第二章⑥
今日の昼頃にももう一回投稿します!
「――――ノエルは、どんな様子だった?」
熱い濡れタオルが背中を上下する。強めに清潔感が後を追う。マッサージ機に身を委ねるくらいの心地よさがあった。
俺は大名寺に背を向けて、気になっていたことを尋ねた。
はて? と質問の意図を測りかねた大名寺が、少し間を空けて答える。
「それはナオトくんが病床に伏したのを受けて、という意味ですか?」
「うん。今朝は意識がはっきりしなくてよく覚えていないんだ」
「ははあ。さては今は映画作りで大事な時期なのに、体調を崩して申し訳なく思っているんですね?」
彼女の推察通りだった。ただでさえ余裕のないスケジュールなのに、仮にも主役の俺が抜けるなんてとんでもないロスだ。代役を立てるにしても急すぎて難しいだろう。
ちゃぷ、と彼女は湯を入れた桶にタオルを浸けてギュッと絞りながら笑った。
「私にはノエルちゃんの感情は推し量りかねますが……、そこまで怒っているという素振りはありませんでしたよ。彼女、私の前だと口数が少ないので確かではありませんけど」
それはお前がからかうからで……。
いくら彼女の発案で雨に打たれることになったからといって、一方的に彼女を責めることなどできない。だってノエルの要求に従ったのはほかならぬ自分の意思で、風邪を引いたのも自分の身体が弱かったから。
何よりノエルの邪魔をしてしまった、という無念の思いが強い。
下唇を噛んでいると、ツンツンと左肩を突かれた。
「では次に表を拭きますから、こちらを向いてください」
「あ、じゃあお願いしますってそんな手に引っ掛かるか! こっからは俺がやるので遠慮します!」
危うく引っ掛かりかけたぜ……。介抱されるがままだった流れに乗ってしまっていた。大名寺め、何という策士。
ち、と小さく舌打ちが聞こえた気もしたが、あえて聞こえないフリを貫くことにした。俺は彼女からタオルを受け取って、やはり背を向けたまま上半身を洗う。
「……そこまで深刻に思う必要はないよ」
直後、誰とも分からない声音が、俺の背後から発せられた。
この部屋には俺と大名寺しかいない以上、発言者は彼女以外論理的にあり得ないのだが、それでも平生の彼女と異なる声音に一瞬混乱してしまう。
後ろを振り返る。そこにはやはりいつも通りの大名寺が、しかしいつになく神妙な顔つきで座していた。
そして今度こそ目の前で、ほかならぬ大名寺自身が口を開いて声を発するのを目撃する。
「ノエル嬢は筋違いにもかかわらず貴方を恨んだりしません。確かに彼女の精神構造は幼稚に傾いてはいるけれど、他者に対して不義理を働くほど無知ではありませんから」
絶大な違和感が彼女を渦巻く。――――誰だ、これは。
俺の知らない何者かが、大名寺という皮を被って鎮座しているのではないか、と疑ってかかるほど、今の彼女は彼女らしからぬ雰囲気を身に宿していた。
しかしそれを声に出して言うほど、俺は阿呆じゃないし愚かでもない。これは俺の知らない大名寺の一側面が表に顕現しているだけのこと。
そしてそれは恐らく、正確には『大名寺』として築き上げた人格ではなくて、それ以前のもの――即ち転生前の人格に違いない。
『彼』が善人おっさんと呼ばれ、敬われ、神に認められた一個体として寵愛を受けた、唯一無二の尊い人格。それが『これ』なのだ。
ようやく状況把握ができたところで、俺は『彼』の言葉に返事をする。
「……まったく。やっぱり話せるんじゃないか、男の言葉遣い」
「あら、何のことかしら?」
オホホととぼけようとする大名寺だが、これまでも所々ぼろが出ていた。日頃の上品な口調が砕けたり、少し異なるものへと変化したり。さしずめ今のは恰幅の良い紳士口調といったところか。俺のイメージした転生前の大名寺と酷似している。
だったらわざわざ大和撫子を演じずに、今のようにますらおぶりな口調の方がよほど接しやすい。
ひとまず大名寺の口調云々は保留しておくにしても、言そのものは的を射ていた。ノエルは気性の激しいところはあれど、一方的に責め立てることは絶対にない。自分が関わったことには責任を負うくらいの度量を備えている。
そのくらいとっくに理解していたはずなのに、風邪で思考が後ろ向きになっていたのか。彼女を若干悪く捉えていた。ちょっと反省。
だいたい身体も拭き終えて、俺はいそいそとパジャマを着用する。
「ふう……、だいぶさっぱりしたよ」
「それはよかったです。ふふ、講義をサボタージュしてまで戻った甲斐がありました」
「それは……申し訳ない。わざわざ俺なんかを優先させちゃって」
「こちらこそ、少し意地の悪いことを言っちゃって。けど大家さんの身に何かあれば回りまわって私たちも困るので、当然のことをしたまでですよ」
大家って……。どちらかと言えば家政婦に近いんじゃないかな。主にノエルの。掃除洗濯料理のほとんど担当してるからなあ。
俺は改めて布団を被り直す。そうしても一向に大名寺が部屋から出て行く気配が見えない。ずっと座敷童みたくこっちを見守っている。
「あのう……。風邪が移ったら悪いんで、もう部屋から出て行った方が……」
「せめて貴方が眠りにつくまでお傍に控えさせてください。そうしたら静かにお暇させてもらいますから、お気になさらず」
気になるものは気になる。特に寝顔って一番油断した表情で、なおかつ自分には分からないものだ。涎垂らしたりしてないか? とかイビキかいちゃうかも? と恥を晒すのを恐れて人前では眠れないタチなのだ。分かりませんか、この気持ち。
少なくとも大名寺は理解してくれていないらしい。どうも本気で俺が眠るまで居座るつもりのようだ。
彼女を追い出すのは一旦諦め、代わりに問いかけを一つ投げかけた。
「そう言われてもなぁ。さっきまで散々眠ってたから、あんまり眠れそうにないんだよな。……だから眠気が来るまで、もうちょっとだけ話し相手になってよ」
「構いませんが……何を話しましょうか。改まって話すこととなると少々選定が難しいですね」
「なら、そうだな……。昔話を一つ」
「というと、『カッチコチ山』や『桃次郎』などですか?」
「そんなん子どもの頃に飽きるほど聞かされたよ。そうじゃなくて……大名寺の生前の話が聞きたいなーって」
「…………」
軽い調子で聞いた俺とは対照的に、重く押し黙る大名寺。……ひょっとして俺、地雷ふんじゃった? ひょっとしなくてもそうだよな!?
「ああいや話したくないなら別にいいんだっていうかもう聞きたくないってゆーか僕もう大人しく寝ますね!」
しどろもどろにそう言い繕う姿を見て、途端に大名寺は破顔した表情を見せた。
「ふふっ。そこまで怖がらずともいいではありませんか。別に話したって構いません。ただそれをどう話したらいいものか思案していただけですよ」
いーやあれは『ちっ。こいつマジ空気読めねーな。そんなんだから童貞なんだよクソガキ』って思ってた! さすがに穿ちすぎかもしれんが、喜々として語る内容じゃないのは間違いない。
ふう、と一息吐いて、大名寺は窓から静かに外を眺める。その姿はいかにも何をどう語ろうか考えているようだった。
秒針が時を刻む音が室内を駆け回る。痛いような沈黙ではなく、かといって軽々しく打ち破るのは躊躇われる、そんな奇妙な沈黙が充満していた。
たっぷり数分かけて、ようやく彼女は脳内で原稿をまとめ終えたらしく、ぽつぽつと語り始めた。