終章③
――――忘れもしない、雨が降った日のこと。
そのとき我は街を彷徨って数日は経っており、見るからに薄汚れてしまっていた。魔王であった頃は汚れなど簡単に清めることができたのだが、人間界ではそうもいかんらしい。必ず湯浴みをせねばならん。多少の異能を持った我でもそれだけは変わらなかった。
何より人の子は、あまりに体温を下げ過ぎると死に至るらしい。貧弱な我の身体も例外ではない。つまりこのまま雨に打たれ続けていれば、いずれ我が死に絶えることができる。望んでもいない生を終わらせることができる。そう捉えていた。
――しかしそこへ、傘を差した一人の人間が現れた。
「どうしたんだ?」
今まで声をかけてきた雄の中で一際軟弱な者。それが我が抱いたナオトの第一印象である。その見立ては正しく、今まで誰かと争ったことのない人間だった。
しばらく遠巻きに我のことを窺っていたナオトが、恐る恐る話しかけてきた。
――気安く話しかけるな。我は殺気を放ち、ナオトを追い払わんとする。
「……でもこんな雨の中、傘も差さないんじゃ風邪を引く」
その声は震えていた。その足は竦んでいた。その魂は恐れていた。
しかしこの男は頑として逃げようとはしなかった。後ずさることもなく、逆に一歩我の下へ歩み寄ってきた。
「良かったらうちに寄っていけばいい。多分、色々と力になってやれると思うんだ」
他の者と同様に下心を隠して接してきていると思った。
そうでなければ浅ましき人間が、他者に手を差し伸べるなどあり得んことだと認識していたから。
我が相手にしないでいると、ナオトはやれやれと困った風に苦笑いをした。
「……分かった。だったらせめて、この傘を受け取ってくれないか?」
そう言ってナオトは自分を守っていた傘を躊躇いなく差し出してきた。
――莫迦を言え。それでは貴様が濡れてしまう。
「ああ。だけどキミは濡れずに済む。それならそれでいい」
ここに至ってなお、我にはこの男の心情が読み取れずにいた。
他の雄どもならば即座に劣情を露わにしてきただろうが、ナオトは未だにその気配を見せずにいる。巧妙に隠しているだけだ。そうに違いない。
警戒心を全開にする我に、ナオトはさらにもう一歩踏み込んでくる。
「ただもっといいのが、ちょっと手狭だが二人ともこの傘に入って帰るって選択肢だ。それが嫌なら、雨が上がるのを一緒に待ち続けてもいい」
信じるな、騙されるな。
人間の本性はげに恐ろしく、残忍で、自分以外に対してひどく排斥的な人種だ。
転生前でも転生後でもそれだけは不変の理である。
――何故そこまでする必要がある? 貴様、我が怖くないのか?
「……ぶっちゃけて言うと怖い。敵意、っていうか殺気がビシビシ伝わってきてて」
――だったら。
「でもそれは多分、お互いのことをよく知らないからだろう。知らないから、恐れるんだ」
――……。
知らないから恐怖する、と男は言った。
それはきっと正しい。これまで我が築き上げてきた人間像は、その多くが想像でできたものだ。『かくあってほしい』という押し付け。でなければ、我は人間を敵と思い込めなくなるから。弱くて儚い者を殺すには抵抗が付き纏うから。
人間を知ってしまったとき、もしも優しくて、分け隔てなく思いやることのできる種族であれば、我は人間たちに力を向けることができなくなる。同胞たちを守れなくなる。
だから我は『知らない』ことを選んだ。そして『知らない』のをいいことに、人間を恐ろしいものと決めつけ、打倒すべき敵と見なした。
「あ、けど一つだけ。キミは転生者だろ? 実はうちでシェアハウスしてる奴が転生者で、ここに来たのも『別の転生者の気配がする』って聞いたからなんだ」
――――だからどうか、そんなに優しい声で話しかけないでくれ。
我が一度は遠ざけたものをどうか突き付けないでくれ。我が思い描いた偶像通りであってくれ。
ナオトは自分が濡れることをいとわず、我の頭上に傘を移動させる。
「……さて、どうする? 選ぶのはあくまでキミだ。でもそうだな、できれば手を取ってくれるとありがたい。でないと俺はずっとこの辺をウロウロしなくちゃならない」
「…………我、は、」
寒い、と肌が警笛を鳴らすように震えていた。
それは身体だけの話ではなく、心までも冷え切っていたのだと思う。
敵と思い込んだ人間たちに囲まれて孤独を感じていたせいだ。かつて王であったときは、常に部下や仲間の姿が周囲に絶えなかった。
王とは誰よりも孤独を嫌いながらも孤高を謳う。
寒さに震えていた我の心は孤独に耐えられなかったのだ。
我はそのとき初めて顔を上げて、目の前の男の顔を目に焼き付けた。
まず第一に勇者の気質は見えず。さりとて戦士の気概も見受けられない。我を殺さんと猛っていた人間の瞳とは総じて合致しない。
――――そうか。この者はどこまでも『人間』なのだな。
魔王に剣を突き立てる度胸はなくとも、誰かのために剣を構えるだけの勇気がある。たとえ人間の脅威であろうとも、手を差し伸べる温かさを有している。
「……、」
知ってみたいと思った。
この男を通して『人間』とはいかなるものか、知ってみたいと。
我はかじかんだ手を、懸命に力を振り絞って『人間』の手に重ね合わせた。
*
――――これが、我がナオトとともに住むことを選んだ一番の理由だ。
何故このことをわざと隠したのか? ……ふん、よもや言えるはずもあるまい。この我が、かつて人間を愚かと決めつけ、その救いようのなさを説こうとしていたこのノエル=ラ=ヴォーデモンが、だ。
――――『助けてもらって嬉しかったから』だなんて、どうして言えようか。誰が信じようか。
故にこれは、他の人間はおろかナオトにだって言っていない、我の秘密だ。
そう――大事な、大事な、二度目の棺桶まで持っていく、我だけの秘密だ。