第二章⑦
「そうですね……うん。ナオトくんもご承知の通り私は転生前、この世界で言うところの『善人おっさん』――良き行いを神に認められ、次代を生きる別の入れ物を用意された存在でした。もっとも直接的にそう呼称されたことはありませんが……」
そりゃそうだ。自分で『私、善人おっさんです!』なんて胡散臭いにもほどがある。それに多分本当の善人は自分の善行をひけらかしたりはしないと思う。
俺は茶々入れを自重し彼女の続きを促す。
「転生前は客観的に見て幸福でした。良妻に支えられ子宝にも恵まれ、良き同僚に囲まれていました。それ以前にも尊敬できる父母がいました。一般市民としての幸福のモデルケースになる、くらいの自負はあります」
そう話す彼女の目はとても穏やかで、当時の幸せを断片的に伝える手助けを果たしている。聞いていただけで羨ましく思えてくるほど、彼女は周囲に恵まれていた。
「だから私は、身に余りかねない幸せを周りの人に配ってあげたいと思いました。行ってみればそれが私の善行の始まりです」
さも当然のことのように述べる大名寺だが、そう簡単な行為じゃないはずだ。『思ったけど動かない人』と『思ったから行動する人』との間には、絶対的な壁がある。幸せをお裾分けしたい、なんて傲慢にも聞こえるが、不思議と嫌な響きはしなかった。
「お金に困っている人がいれば、伝手を頼りに職を斡旋しました。イジメられている生徒がいれば、イジメっ子との間に立って和解の手助けをしました。淫行を生業とする少女がいれば、そんなものに頼らずとも暮らしていける術を説きました。酩酊にも似た充足感と、見返りを求めない崇高さ。これらに勝る幸福はありませんとも」
今挙げた具体例の他にも、数多の善行があるのだろう。だとしたらそれらは本来諸手を挙げて称えられるべき功績だ。本人は嫌がるかもしれないけど、思わず喝采を送りたくなるような行いには違いない。
……だけどその裏に、ささくれた棘が見え隠れしているのは何故だろう? 満足げに語っておきながら、どことなくやるせなさを滲ませているのはどうしてなんだろう?
「――――けれど、」
と、彼女が小さく言葉を切ったのを受けて、この推理が誤りでないことを知る。
「お金に困っていた人は働き先のお金を盗み出し、結果その社長さんは首を吊ることになった。イジメられてた生徒はやがてイジメる側へと回り、以前までイジメられていた相手を自殺へと追いやった。心を入れ替えて真面目に働いていた少女は、ある日突然情婦時代の顧客に刺されて死んだ。……他にも似たような事例はいくつもある。良かれと思って為したことが、却ってその人の首を絞めることになったケースは」
「……、」
大名寺が僅かに奥歯を噛む。
「善行と悪行は循環の輪で繋がっている。誰かにとっての善行が誰かにとっての悪行へと変わり、必ずゼロサムになるよう帳尻合わせが起こる。私の幸せの裏で誰かが苦しんでいるかもしれない……。それに気付いた矢先、私は事故に巻き込まれて死んだ」
裕福な者がいれば貧困に喘ぐ者がいる。勝つ者がいれば負ける者がいる。
言葉で言い表すのは容易くとも、実感として得られる者は多くあるまい。正か負か、どちらにせよその道を極めなければ見えてこないはずだ。かく言う俺も理屈として分かっていても、どちらの気持ちも理解できずにいる。
いつの間にか大名寺の口調は変わっていた。素の状態が表に出ているのか。それに気付かないほど今の彼女には余裕がないらしい。
「妻と子に言葉を残せてやれなかったのは心残りだけど、その反面安堵する自分もいるんだ。これで私に集まっていた幸福が多数へと再分配されるのだから――――」
理不尽なはずの死に『彼』は激昂の断片さえ見せなかった。過去を振り返りながら、苦しみと安らぎを同居させた表情を浮かべて、『彼』は僅かに微笑んでいた。
自分のやったことが裏目になって返ってくる。それも死という形を為して。下手しなくてもトラウマになりかねない出来事だ。
もっと言えば大名寺は多分これまでの善行を悔いてさえいるかもしれない。余計なことさえしなければ、結果的にその人は幸福なまま過ごせたかも、と。裏目を引き続ければ誰だって思考が後ろ向きになるのだから。
「――――けど、あなたは止めなかった」
大名寺が言葉を区切ったのを待ち、俺はようやく言葉を挟むことができた。
見てられなかったのだ、自他ともに賞賛されるべき『彼』の善意が、ままならない現実によって踏みにじられていることが。
「たとえ裏目を引き続けても、たとえこれまでの行いが後悔に変わろうとも、目の前に困っている人がいればあなたは関係なく手を差し伸べ続けた。そうじゃないのか?」
次第に俺の声は熱を持ち、少しずつ速度を上げていく。
そう――大名寺は死ぬ最期の瞬間まで、迷いはあっても踏み止まることをしなかった。良き隣人で在り続けた。未来の自分が後悔しようが知ったことではない。今の自分が誇れることをしようと――――
あるいは『彼』の死も、誰かを庇おうとして起きた事故なのかもしれない。
すっかり『彼女』として築き上げた調子を失った『彼』は、少しだけ記憶を遡るための間を開けた。何を思い返したのかは不明だが、大名寺は瞼を閉じたまま答えた。
「……その通りだ。止めようにも肝心の身体が止めてくれなくてね」
「だったらそれは讃えられるべきだ。誇っていいものだ。ただでさえ誰も実行できそうにないことをやり遂げ、苦難さえも乗り越えたんだから」
「……、」
少なくとも俺にはできない。俺も大概世話焼き気質だと思うが、大名寺のそれは常識を逸脱している。もはや善人などという枠組みでは計り知れないのではないか。
昨今の善人という括りはひどく曖昧だ。誰かを害する者は悪人で、それ以外が善人。良いことをしなくても、事なかれ主義者も相対的に善人と言われるこのご時世。そんなカテゴリーに大名寺をひとまとめにするのは無礼に当たりかねない。
故に大名寺は『善人』ではなくて、『聖人』。
そんな人物だからこそ神様も転生させたのだろう。神が聖人に報いる、なんていかにもな話じゃないか。
「だからそんな、間違っていたみたいに言わないでくれよ。じゃなきゃあなたが救ってきた人たちにそれこそ顔向けできないじゃないか」
もっと言えば認めたくなかった。誰かのために動くことが間違いだなんて、救いのない選択肢にしてほしくなかったのだ。
ひいてはそれは俺が培ってきたことの否定となり得るからで……ああ、くそ。惨めだ。損得抜きで行動してきた大名寺と違って、俺のなんと浅ましいことか。一方的な善意に見返りを求めるなど、決して誰にも口外できまい。
温まったはずの身体が再び寒気を取り戻し始めた。俺が布団を被り直したのと同時に、大名寺がくすっと僅かに頬を緩めた。
「ふーん……。私のことを励まそうとそこまで言葉を尽くしてくれるなんて……、身に余る光栄ですわ。えぇ、ついときめいてしまうほどに」
「だーからぁ、そのわざとらしい大和撫子口調やめろって! ごほっごほっ、余計に寒気が走るわ……」
大名寺は先ほどまでのやりとりがなかったことのように雰囲気をがらりと変えた。俺が今まで接してきた彼女そのものへと。
転生前は男で、今なお精神はそちらに引っ張られていることを宣言した大名寺。だけど今となってはそっちの方がよかったのかもしれない。
器量が良くて家事も完璧、そして俺みたいなダメ男でも立ててくれる気配りも持ち合わせている。まさしく男の描く理想形。もしも心身ともに女性であれば、きっと俺は彼女のことを好きになり過ぎたことだろう。
俺は頭まで布団を覆い被り、強引に睡魔を呼び出すことにした。
結局大名寺の気配は、俺が眠りに落ちるその瞬間まで離れることはなかった。