第三章③
しかしノエルはさらに渋い顔をして、うーーーむと深く唸った。
「それが我にも判然とせんのだ。あたかも霧や霞を掴むような感覚でな……、掴めそうで掴めない、といった有り様だ」
「なるほどね……」
道理でずっとしかめっ面を浮かべていたわけだ。壁を乗り越えようにも肝心の高さや強度が分かっていないのだから、克服できるはずがない。
しかし困った。本人にも分からないことを他人が分かるはずがない。しかも相手が俺で、よりにもよって女心を解せと要求してくる。無茶ぶりってレベルじゃねーぞ!
一度力になると言った手前、「うーん分からん!」とは言えないし……。安請け合いするもんじゃないな、まったく。
「じゃあその正体不明の感情を、ちょっとずつ形にしていこうか。まずはいつから結末を変えたいって思い始めたんだ?」
なんかメンタルケア染みてきたな、と内心でひとりごちる。
「いつから……か。それはほんの三日前からだ。それも撮影中、カメラを回しているときにふと違和感が生じた」
「三日前、というと『カズヤ』と『ユイ』が別れてすれ違うシーンだったな。具体的にどういうラストに変更したい、ってのは分かるか?」
するとノエルは唇を真一文字に結って頭を横へと振る。
「……分からん。我がそのシーンで何を感じたのか、漠然とさえ分かっていない。ただ納得できないと感じてしまっただけで……」
「納得できない、か」
脚本が完成したばかりのときは「完璧だ!」と鼻息を荒げていたというのに。
あるとすればノエルが撮影中に急成長し、今よりもっと素敵な結末を思いついたことだ。だとしたらそれを言語化できていないとおかしい。
安易なハッピーエンド路線もまずないか。ノエルの根底に届くものが、撮影中にあったとも思えないしな。
「あ、なら最近観た映画とかに影響受けたとか?」
「有り得んな。我、此の程はまるで観賞しておらん。そんな暇があるのなら、少しでもクオリティ向上に躍起になる」
「ですよね……」
目の前の課題が片付かないうちは、外部から息抜きを提案しない限り打ち込み続ける奴だからな、ノエルは。映画以外の小説や漫画に影響された可能性もないだろう。
――となると、俺が思い浮かぶ中で核心に至りそうなものはない。やっぱり俺が女心を理解するにはまだ早かったか。
俺が落ち込んでいると、ノエルも同様にやや俯き加減になって、
「……すまん。これ以上模索するのは我儘になるな。此度はひとまず完成を急ぐために、この理解不能の感情は後回しにするほか――――」
「――っ! いや、駄目だ!」
彼女の言葉を紡ぎ終える前に、俺はテーブルを叩いて強引にそれを遮っていた。
ノエルは『諦める』と言いかけていた。人生において何度も選ぶであろう『諦める』という選択肢を、彼女は取ろうとしていた。俺はそれを本能的に諌めたのだ。
俺はこれまでノエルが何かを諦める姿など見たことがないし、見たくもない。自分勝手で、押しつけで、本人には迷惑の塊でしかないだろうが……それでも俺は、ノエル=ラ=ヴォーデモンが『諦める』姿を目にしたくなかった。
「……締め切りのゴールデンウィークが明けるまでまだ日がある。それまでに諦めるだなんて、そんな簡単に言わないでくれ……!」
「…………」
「考え抜いた末の答えがそれなら構わない。だけど時間が足りないとか、どう表現すればいいか分からないから諦めるみたいな理由だったら、俺は断固として出演しない。妥協って言葉は、多分、ノエルには一番似合わないよ」
やっぱり俺は自分のことが嫌いだ。
自分には何も期待しないくせに、相手にはその分だけ夢を見せてくれと懇願する。自分で夢を掴むのではなく、掴むための土台になる。それが雲隠直人の本質だ。
強制はしなくとも期待はする。
そのためなら俺は夢のためにバイト代をつぎ込むことも、自由時間を費やすことに全然躊躇いはない。
「何故だ……」
しばし閉口していたノエルが最初に口にしたのは、純粋な疑問だった。
「何故、ナオトがそこまで意気込む必要があるのだ? 昨今の人間どもは必要以上に深入りせず、現状維持に努める愚者ばかり。だが貴様はそれと真逆を貫いている。何故……何故なのか、我には理解できん」
「……」
彼女の言った人間像が全てではないが、真理を突いているところもある。それが前提としてあるノエルにとって、俺の言動は不自然極まりないはずだ。
俺だって誰に対しても深入りするわけじゃない。万人にお節介を焼くことはあれど、その場限りで終わることが多い。たとえるなら重そうな荷物を持った老人がいても、その荷物を運んであげるだけで一生続けるわけではない。
その例外がノエルに対してだけって話で……あえてこの思いを言葉にするのであれば、そうだな。
「――――俺からすれば何も不思議なことじゃないんだ」
周りからおかしな奴と笑われようとも、俺自身が躊躇うことにはならない。
「凄い映画が観たけりゃ金を払ってでも観るし、それが遠い所なら何時間かけても観に行くさ。本来凄いものを目に焼き付けるためには、そういう労力を払うもんだろ。俺にとってその対象がノエルってだけで」
「……!」
「もしそんなお前と一緒に凄いものが作れるんなら、これに勝る贅沢はないと思う」
まだ何の実績も残していないノエルに対し、ここまで言うのはある種の親馬鹿だろうか。
でも期待したくもなるだろ? 毎日ずっと映画のことばっか考えて過ごして、いつだって最高のものを作ろうと頑張っている姿を見てたら。たとえ好きなことでもずっと熱中し続けることの凄さを分かっているのなら、なおさら。
「だから俺がお前のために動くのは、何も無償の善意なんかじゃないんだ。お前が作った映画を観るだけで、俺は見返りをもらってるんだから」
そういう意味では大名寺がいかに聖人であったかよく分かる。打算もなしに善行ができるなど、常人では考えられないことだ。
「…………」
ってか、あれ……? ひょっとして俺、今すげー恥ずかしいこと告白してない?
ひょっとしなくても現在進行形でしちゃってるのだが、今さら取り繕えるはずもない。決して嘘じゃないから一概に否定するのも憚られるし……。
別に愛を囁いたのではないのだから、そこまで恥じることでもないか、といっそ開き直ることにした。うん! カツオが美味しい!
するとノエルがかちゃんと箸を置いた。二切れタタキが残っている。
「……すまん。今日はもうお腹が一杯だ」
いつもはご飯おかわりするのに……。俺が変なこと言ったから?
まあ女の子にはダイエットとかその日の体調とかで変わるっていうし、あまり根掘り葉掘り聞くのも失礼だろう。
「風呂温め直して入れよ。多分ちょっとぬるくなってきてるぞ」
「うむ。承知した」
彼女の姿が見えなくなってから、俺はノエルが残したカツオのタタキに手を伸ばした。捨てるのはもったいないしな。
「つーか俺、結局何のアドバイスもできなかったな……」
必要以上に手助けするつもりはなかったものの、これは逆に何もしなさすぎだ。ノエルの話を聞いただけで、原因究明できたわけでも手がかりの一つ掴めたかどうかも怪しい。
高校生になって何度目か分からない無力感を覚えつつ、俺は旬の魚に舌鼓を打った。




