第二章⑤
――――翌日。
「……38・2度」
急な悪寒によって朝早く目覚めた俺は、案の定というべきか風邪を引いてしまっていた。
そりゃあ雨の中雨具もなしに走り回っていれば熱も出ましょうよ……。雨に打たれるからこそ良いのであって、傘やカッパを使っていたら迫力に欠けてしまうから仕方ないけどさ……。
頭が痛い。喉も痛い。ついでに鼻水が止まらない。桜も散って初夏を迎えようとしている季節なのに、背中にカイロを張るほど悪寒が全身を走っている。
中学まで風邪を引きたがっていた自分を殴りたくなる。いくら学校をサボりたいからってこんなにしんどいなら、家に居ても何もできないだろ。寝込むしかないんなら学校に行った方がまだ楽しい。
何がしんどいかって、ほんの三時間前は「ポカリ飲んで汗かいてりゃ治るだろ」と思ってたのに、今測ったら熱が7度も上がってたことだ。勘弁してくださいよ……。
今日は月曜日。予定なら今日は撮影を再開するはずだ。主役の俺がいないんじゃ、撮れるシーンも限られてくるだろうし……うう、本当に申し訳ない。
ラインでは早速北大路が「無理すんなよ」と返信してくれた。授業中だったことはこの際目を瞑ろう。心が温かくなるぜ……。風邪引くと気弱になるし、誰かと関わるだけで気が紛れる。
だけどそう何度もラインを送るのは気が引けるため、結局俺は我が家で一人寂しく寝込むほかないのであった。ノエルはいつも通り学校に行ったし、大名寺も一限目の講義に向かったからな。寂しいよぅ。
きっと俺はこのまま誰にも看取られず死んでいくんだ……。葬式は身内だけでひっそりと挙げられ、学校では「あいついつの間にかいなくなってんな」くらいにしか思われず、そこらの不登校生と同じ扱いを受けるんだあ……!
どうせ俺なんか、と思考が後ろ向きになっているのを自覚する。自覚しているものの特に止めようとは思わなかった。心のブレーキが緩くなっているのだ。
ぐすん、と鼻を啜っていると、外でドルルン! とエンジン音が轟いていた。あ、頭に響く……。こんな真っ昼間からバイク乗り回してんじゃないよ!
「ごほっ、ごほっ」
ついには咳まで出てきた。その度に喉には焼けるような痛みが走り、頭には鈍痛が広がってくる。
苦しみ悶えている俺の下へ、一人の足音が歩み寄ってくるのが分かった。そう言えば鍵閉めたっけ? と泥棒の襲来に身を強張らせる。
「――――やあやあ今帰りましたよナオトさん。私が帰ってきたからにはもう安心です」
扉を開けて入ってきたのは朝八時前に出たはずの大名寺だった。月曜日は三限まで講義を入れているはずなのに。
何故帰ってきたのか、と確認……なんて今日ばかりはできなかった。だって心細いところへ、頼りになる年長者が帰ってきてくれたのだから。
俺は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら彼女を出迎えた。
「おっざん~~~っ!」
「今はもうおっさんじゃありません!」
でも中身はおっさんじゃん、といつもの俺ならツッコミを入れるが、これまたスルー。
日頃わりと邪険に扱ってきたというのに、大名寺は変わらず俺の看病をしようとしてくれる。偽りない善意に胸がいっぱいになる。
「それじゃあ昼餉を作ろうと思うんですが、雑炊くらいなら食べられますか?」
「ごほっ……! た、多分それくらいなら何とか」
「まあ嫌と言ったところで食べさせますが。ああ無理して身体を起こさないで。私にもある程度料理の知識はありますから」
彼女は布団を掛け直してくれてから、キッチンのある一階へと降りて行った。
基本料理は俺が作ってたから、同居人たちに作る機会はそうなかったはずだ。ノエルなんて未だにインスタント麺すらまともに作れない。そう考えると大名寺にも一抹の不安を抱えざるを得ない。
ま、まさかラブコメにありがちなゲロマズ料理を出してくるのか!? 味見してたら普通提供しねえだろってツッコミを入れたくなるくらい、見た目からしてアウトな料理を! 何が出てくるか分からないパルプンテ料理の襲来に、今から戦々恐々とする俺。
しかし数分後、大名寺はまず最初にマグカップに注いだ飲み物を持って上がってきた。さすがに飲み物を仰向けのまま飲むことはできないので、ひとまず上半身を起こした。
差し出されたそれは湯気が立っており、寒気の酷い身体にはうってつけの代物に違いなかった。これだけで一定以上彼女の料理スキルに信頼が置ける。
「これはミルクティーに生姜とはちみつを混ぜたもので、チャイ風に仕上げたのがミソですね」
へえ、と試しに一口。生姜と聞くと強い辛さを想起するが、かなり甘味を多めに入れているようであまり感じられなかった。熱い液体が喉を通り、全身に染みわたっていくようだった。
「美味い……」
コップから口を離した俺は、我知らずそう呟いていた。それを聞いた大名寺が満足した風に微笑む。
「良かった。今雑炊の方に取り掛かっていますから、それを飲んでお待ちくださいね」
「はぁい……」
ずず、ともう一口啜る。マジで美味い。風邪を引いてなくても日常的に飲みたいくらいだ。
こう言っては何だが大名寺に家事スキルが宿っているのは意外だった。転生者というのだから、現代知識は当然常人よりも薄いはずなのに……。
「いやそう言えば確か、大名寺が前いた世界は今とそう変わんないって言ってたな……」
異世界というよりも並行世界に近い、と彼女は語っていた。けど歴史や科学に多くの差異が見られ、別物には違いないと付け加えていたが。
大名寺が気を利かせて窓を開けていってくれたので、一気に室内の解放感が増したように感じる。今朝はまだ雨雲が残っていたから開けづらかったんだよな。今は雲も少なくなったみたいだけど。
さっきまで滅入っていた気分もすこぶる晴れやかなものへと変わっていた。病は気からというが、迷信ではなかったらしい。間違いなく大名寺のおかげだ。
ゆっくりミルクティーを飲んでいるうちに出来上がったのだろう、彼女はお盆の上に土鍋を載せて運んできた。
「はーいできましたよー。卵、長ネギ、ワカメを多く入れました。どうぞ召し上がれ」
土鍋の蓋を開けると、途端に籠っていた湯気と匂いが爆発したかのように解放される。卵やだしの香りが鼻孔を刺激する。
大名寺の説明通り、ご飯を卵で溶き具にはワカメが多めに入っている。水っ気が多いのが個人的には嬉しい。
「はい、あーん♪」
ではいただこう! とスプーンを探すも、一瞬早く大名寺が俺の口元によそった雑炊を突き付けていた。こ、これが噂の「あーん」なのかっ!? 野田くんが彼女にやってもらっていたのを見た時以来だ! よもや自分がされる側になるとは思ってもみなかったぜ……。
奪い返すのは簡単だが、これも彼女の厚意であることは確かなので些か憚られる。それ以上にその献身的な優しさが今は何より染みる。俺は誘惑に負け慎重に雑炊を口に含んだ。
卵の旨味の中に生姜の辛さが入り混じり、ワカメとネギが食感のアクセントとなって食欲を増進させる。食べる前はあまり食べられる気がせず不安に思っていたが、どうやら杞憂だったようだ。
大名寺は俺が咀嚼し、ゆっくりと飲み込むまで時間を置いてくれて、実に絶妙なタイミングで次を運んでくれる。ちょっとした従者を侍る王様気分である。
食べ終わる頃には身体は温められて発汗してくる。それ以前にも寝汗を掻いていたため、パジャマに汗が張り付いて不快感が増してしまった。
それを目聡く見抜いた大名寺が、
「かなり汗を掻いてきたようですね……。それじゃあ着替えのついでにちょっと身体を吹きましょうか」
「……えっ? いやタオルとか持って来てくれたら自分でやるんで、もう充分ですよ?」
なんて釘を差しておく。どう考えても『私がやって差し上げる』という意味にしか聞こえなかったからだ。たとえるならナースが入院患者に対して言うような、そんな慈愛が滲み出ていた。いや嬉しいんだけどね?
とはいえ女性に肌を晒すのは気が引ける。頼む! 元男ならその辺りのことは察してくださいお願いします!
「駄目ですよ。お一人ですると背中に手が届かないでしょう? 私がお手伝いした方が合理的ですので」
そんな願いも現女性には通じなかったようだ。彼女の言った通りだとしても、譲れぬものが俺にもあるのだ。
「……だったら背中だけ。正面は自分でするから」
それが俺にできる最大限の譲歩だった。




