第二章④
『役になりきれ』というのは、多少なりとも演劇に関わったことのある者なら聞いたことのある文句だろう。プロの舞台から小学校の学芸会まで、徹頭徹尾キャストに求められることだ。
単純明快な要求だが、実現するとなると途端に困難となる。まず大々々前提として、人間とは自分以外の何者にもなれない。これは俺のキャスト経験を通じて理解したことだ。乙原に聞かせれば烈火の如く反論されるだろうな。『それが未熟の言い訳にはならない』と。
北大路に演じるコツを尋ねてみた時は、『現代文の試験なんかと一緒だよ。その登場人物の設定やらセリフを鑑みて、それを演技に反映させる……。身も蓋もないことを言えば、ノエルちゃんが納得できる演技をすれば最低限だよ』と語っていた。ホントにあいつはそれっぽいことを言うな。
――――俺が演じる『カズヤ』は、客観的に見て腹立たしい男だ。
同じ学校に通い、同時にアイドル活動をしている『ユイ』と幼馴染だった『カズヤ』はある日彼女に告白するところから物語は始まる。ノエルの思惑をまとめると身分違いの恋をテーマにしているらしい。平凡な『カズヤ』と人気アイドルの『ユイ』、貴族と平民とは違い随分と俗物的な関係だが。
しかし何と『ユイ』は告白をOKし、二人のカップル生活が幕を開ける。……しかしそれも長続きせず、『カズヤ』は自分と『ユイ』との差に愕然とし次第に悪化していく。
そして今から演じるシーンは、互いに反りが合わなくなったことを感じ、どちらともなく別れを告げ、『カズヤ』がみっともなく雨の中慟哭を上げる、といった場面だ。
要するに俺が演じるべきは静かに一人雨に打たれる、なんてジャニーズっぽい役割ではなく、失敗したことを悔いる愚かな少年だ。ある意味等身大でやりやすい。そこまで自分が愚かでないと信じたいけど……。
ザーッ! と雨が降りこめる中、カメラマンを務めるノエルが大声でカウントを刻み始める。
「それでは始めるぞ! シーン6! カット7! テイク2! 三、二……―――」
今日はカチンコを用意していないため、だいたいのタイミングを俺が判断してのスタートとなる。この雨だ、そう何度もやり直してはいられない。
かと言って演技に関係ない焦りを滲ませてもいけない。雨が鬱陶しい、早くお風呂入り直したい、とかは全部置き捨てないと……。
俺はカメラに背を向けて走り出す。そのほぼ真横を並走するようにして大名寺がバイクを押している。正直かなりの力仕事だが、彼女曰く「平気です。わりと筋力値にパラメータを振ってますから」と意味の分からないことを言われた。
「『っ……ぁ、ああぁ、あ゛ぁあああああああああっ!!』」
全速力で走っているフリをしつつも、後ろの二人がついて来られるくらいのスピードで走る。真横からの撮影でもなければスピード感などそう分からないだろうし。
誰の許可も取っていない――時間がなかった――ゲリラ撮影。警察に見つかれば即補導。じゃなくても近隣住民の方々には頭のおかしい奴と睨まれること待ったなしだ。
平生の俺なら間違いなく羞恥心によって躊躇われた行為。しかし今宵の俺は些か気が大きくなっているのか、いつも以上に役に没頭していた。
ただ走りながら叫ぶ。それだけのシンプルな演技。余裕があるからこそ、俺はより感情を込めて演じることができた。
――――俺が演じる『カズヤ』は、客観的に見て腹立たしい男だ。
誰からも愛され、表舞台で輝かしい活躍を収めている『ユイ』に惹かれ続け、ようやくその想いが成就したというのに、彼は自分から劣等感を感じてしまった。
描写されてはいないものの背景には、周囲からの冷やかしや暴言があったのかもしれない。いやきっとあったはずだ。そしてその度に彼は居心地の悪さのようなものを抱えて過ごしてきたのだろう。
……かく言う俺もそうだから。映研の中で、ふとしたことで居心地の悪さを覚えることがないとは言い切れない。何もない自分が彼女たちの邪魔をしているんじゃないか、と不安になることもある。
自分にカメラの腕がもっとあれば、ノエルの理想を体現することができたんじゃないか?
自分に演技力がもっとあれば、乙原は伸び伸びとした演技ができるんじゃないか?
俺と彼女たちでは住む世界が違う。
凡人と天才の壁を直に感じてしまうことが情けなくて。
こんなことを嫌でも考えてしまう自分が憎らしくて。
彼女と俺との間に大きな溝を感じてしまうのが、どうしようもなく――悲しかった。
だからなのだろう、俺が『カズヤ』を腹立たしく思うのは。
そんな情けない自分と無理矢理向き合わされているようで……。同族嫌悪とはまさしくこのことを言うんだな。とどのつまり、北大路の見立ては正しかったわけだ。
「ぅぅ……ぅおおぉおおおあああぁああああーーーーっ!!」
鬱屈とした気持ちを織り交ぜて俺は叫び続けた。晴れることのない暗雲目掛けて。
これは到底演技などと呼べるものじゃない。ましてや『役になり切っている』わけでもない。ただ俺と『カズヤ』を重ね合わせたフリをして、行き場のない感情を発奮させているだけの見苦しい行為。
ちょっとやそっとのことで晴れることのない雲は、未だ俺の心に深い陰を落としていた。