第三章⑤
それからさらに数日後。いよいよ俺たちは最後の撮影日を迎えていた。
詳しく言えば本来最終日は昨日だったのだが、今日の撮影は急遽スケジュールに組み込まれたものだった。
ノエルに指定されたロケ地は『喫茶店』。そうなれば必然、俺の伝手だと以前お世話になった山田さんの喫茶店が候補に挙がる。前とは違い急なお願いになるため、最悪断られるかも……と危惧していたが、山田さんは快くOKしてくれた。後日改めてお礼しとかなきゃな……。
今は貸切状態とはいえ、そう長く店を借りることはできない。リテイクを連発する余裕はないだろう。ここに来るまでに打ち合わせを済ませ、今はリハーサルを行っている。
「『久しぶり、ユイ』」
「『ええ、久しぶり。……カズヤ』」
俺と乙原が簡単に演技含めた確認作業を行っている周囲では、他部員が忙しなく動き回っている。
「……結構薄暗いな。もう少し絞りを上げておくべきか」
「野田くん、ちょっと隣の席との間隔近すぎない? もうちょい離した方がいいかな?」
「そうだな……もう五〇センチくらい移動させよう」
「レン、レフ板を持ってみてくれ」
「はいよっと……。この角度でどうノエルちゃん?」
「うむ……いいだろう。これでいこう」
普段は無駄口を叩く北大路も、この時ばかりは緊張感を漂わせている。緊張と言う名の糸がピンと張られ、ふとしたことで切れるのではと不安になるほどだ。
ただし直感として理解できる。――良いシーンが撮れるときは多分、こういう雰囲気があるんだろう、と。
それは多分この映画一番の長回しシーンだから、ということも関係しているのだろう。普段はカットを刻んでシーンを構成するが、今回のはほとんどワンカットでワンシーンを作る予定である。動きの少ないシーンなので比較的易しいとはいえ、セリフミス一つで全てが台無しとなる。
「どうだ? こんな感じでいいのか?」
「問題ない。それで頼む」
ホッと一息吐く暇もない。緊張で喉が渇いて水が飲みたくても、今動いてしまうと集中が途切れてしまいそうで。ひたすら頭の中で台本を繰り返し音読している。それは目の前に座る乙原も同様で、ブツブツとセリフを呟いていた。
パン、とノエルが手を叩く。
「――よし、いこう! これで終わらせる!」
ノエルと野田くんがカメラを構える。北大路がレフ板を固定させ、乙原は扉の外で出番を待っている。そして俺は、『自分』を捨て去り『カズヤ』をインストールした。
力強い言葉を第一声に続いて、ノエルはカウントを刻み始める。
「カウント! 3、2、……――――」
*
――カランコロン。
来客を示すベルが店内に響き渡る。ちらり、とカズヤが入口を見やる。――と、ついに待ち人をその目に焼き付けることができた。
センスのいいグレーキャップを目深に被り、黒のサングラスを掛けていた女性。一見すると不審者然としているものの、すぐに溢れるカリスマ性を押し留めるための小道具なのだと分かった。
彼女は一直線にカズヤの席に迫ってきて、あろうことかその正面席へと腰かける。顔の大半は覆い隠されていようと、カズヤにはその正体がいとも簡単に分かった。
「久しぶり。……ユイ」
その言葉に彼女――ユイは静かに頷いて返した。
「ええ、久しぶり。……カズヤ」
高校を卒業しておよそ二年。カズヤは大学生、ユイはアイドルとして毎日のようにテレビで輝いている。付き合う前から描いていた通りの現実だった。
彼女と自分とでは住む世界が違う。それが時を経て実現した、それだけの話だ。
「……」
ずっと会いたかった。
ずっと話したかった。
けれど、いざ彼女と顔を合わせてみると、上手く言葉が出てこない。
「それで? 話っていったい何? 私このあと移動しなくちゃならないから、あまり時間が取れないのだけれど――――」
煮え切らないカズヤに助け船を出すように、ユイは自ら口火を切った。この構図さえ懐かしくて、愛おしくて、そのまま浸ってしまいそうな心地良さがある。
しかしそうもいかない。今日を逃してしまうと、もう二度と会うことはできなくなる。あの日から止まったままの二人の時間を動かすなら今しかない。
「……頑張ってるんだね、アイドル。この間CD買ったよ」
「ありがと。ねえ、上手だった?」
「もちろん。聞き惚れた」
「そう。だけど残念、あれは機械で加工してるから、生の声とはわりとかけ離れているのよ?」
「知りたくない情報をありがとう」
悪戯っぽく微笑むユイに釣られてカズヤも笑ってしまう。何の力みもない、自然なままの笑顔。
それを見てユイはホッと胸を撫で下ろした。
「……よかった」
「何が?」
「あなたの笑顔がもう一度見れて。あの日以来、あなたはすっかり笑わなくなったから」
あの日――二人が別れた日を境に、カズヤは一時どうしようもなく落ち込んだ。
もはや立ち直れないのではないか、とトモキも大層肝を冷やしていた。
「それは……悪かった」
「いいのよ。あなたが無事乗り越えられたのなら、それで」
この二年。カズヤは事あるごとにユイのことを思い返していた。彼女はどうだろうか。ふと自分のことを思い出してくれただろうか。
「俺はただ、キミを失いたくないだけだったんだ」
カズヤは昔に返ったように、当時の感情に従いそれを言葉にしていく。
「キミはあまりに素敵な人だったから……、キミの期待に応えられる人になろうと。俺なりにもがいてきたけど、多分それは勘違いだったんだろうな」
「……、」
彼女の隣を歩く男は、それに見合った素晴らしい者でなければならない。果たしてそんなことを誰が言ったのか。否、誰も言っていない。全部彼の思い込みだ。
つまるところ、彼女との間に溝や壁を作っていたのはカズヤ自身だったのだ。今さら気付いたところで後の祭りだが……、それでも彼女のことを愛していた。
「私はあなたと付き合う前に、こう言ったのを覚えてる? 私はあなたがどれだけカッコ悪くても構わない。だからずっとありのままのあなたでいて、って……。それを受け入れるのが、恋人の役目でしょ?」
「うん、その通りだ」
「頼りなくても優しさがあって。不器用だけど私のことを第一に想ってくれて。そんなあなただから好きになったのよ、私」
「……その人の良い部分は誰でも好きになれる。だけど、その人の悪い部分は恋人にしか愛すことはできない、か」
かつてユイが言ったことの意味を、カズヤは噛み締めるように反復した。
ぴりり、と彼女のバッグから着信音が鳴った。ユイはその電話を取って、いくつか言葉を交わしたのちに切った。――時間切れだ。
ユイが席を立ったまま動かず、横顔を向けたまま口を開いた。
「もしも決して結ばれることがなかったのなら、私たちは出会わない方が、付き合わない方が良かったのかしら?」
普段なら言い淀むはずのカズヤもこの質問には即答できた。
「だとしても、俺はキミに好きだと伝えていたよ。断じて意味のない時間なんかじゃなかった」
「――――そう」
それきりユイは振り返ることもせず、真っ直ぐ出口まで歩いていく。
今日カズヤが彼女を呼んだのは、何もお付き合いを申し出るためじゃない。それはもはや二度と叶わぬ泡沫の夢。そして夢の中でユイと語るには、あまりに彼女は崇高すぎる。
今日カズヤがユイに伝えたかったこと。それは単純明快。
(ただ俺は……キミと過ごした時間が。キミを愛した想いが。俺の人生の中で大きな意味を持っているんだって伝えたかった)
カズヤは彼女の背中を目で追って、決して届かない声量で呟いた。
「「――――ありがとう。さようなら」」
彼女からも同じ言葉が聞こえたのは気のせいだろうが、カズヤはそれを深く心に留めておくことにした。
カズヤとユイはこれから先、まったく交わることのない道を歩く。
だけどこれでようやく、カズヤは別れたあの日からようやく再スタートを切ることができる。
――――その塩味を、受け入れて。