第56話 アステール到着
「……ははうえ、あれはなあに?」
馬車の中で、ジークが私にそう尋ねた。
もう彼も三歳で、ある程度の文章は喋れるようになっている。
と言っても、そこまで複雑なことは流石に無理だが。
「あれは、アシャン湖ね。アステールが誇る美しい湖で、お魚が沢山取れるのよ。ほら、船も浮かんでいるでしょう?」
「ほんとだー! じゃあ、うみなの?」
「海とは違うわね。海の水は塩辛いでしょう。湖の水は真水よ。住んでいるお魚も……魔物も種類が違ってくるわ」
「まものも?」
「そうよ。海の魔物の方が、ずっと巨大化しやすい、と言われているわ。海の方が、湖よりもずっと広いのと、水に含まれている魔力の濃度の違いなどによってね。他にも色々な説があるのだけど……」
その先を語ろうとして、ジークの顔を見ると難しそうに首を捻っているのが分かった。
「うーん……」
「エレイン、流石にそれ以上はまだジークには難しいんじゃないかな」
同じく馬車に乗るクレマンからそう言われて、確かにと思った私は頷いて、ジークに、
「ごめんなさい、ジーク。ちょっと難しかったわよね?」
そう言ったが、ジークは首を横に振って、
「ううん! ははうえがたのしそうにたくさんはなしてくれてうれしい!」
「あら……そう?」
「うん。ちょっとわかんなかったけど……」
そう付け足したので、私とクレマンは顔を見合わせて笑い、それから私はジークに言った。
「ごめんなさいね、ジーク。次からはもうちょっとわかりやすい話をするわ……あ、そろそろ着くかしら?」
馬車の速度が落ちてきたので私がそう言うと、クレマンも頷いて、
「あぁ、市街に入ってきたからね。もう少し進めば、我らが麗しの別荘だよ」
そう言った。
「貴方は何度か行ったことが?」
私は一度も行ったことが無い、アステールの別荘であるが、クレマンの持ち物である。
彼には経験がありそうだと思って尋ねた。
クレマンは頷いて、
「あぁ、小さな頃に何度かね。父上と母上が好きでよく来ていたんだ」
「前ファーレンス公爵……ロルフお義父様と、夫人……ソフィお義母様が? お二人は今は確か……?」
「うん。トラッドの方に小さな土地を買って、そこに隠居しているはずだよ。アステールからは一日かからない距離だし、寄ってみてもいいかなと思ってる。でも君は……」
ここでクレマンが微妙に言葉を濁したのは、私と、義理の両親との関係を考えてのことだろう。
私とクレマンは、クレマンから望んでこうして結婚した訳だが、その実、彼の両親はあまり私のことをよく思っていない節があった。
もちろん、面と向かってそう言われたりしたわけではないのだが、クレマンもやんわりと反対されたらしい。
最後にはクレマンが押し切って、そこまで言うのならばと許可されたようだが、そういった経緯もあって、私はあまり彼の両親と話したことはないのだ。
せいぜいが、結婚式の時に、儀礼の範囲内で話したくらいで……。
思い返すに、確かにその時も微妙な感じだったかもしれない。
けれど、それも仕方がないのだ。
あの頃私は、今の私ではなかった。
色々なことに落ち込み、やる気もなくなって、結果的に我儘に全てを注いでいたようなところがあった。
そんな女が嫁に来て一体どこの親が喜ぶと言うのか。
息子が一生懸命頼んだから仕方なく許可しただけで、可能な限り自分たちは関わり合いになりたくない。
そんな風に思われて当然だろう。
実際、ロルフとソフィは隠居して以来、ずっと領都にも、王都のファーレンス館にも訪れていない。
孫であるジークがいるのだから会いに来てくれてもいいのに、とは思うが、そこに以前の私のようなのがいると思えば来たくもなくなるだろう。
ただ、それでも彼らは悪い人たちではない。
しっかりと礼儀も心得ていて、ジークが生まれた時も、また誕生日や記念日が来るたびに、贈り物や挨拶の手紙などはくれるのだ。
関わり合いになりたくないだろう私に対しても、丁寧な筆致で書かれた手紙を送ってくれる。
だが、距離があるのは事実だった。
しかし、もうそんな距離についてはなくしたい、というのが正直なところだった。
ジークが生まれた後すぐに、つまりは私が前の時から戻ってきてすぐにそうしても良かったのだが、私にはやることがあった。
そしてそれらには少なからぬ危険があり、隠居して静かに暮らしている義理の両親を巻き込むことに引け目もあった。
だから色々落ち着いてから、と先延ばしにしてきたのだ。
それをクレマンは、自分の両親に会いたくないからだ、と解釈してきたのかもしれない。
そういうことも考えると、申し訳ない気分になる。
だから、私はクレマンに言った。
「トラッドね。あのあたりは確か、美味しい川魚が沢山獲れるんじゃなかったかしら? 養殖なんかも盛んだったと」
「ん? 確かにそうだね」
「なら、ジークにもとれたてのお魚を食べさせてあげたいし、おじいさまとおばあさまにも会わせてあげたいわ。この休暇の間に、三人でご挨拶にいきましょう?」
「えっ。別に構わない……というか、両親も喜ぶとは思うけれど、エレインはその……いいのかい? 君はその、僕の両親とはあまり会いたくないんじゃ……」
「クレマン。そんなことはないわ。今まで不義理をしてしまっていたのは、色々とあの方達を危険に巻き込む可能性もあるかと思って……。静かに暮らされているのだもの。それに、私のこともあまり好きではないかも、というのは確かにあったけれど、私としては含むものは何もないわ。仮に私のことをお好きでなくても、ジークは貴方の子供で、あの方達の孫よ? 会わせなければ」
「エレイン、ありがたいけど……無理はしてないんだよね?」
「もちろんよ。できれば仲直り……というと、喧嘩しているわけでもないからおかしな表現だけれど、一度しっかりとお話ししたいとは思っていたの。だから……」
ここまで言えば、流石に過保護気味なクレマンも私が彼の両親に嫌な感情を持っていないということは分かってくれたらしい。
微笑んで頷き、
「分かったよ、エレイン。ただ、会ってみて無理そうだったら……その時は正直に言ってくれて構わないのだからね?」
そう言った。
彼は私に対して非常に甘く、夫としても守ってくれる気があって、それは大変良いと思うのだけれど、ご両親はそもそも悪い人たちではないので、なんだか少し申し訳なく思ったのだった。
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