第60話 伯爵
「……乗船許可を!」
いつの間にか近づいていたのか、先ほどまで遠巻きに少女をなんとか助けようとしていた船のうち、最もしっかりしたものに乗っている人間から、ソフィ号に向かってそんな声がかけられる。
私は気づかなかったが、船員たちはしっかりと分かっていたようで、船長のヨーランが、
「しばしお待ちを!」
と返答し、クレマンと私に、
「いかがいたしますか?」
と尋ねてきた。
船長はヨーランであるが、この船のオーナーはクレマンだ。
それにヨーランたちの雇い主も。
だからこのような場合、決定権はクレマンにある。
しかしそのクレマンが私の顔を見たので、頷いて見せると、クレマンはヨーランに、
「許可を出してくれ。おそらく、先ほどの声の主はオクルス伯爵本人だろうからね。聞き覚えがある。この娘のことが心配だろうし」
「承知いたしました」
それからヨーランは向こうの船に向かって、
「許可を出します! 今、渡し板を……」
あまり大きくない船同士であるから、それくらいで十分に乗り移れる。
船員たちが渡し板を持ってこようとしたが、それよりも前に、
「感謝する!」
と太い声で返答があり、さらに、
「ふんっ!!」
という気合いの入った唸り声が聞こえて、その直後に船に若干振動が走った。
「……飛び乗ってきたわね」
私が呆れてそう言うと、クレマンも苦笑し、
「ああ。よっぽど心配だったようだね。自らの娘のこととなれば、当然だろうが……悪い男じゃないから、そこのところは安心していい」
そう言った。
面識があるようだ。
私はといえば、オクルス伯爵とは前の時に面識はあるが、今回はまだ、ない。
私の実家とは離れた位置にいる貴族であるからだ。
それから、
「……イリーナは、イリーナは無事だろうか!?」
と譫言のように呟きながら大きな体の男が甲板の上に座り込む私たちのところに慌てた様子でやってくる。
「……ニコライ。心配なのは分かるが、礼儀というものがある。他家の船に君のような男が飛び乗ってきたら、乗っ取るつもりかと怯えられてしまうよ」
クレマンが穏やかな調子でその大きな男に言った。
短髪の黒髪に、緑色の瞳、筋肉で張っている大きな体、それに迫力に満ちた顔立ち。
どう見ても武人だ、と分かる容姿の彼は、実際、この国においては近衛騎士団長として知られた人物だった。
つまりは前の時における、私の敵である。
ただ、彼についてはそこまで謀略家という感じでもない。
しかしだからこそ、真正面から武力勝負の男だったので、私にとっては大分面倒な相手ではあった。
今回は対立しないようにしたいところだ。
そういえば、思い出すに前の時は彼の娘の名前はあまり聞かなかった。
確か、体が不自由だという話だったのだが……。
さっき、体を確認した限り、そういうところはなかったと思う。
確認が不十分だっただけかもしれないが。
ともあれ、ニコライ・オクルス伯爵はクレマンに声をかけられ、そこでやっと目の前にいるのがファーレンス公爵だということに気づいたようだ。
「……クレマン!? ということは、この船はファーレンス公爵家のものだったのか!? いや、今はそれより娘が……」
オクルス伯爵が謀略家ではないとはいえ、愚かということもなかった人物だ。
むしろ通常の貴族に必要なそういったことに対する理解はあるし、自らそれを行うこともあった。
だから馬鹿ではないはずなのだが、娘のことになると何も見えなくなるようだ。
クレマンもそれを理解して、
「心配しなくていい。さっきまでは呼吸が止まっていたが」
「呼吸が!? 大丈夫なのか!?」
クレマンの言葉の途中で彼の肩を引っ掴み、ガクガクするオクルス伯爵。
これにクレマンは無抵抗に微笑んでいる。慣れているようだ。
「……いたが、うちの妻が蘇生法を心得ていてね。さっき、息を吹き返した。顔色も大分良くなっているし、体にも特に異常は見られない。ほら、そこに」
と、クレマンが示すと同時にダッ、とした勢いのまま飛びつかんばかりの様子で少女の元に向かった。
そしてそこで膝をつき、少女の頬に触れ、娘が確かに生きていて、呼吸もしていることを理解すると、泣き出した。
「イ、イリーナ……良かった、生きて……! う、うっ!」
そんな伯爵に、イリーナの横で船員から渡されたタオルで彼女の顔や腕を拭ったりしていたジークが、
「おじさん、だいじょうぶ……? これ、つかう?」
とタオルの一枚を手渡す。
伯爵は、
「お、おぉ、これはすまない……少年、君は……?」
「ぼく? ぼくはジークハルト・ファーレンスだよ!」
「と、いうことはクレマンと奥方の息子殿ということか……!」
子供にするにはずいぶんと大げさな態度のような気もするが、その辺り真面目なのも伯爵らしかった。
辺境伯爵家は広大な領地とその役割から、公爵家とも比較的対等に近い付き合いが出来る格のある家である。
クレマンとも仲がいい以上、そこまで丁寧にすることもない気はするのだが……。
けれど、そんな彼がさらにジークに謙るきっかけを、クレマンが与える。
クレマンは、伯爵の後ろに近づき、言った。
「……さっき、君の娘を引き揚げた方法なんだけどね」
「あぁ、そうだ。それも気になっていたのだ。水中からああも鮮やかに娘を引き揚げてくれたのはなんだったのかと」
「それはね、僕の息子……ジークの魔術さ」
「な、なにっ!? しかし……あれはいずれの属性魔術でもなかったぞ。うちの船にも魔術師は何人か乗っていたのだが、鬼魚でも、あそこにいたものは何れも上位種だったようでな……魔術を弾かれてしまって、どうにも出来ずにいたのだ。遠くから、近づかないように槍を投げたり弓を打ったりするくらいしか……それも娘に当たるかもしれぬと思うと大したことも出来ず……」
「なるほど、そういうことだったか。まぁ、ジークの魔術については詳しくは僕も分からないのだけど、あれは特殊属性系らしい。だから、娘を助けた恩だと思って黙っておいてくれないかな? あまり広まると良くないのは君も知っているだろう?」
「……特殊系か! だから弾かれずに……。魔術で返すことができない特性があるということになると、とんでもないが……いや、分かっている。誓ってもいい。娘を助けてくれたのだ。墓の中まで秘密は持っていこう」
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それと、本作とは関係ないんですが短編を書いたのでよろしければ読んでいただけると幸いです。
「心ない令嬢と黒公爵」
https://ncode.syosetu.com/n7606gm/
という作品です。
どうぞよろしくお願いします。