第三章⑨
おでこに温かい手が触れたことを契機に、俺は意識を取り戻した。
カーペットを敷いているとはいえ、ほとんど固いままの床で寝てしまったせいか、腰が地味に痛い。
最悪な目覚めだ、と思いながら、俺はゆっくりと瞼を上げた。
「あ……」
と、俺の顔を見下ろしていたノエルと、真っ先に目が合った。彼女の金髪が俺の顔に触れそうなほど垂れ下がり、ほんのり甘い香りがした。
未だぼんやりとした意識の中、俺は咄嗟に思い付いた言葉を口にした。
「あ……おはざます…………」
短くした、というより覇気の感じられない挨拶。コンビニバイトみたいな略し方だ。
ノエルは珍しく戸惑った風に言葉を詰まらせていた。あ、うと言い繕おうとしているみたいだった。
そこでようやく、俺は自分の後頭部に柔らかい枕が敷かれているのを感じ取った。
否、枕は枕でも、それはノエルによる膝枕なのだと遅れて理解した。
「……?」
状況がいまいち呑み込めない。俺は昨日……いやどのくらい寝ていたのかは知らんが、ともかく寝る直前に床へ転がったとこまでは覚えている。現に少しでも足を動かすと椅子のキャスターに当たってしまう。
そういった意味では状況把握できている。俺が分からないのは何故ノエルが膝枕をしてくれているのか、ということである。
平生の俺なら気恥しくて離れるところだが、寝起きの今は身体が重くて動く気がしない。何より圧倒的な心地良さを早々手放す気持ちにはなれない。
試しにもう一度頭を預けてみると、ノエルは嫌がる素振りもなしに受け入れてくれた。脚が痺れてしまうかもだけど、もうちょっとくらいならいいよな……?
そうやって甘えているうちにまた眠ってしまいそうになる。なるほど、これが添い寝リフレってやつですか。ちなみに膝枕は有料オプションで三分二千円とかするらしい。はっ、もしやこれもそういう類いか!? 終わってみると後で十万円くらい請求されたらどうしよう!?
このくらいボケられる程度に意識もクリアになり正気に戻った俺は、慌てて頭を上げようとする。やっぱり恥ずかしいし!
「ナオト――――」
しかしそれを制するようにして、ノエルが俺の名前を呟いた。
彼女の美しい瞳を見入っていると、ふと吸い込まれるような錯覚を受ける。そのせいで動くことを失念してしまった。
ノエルは言葉を選ぶような間を置いて、これまた珍しく慎重な雰囲気のまま口を開いた。
「――――ごめんなさい」
彼女の口から飛び出た言葉は、およそ俺の想像した範疇を大きく逸脱していた。
何もノエルはこれまで謝ったことがないわけじゃない。しかし今のそれは、今までの謝罪とは大きくかけ離れていたのだ。
何かを頼む時の序文でも、やっつけ感のある言葉でもない。きちんと対象を見定めた上で、心を込めて告げたのである。ノエルからそう改まって言われるのは初めての経験だった。
思いがけない出来事に声を失う俺に向けて、彼女はさらに言葉を積み重ねていく。
「いつも無茶に付き合わせてごめんなさい。いつも迷惑をかけてごめんなさい。――いつも、ナオトの努力に気付かないフリをしてごめんなさい」
「――――」
呆気に取られる。いつになくお淑やかな言動にもそうだが、まさか俺が裏でこそこそ動いていることに気付いていたという事実に。
喫茶店での撮影許可を取るために日頃バイトさせてもらったり、学校施設を利用しやすくなるよう、好成績を維持し続け学校行事が催されるたび実行委員に立候補した。俺が好きでやっていることだから、ノエルはもちろんわざわざ他の部員にも行動理由を打ち明けたことはなかった。
別に感謝を得たいと思ったわけじゃないし、今までノエルにこのことを言及されたことはなかったから、てっきり気付いていないと踏んでいたんだけど……。
彼女は小さく吐息を漏らしてから、またゆっくりと言葉を紡いでいく。
「我のやりたいと思ったことをいつだって実現してくれる。いかに愚鈍な我でも気付くさ」
「……少し大げさ過ぎないか? 交渉相手が優しいだけで、俺じゃなくてもできたはずだ」
人当たりの良い乙原や北大路でも、ノエルの要望を叶えることはできただろう。俺はその二人よりも不器用だから動き回らなきゃいけないってだけで、導き出された結果に変わりはなかったと思う。
だから彼女の評価は少しむず痒かった。
そしてそれは、俺が他者からの評価に慣れていないことも関係していた。
……ああ、そうか。つまり彼女の「ごめんなさい」は決して謝罪なんかじゃなく、きっと感謝の言葉なのだ。だからちょっと恥ずかしく感じるんだ。
そして言い慣れていないノエルはたどたどしく、飾り立てることもしないで感情をそのまま吐露していく。
「……それでも、今の我があるのはナオトのおかげだ。出会ったときも、我が映画を作り始めてからも、ずっと支え続けてくれた。――――だから、ありがとう」
「……、」
感謝されるってのはもっと気持ちいいことだとばかり思っていたが……、案外そうでもないな。まず先に照れが襲い掛かってきてどうすればいいのか分からない。
暖かい手がそっと俺の頭を撫でる。幼少期の頃から久しくされていない行為に、心臓が急激に跳ねる。
俺が感謝を受け入れずともノエルはその姿勢を崩すことはしないだろう。だからもう、これに関しては諦めて味わうほかない。その代わりに俺は、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「なあ……、どうして結末をあんな風に変えたんだ?」
主人公とヒロインは報われずに、その後二人がどうなったか知る由もなく物語は終わるはずだった。それは今までのノエルの作風から言ってごく自然なことだった。
バッドエンド。読後感の悪い、爽やかさとはかけ離れた締め括り方。それがノエル監督作品の最大の特徴である。それを今回、最後になって突然加筆修正を施したのだ。気にならない方がおかしい。
ノエルはまたも言葉を詰まらせた。何となくそれは言いづらいのではなく、どう表現すべきか思案しているのだと思った。単なる直感……じゃない。多分彼女とシェアハウスしてきた経験により、些細な変化から推測できるようになったのだろう。
蛍光灯が切れかけているのかチカチカと微かに音を立てた。そのせいでノエルの表情により深く陰影を付ける。
「――――……から」
一度目は聞き取れないほどの声量で。
そして二度目は、俺が聞き返すよりも早くに紡がれた。




