第三章 人間の俺と魔王の彼女
春になって最も暖かい気温となった今日、私は袖を折って半袖の位置まで持ってくる。登校中に身体が暖められ、教室に着くや否や暑いと感じるようになってしまった。
私は机に片肘を突いて顔を支え、目線だけを動かして教室を観察する。
開けられた窓からそよ風が入り込み、薄黄色のカーテンを優しく揺らす。学年が一つ上がり早一月が経とうとしているが、未だにどこか浮足立った風な空気が教室内に漂っている。
一定速度で動かしていた視線がある一点で止まった。窓際の席――ナオトくんがいつも座っている席だ。
昨日は熱で休むことになった、とラインで聞いたものの、今日は未だに連絡が入ってきていない。昨日より良くなったのか悪化したのかも分かっていない。
やっぱりお見舞い行けばよかったかな……。だけど、そんな深刻じゃないって本人言ってたし、それなのに行くなんて何か変だよね? それに私の家から結構遠いし、行くとなるとわりと本腰入れてないとキツイし……。
過ぎたことをクヨクヨ悩んでいると、不意に背後から声をかけられた。
「よっユカリー。今朝は何かアンニュイだねー?」
「ねーメグ、アンニュイって何ー? ヨーロッパ?」
一年生の時から友達のメグちゃんとアミちゃんがちょうど登校してきたらしい。二人も袖を捲ったりしてどうにか体温調整をしようとしている。
メグちゃんが一瞬前の私の視線を辿っていきナオトくんの席に行きつく。すると彼女はにやり、と心底嬉しそうに笑って、
「まーた旦那見てたんだー? そうかー、昨日休みで会えなかったもんねー?」
「ちょっとメグちゃん止めてよー」
「旦那って……あぁ奴隷くんのことかー。そ言えばまだ女王様もお見えになってないし。また一緒にご登校かな?」
奴隷って。いや日頃からノエルちゃんに対し何かと世話を焼いている姿を見れば、女王様と奴隷の関係に見えなくもない、かな? 残念ながらこの呼称はアミちゃんだけでなく一定数の女子も裏で使っていたりする。南無。
水を得た魚の如く目を輝かせるメグちゃん。女子にとって恋バナは格好の餌だが、メグちゃんはその三倍くらいの食いつきを見せる。
「連絡してないのん? いっつもみたいにさー、二人だけのラブ回線でビビッとさー」
「してないって。てかメグちゃんセンス古い」
実を言うと昨日の夕方ラインしたのだが、未だに返信がない。ついでに言えば既読も付いてない。万が一なんて有り得ないと思うけど、ちょっとだけショック。
えー、とブーたれたメグちゃんがしなだれかかってくる。
「てーか今日来るんかねー旦那。今大変なんしょ? 映研」
「まあーちょっとヤバい、感じ? このままだと間に合わないかも……」
「えー? それ困るってー。だってアレうちらも出てんじゃんエキストラで。友達にも出るって伝えちゃったし」
作品内に出ると言っても、背景のガヤで数カット出ているだけだけど……。登場人物が少なすぎると、世界観が極端に狭まるからなるべくエキストラは多めに入れてるのだ。
ついにはアミちゃんまでも抱き着いてきて、途端に暑苦しさが増す。二人の香水の匂いに包まれ、新鮮な空気を求めて何とか腕の隙間から顔を出す。
「ぷは。もー暑いってー」
そんな私の不満を余所に二人は私のうなじ越しに会話を重ねている。
「マジで驚いたのが、あの奴隷くんが主役張ってたことだよねー。クラスじゃあんまパッとしないのに、ちょい意外ってゆーかさ」
「ホントホント。それで恋人役がユカリっしょ? リアルじゃ超有り得ないよねー。おとぎ話みたい(笑)。演技もちょっと大根ってゆーか、童貞丸出し的な?」
「……」
両方の耳元でそう話されると嫌でも聞こえてしまう。二人の意見は客観的に見てだいたい正しい。私と釣り合っていないように見えるし、演技もまだまだ粗い。ナオトくんがこの場にいても何も言い返せないだろう。
だからせめて、ずっと彼の役作りを間近で見てきた私が、彼の頑張りを認めてやらないでどうする?
「……ナオトくんは頑張ってるよ。クランクイン前よりずっと成長してるし」
すると二人とも示し合わせた風にその話を止めて、代わりに「庇ったー」「やっぱりー」と冷やかしてくる。よもやの誘導尋問。その息の合いようは何なの?
加えて間の悪いことに、話題の渦中にあるナオトくんがノエルちゃんとともに教室へと入ってきた。メグちゃんが「ほらほら!」と肩を揺すってくる。
「キタ! 来たよ旦那! ほら会いに行かんでいいん? ん?」
「ちょ、もぉ止―めてってば!」
私たちがきゃあきゃあじゃれ合ってると、鞄を置いたナオトくんが真っ先にこちらへ向かってきている。ちょっ、タイミング悪いって。
私は二人を振り解ぎ「あっち行って」と追い払うと、拍子抜けするほどあっさり離れていった。いやあれは後で尋問する気だ、間違いない。その証拠に遠目からニヤニヤしてる。
のちのことを考えると幾分か心が重くなるが、今は後回しにしておこう。すぐ近くまで来たナオトくんは、申し訳なさそうに頬を掻きながら言う。
「……昨日は悪かったな」
こうも真摯に謝られては責める気も起きない。いや元々責める気はなかったけど。なのでこちら側も寛容な心で接するべきだろう。
「気にしないでいいよ。だいたい雨の中撮影してたんでしょ? なら仕方ないって」
「いやそっちじゃなく昨日のライン、既読スルー……というより未読スルーしちゃってごめんねって意味なんだけど」
「あそっち……て、えそっち!? ふつーに気付いてないだけだと思ってたんだけど!?」
「いやあ、ちょうど寝起きだったからさー、『何だ乙原か』ってスルーしちゃったんだよな」
「ふ、ふ……! 正直が美徳でないこと、今痛感したよ……」
わなわなと怒りで震えてきた。何なの? 私の扱い酷くない? そりゃあメッセージもらって嬉し泣きしろ、だなんて言わないけど、もうちょっと好感触あってもいいんじゃない……?
彼もいくらか反省している風だけど、正直全然足りていない。というか常識的に考えて、本人にそういうこと素直に言う? 男子って可愛い女子の前だと気張りたくなるんじゃないのか……。
わっはっはと朗らかに笑うナオトくん。病み上がりだというのにそうと感じさせない立ち振る舞い。そんな彼を見てぷりぷりしてる自分がバカらしく思えてきた。
「はあ……もういいや。でさ、今日からちゃんと出れんだよね?」
「おう。あと七日以内にはクランクアップさせときたいし、いよいよ休んでいられなくなるからな。でだ、今日の段取りとか決まってる?」
「それをラインで送ったんだけど? そっち見といてよ、もう」
「何か冷たくないっすか?」
手を払って彼を追い返す。投げやりに扱われたことに心当たりのない風に首を捻りながら、ナオトくんは席へと戻って行った。そういうところだぞ、まったく。
間もなく予鈴が鳴り私は席へと着いた。すると唐突にスマホのバイブレーション機能が働いた。チラと画面を見ると、どうやらナオトくんからのライン通知のようだった。
「…………、」
メッセージはたったの一つ。
それは彼が頻繁に使うラインスタンプの一つで、ゆるキャラが『頑張るぞ!』と可愛らしくやる気を露わにしていた。