第53話 商人アーロン・ウェンズ(前)
「……あれから二年か。全く……」
ウェンズ商会、その《魔塔》支店から届けられた資料を読みながら、僕、アーロン・ウェンズはふと口元に笑みが浮かんだのに気づく。
目の前に立つ、資料を届けてくれた支店長がそれに気付いて、
「どうかされましたか、会頭?」
と尋ねてきたので、僕は答えた。
「いや、まさかこんなことになろうとは、二年前には思ってもいなかったのでね」
「……なるほど。私も同様でございます。まさか、《魔塔》の中にウェンズ商会の支店ができるとも、そして私がその支店長などという地位を任されるとも、二年前には全く思っておりませんでしたから。ですが、あの方をお迎えした時のことは、今でもこの脳裏にありありと思い出せます」
「あぁ……サズリウ、あの方……エレイン様を一番最初に出迎えたのは、まさに君だったな。思えば、僕が初めから出ていくべきだっただろうが、そうしていたらきっとおかしな張り合いをしてしまった可能性もある。君のようなよく出来た人間に任せてよかった、と今では思うよ」
「いえいえ、会頭がしっかりとあの方と話し合いをなされ、今もっとも売れている《魔術盾魔導具》の開発をするとお決めになったからこそ、今のウェンズ商会の繁栄があるのです。《魔塔》も、そしてあの方も、会頭には感謝されていると……」
「そうかな。僕の想像など常に軽々と超えていく方だから、僕などおらずともどうにかしてしまった気はするけどね。まぁ、これからもしっかりとあの方とは敵対せずにやっていけたらと思うよ。セリーヌ様もそれをお望みであることだし」
そう、セリーヌ様。
僕の女神。
彼女はあの方の親友で、そもそもの始まりを思い出すに、セリーヌ様との出会いにあった。
*****
元々、僕、アーロン・ウェンズは、商会の主になれるような器ではなかった。
優秀な父と兄がいて、商会も兄が継ぐはずと確信していた十代を過ごしていたからだ。
それに、僕がそう信じていた頃、商会は中規模どころかほぼ零細であり、大した未来もなく細々と地方都市の端で小さな商いをし続ける。
その程度だった。
しかし、そんな日々は意外なことに簡単に終わりを告げた。
父と兄が、仕入れをするためにとある村に二人で出掛けた時、盗賊に襲われて死亡したのだ。
犯人は結局見つからず、父と兄の遺品だけ、旅のものが見つけて届けてくれた。
生死不明よりはずっと良かっただろう。
けれど、父と兄が死亡して、商会の全てが僕にのし掛かってきた。
いくら零細といえ、働く従業員も、そして母や妹もいる。
それを僕一人で果たして支えられるのか。
ましてや当時僕は十代。
父と親しい他の商会で修行させてもらっている程度の人間で、そんな僕に一体どれだけのことが出来るだろうと。
しかし、そうだとしても責任を投げ捨てるわけには行かなかった。
僕はその日から、必死で働いた。
朝も夜もなく、毎日寝不足になりながら、全ての仕事に指示を出し、頑張った。
けれどその結果はひどいものだった。
毎日働き続けているはずなのに目減りしていく資産。
徐々にやめていく従業員たち。
入ってくる資金は少なく、しかし増えるばかりの支出。
最終的にそれは借金という形になり、借金取りたちは妹を売るようにしつこく言い始めた。
もう終わりか。
死ぬしかないのか。
そう思った時のことだ。
ある日、とてつもない豪奢な馬車が、僕の商店の前に止まった。
見れば、明らかにそれは貴族の乗る馬車であり、しかも男爵や子爵では許されない紋章が刻み込んであった。
そこから降りてきた人は、まだ十歳にもなっていない少女で、しかしその年には存在しないような、不思議な覇気のようなものを宿していた。
まるで、全てを知ったような瞳だった。
「……お困りのようね、アーロン・ウェンズ。私は将来、ブラストリー伯爵夫人になる、セリーヌ・ルミエラ。貴方を助けに……いえ、違うわね。貴方と共に未来を歩みに来たの」
その時は全く意味の分からなかった台詞だった。
なぜって、僕のような立場の弱い商人にとって、貴族たちの常識は一切流れてこないからだ。
そもそも伯爵夫人になると言っても、まだ十歳にもなっていないのだから。
許嫁だから、という意味合いなら理解できるが、彼女の言い方は何か、確定していることを言っているような、妙なニュアンスがあった。
奇妙な名乗りだ、と思った。
けれど、のちになって知った、セリーヌ様の特殊能力に、僕は戦慄した。
彼女の言うことは、ほとんど全てが《本当》になるからだ。
予知能力。
絵本に出てくる夢のような能力をその身に宿した女性。
それこそが彼女だった。
そしてそんな彼女は、僕に言ったのだ。
「貴方はいずれ、世界的な商会を持つようになる。さらに、その組織力でもって、膨大な情報力も得るでしょう。けれどそのためには、今私の手を取ってもらわなければならない。そうでなければ、貴方の運命は悲惨なものになる……どうかしら、この手を、取る?」
平常時に聞いていれば、ただの悪魔の誘いにしか聞こえなかっただろう。
貴族というのは恐ろしいものだ。
いつだって、僕ら平民を一瞬にして殺すことができる権力をもっている。
男爵、子爵にだってそれくらいのことはできるのだ。
伯爵クラスになれば、その程度のこと、視線を向けるよりも簡単に行えるだろう。
だから、もしこの時僕がまともな思考力と判断力を持っていたら、この最大のチャンスに首を横に振っていた可能性が高い。
けれどこの時の僕には、何の余裕もなかった。
迫りくる借金、家族の危機、死んだ父と兄の残した全てが手からこぼれ落ちていく未来。
それらが避けられるというのなら……悪魔の手でも取った方がずっといい。
そう思った。
だから差し出されたセリーヌ様の手を、僕は喜んで取ったのだ。
「これからよろしくね、アーロン」
そう言ったセリーヌ様の表情はまさに女神のそれにしか見えず、この日、僕は理屈でなく心から狂信のような気持ちを胸に宿した。
******
その日から、僕の商会は嘘のように全てを取り戻した。
もちろん、それにはセリーヌ様の予言の力があった。
商会の規模は徐々に大きくなり、さらに彼女が言っていた情報収集組織も創設して数年で、この国中の大抵のところに《耳》を置けるまでになった。
「私の言った通りだったでしょう?」
「はい。何とお礼を言えば。貴方様がいなければ、僕にはどんな未来も存在しませんでした」
心から思ったことだったが、セリーヌ様は少し考えてから首を横に振って、
「……必ずしもそうではなかったわ。予言の示す未来は二つあった。私が助けるか……私の親友が助けるか」
「親友の方、ですか?」
「ええ。でも彼女の未来こそ、不確定で危険だった。彼女に貴方という手駒を手に入れられる前に、私は奪い取っておく必要があった……幻滅したかしら?」
「……いえ。どんな理由があろうとも、僕を助けてくれたのは貴方様です」
「そう。でもいずれ、彼女のことは紹介できる日が来るかもしれない……その時を楽しみにしていて」
微笑みつつ、微妙な苦悩を覗かせるその表情に僕は一体その親友という人とセリーヌ様にどんな因縁があるのかと気になった。
けれど、ここで聞いても答えてくれるわけではないということも感じていた。
いつか知れる日が来るかもしれない。
そんなことを思っていたが……意外にもその日はかなり早めにやってきたのだった。
読んでいただきありがとうございます。
ちょっとおかしなところがあったので、修正しています。
まだ修正するかもしれませんが、大まかな流れは同じなのでお気になさらず。
もし少しでも面白い、面白くなりそうと思われましたら、下の方にスクロールして☆を押していただけるとありがたいです。
どうぞよろしくお願いします。
ブクマ・感想もお待ちしております。