第二章③
「よくもやってくれたな」
俺は隣で食器を拭いている大名寺にそっと恨み言を吐いた。
ノエルの裸を見たからといって空気が悪くなったり、顔を合わせてくれなかったりなんてイベントはなく、至っていつも通りのノエルだった。あえて言えばいつもより早く夕食を食べ終え、早々に自室へ籠ったことか。未だに映画作りに関して頭を悩ませているのだろう。
俺が洗った皿を大名寺へと渡し、彼女はそれをすまし顔で拭いながら言った。
「些細な伝達ミスでしたのに……そこまで強く言われると私、悲しくなります」
「反省の色がまるで見えないことが問題なんだよなあ」
現状ケロッとした様子の大名寺に対し、どうして遠慮をする必要があるだろうか? いや、ない(反語)。
ノエルだから大事になっていないだけで、他の女子にやると最悪警察沙汰になりかねん。大名寺もそこは考慮していただろうが、少なくとも俺の寿命は縮まった。
とはいえ見苦しいものを見せられたのではなくて、眼福だったのは事実だからさして強く言えないが。今夜見る夢の内容は決まったな!
「でも、どうしてそんな真似をしたんだ? いくらお前らが仲悪くても、俺をけしかけてどうこうするなんて今までなかったじゃんか」
横目で大名寺を見やる。彼女は手を止めずに答えた。
「……少しノエルさんが煮詰まっているようでしたから、気分転換にでもなればと。これまでも製作中は忙しそうにしていましたが、今回はいつもと違っているようなので」
「……、」
言われて、俺は少し押し黙った。
彼女の言う通り、今回の映画作りはいつも以上に進んでいない。通常ならスケジュールに遅れが出たとしても、最後には強行軍で間に合わせていた。しかし今回は最後のブーストを以てしても間に合うまい。ある程度余裕のあるスケジュールを立てているとはいえ、五月にある定期上映会に間に合うかどうか。
俺たちキャストが感じている以上に、監督のノエルが焦りを覚えていることだろう。寝不足のあまり授業中のほとんどで居眠りをする姿をよく見かけている。
「俺も何とかして手伝ってやりたいけど、作品の全体像はノエルの頭ん中にしかないし、勝手に手直しをするわけにもいかない。妥協を知らないからな、あいつ」
妥協しない分、意地でも期限には間に合わせてきたノエルが何故今回に限って遅れているのか。未だに理解しがたいところだ。
キュッと水道を止めると同時に、大名寺がポツリと呟いた。
「……どうしてノエルちゃんがあんなにも苦悩しているのか。多分その理由はね――――」
どうやら思ったことが声に出ていたらしく、大名寺は自身の考えを口にしようとした刹那。
「――――ナオト、今すぐ外へ出るぞ!!」
バタン! とリビングのドアを開け放ち、学校指定のジャージに着替えたノエルが割り込んできた。びっくりするなあもう……。
でもまあ事態はノエルと一緒にいれば日常茶飯事だ。俺はすぐに落ち着きを取り戻して要件を伺う。
「でどしたの?」
「此れよりゲリラ撮影を敢行する! 今すぐ市街地へと赴くのだ!」
「えぇええええええええっ!?」
いつもよりぶっ飛んだ発言に度肝を抜かす。ちらり、と外に視線を向けると、わりと強い雨が降りしきっていた。
何でよりにもよって雨の中……。いや、雨の中で演技することは一層悲壮感を漂わせることに一役買う。初歩中の初歩の技法である。恐らくノエルはそう言った絵を思いついたのだろう。
理由を問いただすまでもなく、彼女は自ら進んで答えた。
「『カズヤ』が『ユイ』と別れた直後、慟哭する場面! あそこを撮ろうと思っておる! 元より何かが足りんと思っていたが、今なら良い絵が撮れる予感がする!」
「確かにそうだけど……人手が足りないだろ。もう夜八時過ぎだ。とてもじゃないが他の部員を呼べる時間帯じゃないぞ」
「案ずるな。このカットは『カズヤ』一人いれば事足りる。そして我がカメラを回す」
「マイク……はいらないか。大したセリフないしな。だけど照明はどうすんだ? 街灯だけじゃまともな絵にならないだろ」
「う、む……それは…………」
気持ちが先行しすぎてしまったのか、そのことを失念していたようだ。キャストにしっかりとした光源が当たっているか否かで仕上がりが全然違ってくる。いつもは自作の照明器具を使っているが生憎部室に置いてある。街灯は上から降ってくる光なので顔が真っ暗に映ってしまうのだ。
「せめて真正面から強い光源があればな……」
こうなったら迷惑を承知で北大路を呼ぼうか。だけどあいつの家はここから離れているしな……。乙原は論外、こんな夜道を歩かせるわけにはいかない。頼りになる野田くんは……やめておこう。彼女とイチャコラしてる可能性がある。
万事休すか、と諦めかけたところへ、沈黙していた大名寺が不意に声を上げた。
「――――私がやりましょうか? 照明」
彼女の申し出について、俺も考えなかったわけじゃない。それが一番手っ取り早いとすぐに分かる。
「……ありがたいけど、肝心の照明がなかったらどうにも」
懐中電灯程度じゃキャストを照らすには不十分だ。ある程度強い光でなければ。
それが最大のネックなのだが、大名寺はやや得意げになってふんすと息を吐いた。
「ご存じなくて? 私、こう見えてバイク趣味がありまして」
「あっ」
言われて、はたと気付かされる。大名寺は大学までの道のりを中型バイクを使って移動しているのだ。時に着物のまま跨る姿は、坊さんが大型バイクを乗り回すくらい……いや、それ以上の衝撃がある。
降って湧いたような解決策に、俺は気分が高揚した状態のまま考えをまとめる。
「確かにっ。あのバイクほどのライトなら十分に照らせる……! 欲を言えばちょっと不自然に映るけど、この際それには目を瞑ろう」
万全を期すなら次の雨に備えてきちんとした照明を用意して臨むべきだろうが、先日見た週間天気予報では、今日を逃せばいつ雨が降るか分からないほど晴れ間が続くらしい。そして雨が降った時に手が空いているとは限らない……主にノエルが。
基本的に妥協を許さないノエルも、これが今できる最善と認めたのか、俺の向けた承諾の視線に対し深く頷いた。
パン、と一度強く手を叩きノエルが気を引き締め直す。
「よし! 然らば急ぎ準備を整えるのだ! 我はカメラの防水を仕上げる! ナオトはセリフの確認作業を! ……カリンも雨具などの準備を整えておくがよい。それと――助力感謝する」
「……今何と? 声が小さくあまり聞こえませんでした」
「っ……! 我は二度同じことを繰り返さん! ともかく準備をしておくよう!!」
そう告げて、彼女は再び階段を上り自室へと戻っていった。準備しておけって二度繰り返したじゃん……。
ふふふ、と楽し気に笑う大名寺に向けて、俺は一言諫めておくことにした。
「あんまりからかわないでやってくれよ。ノエルはお前ほど人のあしらい方が上手じゃないんだ」
「だから良いのではありませんか? 初々しくて、からかい甲斐があって……他の人ではこうもいきませんから」
彼女の素性が元魔王であることを知っているにもかかわらず、この対応。大名寺もまた転生者なんだな、と改めて再確認したのだった。