0. 赤毛の魔女
遥か昔。神話の時代よりも更に前。
この世界には大きな文明が栄え、いくつもの国が建ち、数多の人間が暮らしていた。
今や統一されている言語は幾通りにも別れ、"通訳"だなんて職もあったのだ。
自然を開拓し、人の発展を推し進めた。自然との共生を指針とする今では少し勝手が違うが、そんなことは瑣末事だ。今の時代、何処も戦争戦争で平和というものを知らない。
過去に目を向ければ、お互い協力しあっていた歴史があるというのに!
「その歴史書すら解読できてないんじゃ、意味もないけどな…」
パタンと本を閉じて、"自称"天才ソワレ・シュバリエは憂いる様にため息をつく。
辺境の地であるから助かったものの、この地域が戦争に巻き込まれたらひとたまりもなかっただろう。何せ街にいるのは、女子供に農夫のおやじ。戦えるのなんて一握りだ。
若い衆は、ほぼほぼ徴兵や出稼ぎなんかで出払っている。中には、「こんな田舎やってられっか!」と愉快な理由で飛び出していったのもいたが。
ギャッギャッと不気味な鳴き声が辺りに響く。窓の外から大きな瞳がぱちくりと瞬いて、大きな羽音と共に空へと舞い上がった。
そっと手元に目線を下ろす。この村はまあ、大丈夫だろう。鬱蒼とした森に囲まれている上に、あることないこと囁かれているおかげで人が寄り付かない。
…見ての通り、常人が出遭えば必死であろう化け物は、居るには居るが。
それにしても、だ。彼女はゆっくりと、星を砕いた様な瞳を閉じた。
なぜ誰も神話以前に目を向けないのだろうか?そこには立派な文明社会が築かれていたというのに。私たちの糧となる知識が多く残されているというのに。
それは過去の国家、延いては世界で使われていた過去の遺産。世界の理。事象の紐解き。因果の明文化。
それこそが科学である。
精緻で、繊細で、使い勝手が良く、普及率も高い。なんと素晴らしい、文明の利器と呼ぶに相応しい存在だろう!
__もう、失われてしまったが。
「お母さん!魔女さまのご本読んで!」
「んん?今日は勇者の本を読むんじゃなかったか?魔女でいいのかい?」
「うん!ロワ、魔女さまのご本大好き!」
ぴょんぴょんと足元で飛び跳ねる銀色頭をくしゃくしゃとかき混ぜる。
目線を合わせて、紅潮した頬を軽く撫でてやると、空色の瞳がキラキラと輝きを放った。
「だってね、魔女さまってとってもカッコよくって、キレイで、それに優しいんだよ!私も魔女さまみたいになりたいの!」
「そうか。お前にそう言ってもらえて、魔女さまもさぞお喜びだろう。でもロワ、知ってるかい?魔女にはいい子しかなれないんだ」
「えー!そうなの?!」
「そうそう、だから今日は一回だけだ。前みたいに五回も読んでちゃ、逆に寝つきが悪くなる」
「むぅ…はぁい…」
最愛の我が子、ロワ。
目に見えるように落ち込むその愛らしさときたら!
ついつい甘やかしそうになるが、ぐっと我慢する。デキる母親は、甘やかし過ぎたりしないものだ。
…………。
「…しょうがないなぁ。じゃあ、二回だけだぞ?」
「やったぁ!」
ひょいとロワを抱えて寝室に足を向けながら、途中の本棚から古びた赤い背表紙の本を取る。日焼けした革表紙は、ちょうど夕陽のようなグラデーションで、世界に二つとないヴィンテージ物だろう。
再び足を動かし、十秒と経たずに寝室へと辿り着いた。小さな家ではどこへ行くにも数歩で事足りるのだ。
そろそろ増築するか…。
ロワを寝かせて、ベッドに腰掛ける。天日干しのおかげで今日もふかふかだ。はしゃぐロワの首筋をくすぐる様に撫でれば、嬉しそうに笑い声を上げた。
「ねえ、ねえ!早く読んで!」
「わかったわかった」
コホン、とわざとらしく咳払いをする。愛しい我が子の期待に応えるように、なるべく重々しげに口を開いた。
「『赤毛の魔女。
むかしむかし、おおむかし。
魔女は、魔女ではありませんでした。
使い魔もおらず、まほうのひとつもつかえない、ただのおんなのこだったのです。
「いっぱい練習して、りっぱな魔女にならなきゃ!」
魔女はこころやさしく、ぜんりょうな村むすめでした。
ですが、ほかの村びとたちにきらわれていました。
魔女は人をのろうことができるので、みんなから恐れられていたのです。
「じゃあくな魔女め!」
「あっちへ行け、消えてしまえ!」
「みんな、どうしてそんなことを言うの?わたしはそんなことしないのに」
半人前の魔女は、かなしくてしくしく泣きます。
今日は石をなげられました。
昨日は家に火をつけられました。
どうしてそんなことをするのでしょう。
どうしてそんなことができるのでしょう。
魔女はふしぎでたまりません。
そこにひとりの旅人があらわれて、魔女に聞きました。
「どうして泣いているの?」
「みんなが私に石をなげるの」
魔女は旅人に言いました。
たすけてほしくて言いました。
「なんてひどい!」
旅人はおどろいて、そしておこりました。
「きみは魔女だろう?だったらやりかえしてしまえばいい!」
「できないわ。だって、みんなが私をきらいでも、私はみんながすきなんだもの」
魔女はまたしくしくなきます。
旅人はまたおどろきました。
そして、ああ、この子はなんてこころやさしいのだろうかとおもいました。
「ああ、やさしい魔女さん。じゃあ、私の"しあわせ"をわけてあげよう」_____』…寝たか…?今日は早かったな…いい子だ」
健やかな寝顔に頬を緩める。額にそっとキスを落とし、部屋の外へ足を向けた。
彼女には、今日も今日とてやることがあるのだ。
「ん…お母さん?」
「あ、起こしちゃったか。ごめん」
「ううん…おやすみ、お母さん」
「ああ、おやすみ」
彼女が自分を天才と言うには訳がある。
先程、科学が失われたと言ったが、あれは誤りだ。
確かに、世間一般的には失われた。存在すら知らぬ者もいるだろう。
だが、彼女は違う。
「さぁて、今日もやるかね」
"自称"天才科学者ソワレ・シュバリエ。
失われた技術を追い求める者。それが彼女だ。