第一章⑧
「――……思い出の私を壊したくない、か」
ぽつり、一言。
これは決して意識したものではなかった。勝手に、知らず知らずのうちに声に出ていたのだ。
今度は乙原が耳聡くこれを捉えていた。
「あの時に私が言ったこと、まだ覚えてたの?」
彼女はそっとストローに口を付けた。そのせいで表情に影が差して、読み取ることができなかった。
あの時とは俺が乙原を映研に勧誘した時のこと。たまたま観ていたドラマの中に彼女の処女作が入っていたため、『乙原紫』の名が強く印象付けられていたのである。
渡りに船だと思い、俺は彼女を勧誘した。やはりと言うべきか、初めての勧誘は失敗に終わった。当時は大して親しくなかったのだから当然と言えよう。
『お遊びに付き合っていられない』『学生風情に大したものが作れるとは思えない』、なんて暴言を断り文句にせず、代わりに彼女はこう言ったのだ。
――――思い出の私を壊したくない、と。
やはり俺が浅慮だったのだろう。その言葉の意図も背景も測りかねるが、将来を嘱望された子役だった彼女が何故引退したのか……。それを考えもしなかったのだから。
乙原が両手に自分の顎を載せて、優しい眼差しを向けてきた。
「一度目はそう断った。だけどナオトくんは日を開けずに二度目の勧誘をしてきた。その時何て言ったか覚えてる?」
「……いや、全然」
昼休みに振られて、その日の放課後に俺は再度彼女を映研へと誘った。半ば衝動的だったこともあって、誘い文句は曖昧になっている。
ただ何となく、『このまま諦めてはいけない』と感じたことは覚えている。子役時代の乙原の演技に惹かれたことや、感情の機微に気付いたからだと思うが……。
くすり、と彼女は苦笑して、
「――――『キミがこれまで費やした苦悩と努力を、俺が映像に収めてみせる。だからどうか、もう一度考え直してくれ』って言ったのよ? ナオトくん」
「……一字一句覚えないでくれよ、まったく」
彼女に言われたことで脳裏に記憶が蘇った。おお当時の俺よ、何故かような臭い台詞を吐いたのですか……。人目がなければブリッジして悶え苦しみたい気分だ。
本当にどうして言ったのか。今でも分かっていない。ノエルの真剣さに影響されたのか、乙原を放っておけないと感じたからなのか。
自身の行動に頭を悩ませていると乙原が悪戯っ子のような笑みを浮かべて言った。
「だけど現実では、ノエルちゃんがメインカメラを握ることが多いんだよねえ。俺が映像に収めてみせる(笑)」
「やーめーてー! 人の言葉で遊ぶのやーめーてー!」
カメラってマジで奥が深い。絵コンテ通りに撮るだけでも難しいのに、演技慣れした乙原がアドリブ入れてくることもあってより難易度が上がっている。俺もサブカメラとして立つことはあるが、即興に対応できるノエルがメインを務めることが多い。
俺は茶化されたことに憤慨した様子を見せながら、
「ふん! 俺だって成長してるんだぞ。お前に言われた通り発声練習は欠かしていないし、おかげでこないだカラオケで八九点出したんだぞ!」
「そうだねー。偉いねー」
赤ん坊をあやすみたいに言われ、途端に気恥ずかしさが襲う。くそう、舌戦で彼女には勝てそうにない。というか俺、基本的に論戦弱いしなあ。
乙原はストローでコーヒーをかき混ぜながら、
「だけど一番成長してるのはノエルちゃんだろーね。何の知識も技術もない状態から、今みたいになるまで約一年だからね」
そう言われて、俺はこれまでのノエルの頑張りを振り返った。
彼女の作る映画は、最初の頃だと人間の醜い部分ばかりに焦点を当て、そのままバッドエンドに突入することが多かった。未だにその軸は健在だが、それでも彼女は『映画』を作るようになっていった。
何がのめり込むキッカケになったのか定かではないにせよ、その熱は生半可なものではなかった。いつかは熱が引くものだが彼女は未だに努力を継続しているのだから、その愛は本物と呼んでいいはずだ。
俺はもちろん、役作りに余念のない乙原でさえ総合的にはノエルに及ばないだろう。それは乙原自身も認めている。
確かに。俺はそう頷いた。
「……俺はあいつが時々羨ましいよ。俺にはあれだけ熱中できるものが、今までなかったから」
若干声音に陰鬱とした色が混じってしまった。ノエルへの嫉妬を無意識のうちに混ぜ込んでしまったのだ。
乙原ははて? と首を傾げる。
「でもナオトくんだって勉強得意じゃない? それは打ち込んできたからでしょ?」
「それは……また少し違うだろ。必要だからやっているだけで、真っ白な状態で何か見つけてやれって言われたら多分俺は、何もできないと思う」
勉強ができる、と言えば聞こえはいい。事実社会では重要視される項目の一つだろう。
だが俺にとっては「勉強しかできない奴」と指摘されているようなものだった。
無論勉強は嫌いじゃない。けれど特別好きというわけでもない。学内で優れていても全国模試では上位十パーセントにも入れない。
運動もある程度はできる。だからといって本気でやっている人たちには届かない。それに食らいついていけるほど思い入れもない。
いつだって自分が誇れる『何か』が欲しいと思っていても、決してそれが形になったことはなかった。無欲なのではなく、きっと俺には『自分』がないのだろう。
……この問答も既に幾度になるのか。そして決まって最後には自己嫌悪に陥る。自分は何て小さい男なのだろうか、と……。
ふう、と小さくため息を吐いたことに気付いた乙原が機転を利かせて、強引に話の流れを変える。面倒臭い男ですみませんね。
「って、彼女のいる前で別の女の話をするなんて最低よ! あなたは私だけ見ていればいいの!」
「悪かった」
……ってあれ? 最初にノエルのことを口にしたのは、確か乙原だったような気が……?
まあいいか。一旦ノエルのことは置いておこう。せっかく乙原が俺の役作りを手助けしてくれているのに、他のことを考えるのは失礼だしな。
俺は意識を切り替えて、今の感情を身体に染み込ませていくのだった。