第15話 クレマン・ファーレンス
「……この報告は……捨て置けないな。ましてや、君とワルターからのものとなればなおのことに」
《至高の銀》と呼ばれる極上の銀髪、深海のような青い瞳を持った貴族然とした青年、クレマン・ファーレンスは、目の前に立つ自らの妻エレイン、そしてその後ろで堂々としている老齢の使用人に向かってそう呟いた。
声は呆れたような色を帯びながらも、どこか称賛の響きもある。
それも、予想外の宝物を見つけたかのような、そんな響きが。
実際、クレマンは今回自らの妻から持ち込まれた情報の重要さをよく理解していた。
《ゴブリンの軍勢》、その事前の発見である。
もしも村人からその兆候が持ち込まれただけでも金貨が渡されるような情報であるが、エレインがもたらしたのはただの兆候ではなく、ほぼ確定情報と言ってもいい内容の報告だった。
すでに部隊と言ってもいい程度の、上位者の命令に従っているだろう群を複数発見、そしてそれをすでに殲滅したと言う。
さらにそれらの拠点調査の結果、村々から盗まれていた食料が他の場所に兵站として運ばれているのを確認したこと、概ねの軍勢の規模や指揮しているだろう魔物の予測ができていること、本拠地と考えられる地点の推測など、事細かに記載され、いずれもしっかりとした根拠が追記されている。
もちろん、これだけの内容であっても魔物のことである。
絶対に正しい、とまでは言えないが、しかしこれだけの報告書をかつてもらったことはクレマンにはなかった。
歴戦の騎士たちが現場の意見をよく吸い上げて書くものであっても、これほどの完成度であることはない。
それなのに、わずか二十歳の、しかも貴婦人が自ら書いたと言うのだ。
驚くべき話だった。
「ちなみにだが……ワルター。貴方が書いた……わけではなさそうだな」
貴方が、と言ったあたりでワルターの眼光がこちらを貫く。
クレマンの胸に、かつて、小さな頃に幾度となく冷え切った声で「ぼっちゃま」と呼ばれたときの気持ちが蘇った。
クレマンの教育係として、小さな頃から付き合いがあるワルターは、もはや第二の祖父と言ってもいいほどの存在感をもっている。
そのため、隠居する、と言ってからも何くれとなく細々とした仕事を甘えるように頼んでしまっている。
エレインの今回の視察についても、他に任せられる者がいなかった。
有能な者は何人も浮かぶし、それらに任せれば概ね問題ない、とはわかっていた。
しかし、そういった者たちに任せても、何かあったときに諦めることはできない。
けれどワルターなら……。
彼がついていて何かあったのなら。
それはもう、自分には他にどうしようもなかったのだと諦めることができる。
クレマンがワルターに感じている信頼はそれほどのものだった。
そんな彼が、視線で「自分は今回の報告書には関与しておらず、全て奥様の手によるものです」と語ってきたとなれば、クレマンにはこれ以上のことは言えない。
普通の貴族であれば、自らの妻がそんなことをしたと言っても信じないだろう。
貴婦人にも夫以上に優れた技能を持つ人はいる。
だが、彼女たちがそれを発揮することは少なく、また領地経営や村々の細かい事情の把握などについてはどうしても実務能力がものを言う。
貴婦人たちは学園を卒業する段階では夫となる者たちとほぼ同じかそれ以上の技能を持っていても、そのあとすぐに結婚へと進んでしまうために、それを活かす機会も磨く機会もほとんどないのだ。
だからこそ、通常の貴婦人にこんな技能は身につかない。
通常でない者、どうしても実家を男児が継ぐことができない場合、女だてらに継ぐ、と言うことはあるのでそう言う例外はある。けれど、エレインは違う。
それなのにエレインは……。
思えば、書類の処理を頼んだときに彼女の能力をクレマンは初めて知った。
どこか、以前とは異なる、と言う認識は実のところあった。
出産した後から、どこまでも冷徹で全てを諦めたような彼女の瞳に、人間としての光が宿ったような。
クレマンに対する態度もどこか変わっていて、まるで恋する乙女のようなそれへと……いや、それは流石に気のせいだろう。
そもそも、エレインを好きなのはクレマンの方であって、その逆ではないのだ。
彼女をこの家に迎え入れたのは、クレマンがどうしてもと望んだからだ。
そのことをエレインは知らないため、あくまでも政略結婚だと思っているだろう。
クレマンはエレインに断られることは避けたかったので、その政治力の多くを使って、彼女が決して逃れられないようにした。
そしてそのことが、エレインの瞳から光を奪ったのかもしれない、と思っていた。
だからこそ、余計に不思議だった。
エレインが急に人に戻ったことは。
別に、彼女がずっと自分のことを冷たく心ない貴族だと認識していても、隣にいてくれるならそれはそれでよかった。
その時は、彼女の望みを可能な限り叶えることを胸に、人生を生きていくつもりだった。
けれど今は……。
わからない。
エレインは確かに変わった。
それもいい方向に。
これはクレマンにとっても良いことなのだが……その理由が分からなくて、どこか不安だった。
何か企んでいるのではないか、と思ったことも一度や二度ではない。
しかし……。
「……? 貴方? どうしたの? 何か報告書に問題でもあった? それならすぐに直すけれど……?」
そう言って小首を傾げる妻の姿はあまりにも……可愛らしかった。
以前なら決して見ることの出来ない、素直な気持ちから出たと確信できる、柔らかな微笑み。
夫を……自分を気遣わしげに見るその眼差し。
可愛かった。
抗い難いほどに。
クレマンは慌ててエレインに言う。
「い、いやっ! 全く問題はないよ。むしろよく纏まっている……ただ、こうなると騎士団の確保が必要だな。君とワルターですでに村々を回って小拠点は六つほど滅ぼしたと言うことだが、本拠地にはまだ数千のゴブリンがいるということだし……本拠地自体もまだはっきりしていない」
「それにつきましては、奥様は本拠地確定までやるべきとおっしゃったのですが、私の方でお止めしました。流石にそこまで行くと貴婦人のなさる仕事ではないゆえに……」
ワルターがそう言ったが、クレマンとしてはゴブリンの小拠点殲滅はすでに貴婦人の仕事ではないだろう、というツッコミがしたくてたまらなかった。
ただ、それでもワルターの仕事については称賛に値する。
「……よく止めてくれた。これ以上はエレイン。君がすることじゃない。事務仕事の方は手伝ってほしいが、流石に《ゴブリンの軍勢》、その本拠地潰しについては騎士団に任せて……」
クレマンはそう言った。
エレインも貴婦人であるから、従ってくれるものと信じて。
けれどエレインから返ってきたのは驚くべき台詞だった。
彼女は言った。
「……騎士団の派遣については必要だと思うけれど、私も行きます。ゴブリンジェネラルがいる場合、ゴブリンメイジなど、魔術師系のゴブリンもかなりいると考えられるから。騎士団にも魔術師はいるでしょうけど、五千匹規模の軍勢となると、王都から魔術師の派遣を要請しなければならないわ。だけど、私であればそれを補う程度の働きは十分に可能よ。だから……」
問題は。
そう、問題は。
彼女の言っていることが間違っていないこと。
それに尽きるな、とクレマンは頭を抱えたのだった。
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