伸びやかに過ごせるかという大きな課題に、日々頭を悩ませていた。
そんな時に声をかけてきたのが、リリアナだった。