第一章⑨
――――その日の帰り道。
私はいつになく物思いに耽っていた。それに伴ってため息の数も増えていく。
しかし周りと違うのが、私はそういった感情を表に出さず覆い隠すことができる、ということだった。この辺りは演技を学んできた経験が活きている。
……それが特に、悩みの種であるナオトくんが隣にいるのであれば、なおさら必死にもなる。いかに彼が鈍いと言えどふと吐き出したため息が耳に届いてしまうかもしれないから。
「乙原」
そう彼が呼びかけてきた。
何? と問い返す間もなく、ナオトくんは二の句を紡いだ。
「ありがとな、今日は。色々と勉強になったし、何となく『カズヤ』の役も掴めた気がする」
「……それは、どういたしまして」
それきり彼との会話が途切れてしまう。少しぶっきらぼう過ぎたかな? だけどいつもこんな感じで返してるし……。
ちょっと不安に感じたけど、無理してこの沈黙を打破しようとはしなかった。言葉を交わさなくても充実している、と感じているからだろうか。
その代わりに私は、少し昔のことを自然と思い返していた。
私は中学を上がる前には既に役者を引退していた。表向きには休業だったようだけど、私に戻る気はなかったのだから引退と呼んで差し支えないだろう。
ともかくただの一般人に戻った私だったが、周囲はそう受け取ってくれなかったようで。元子役として事あるごとに特別視されてきた。色んな人が寄って来たし、付き合ってくれと告白してくる男子は後を絶たなかった。
別にそれは仕方ないことだと思った。テレビの影響力は痛いほど理解していたし、それを無かったことにしろだのと、周りに強制するのはおかしな話だ。十年後にでもなれば皆忘れているだろうから、さして苦痛でもない。
……ただ私との会話の種にするつもりか、かつて出演したドラマのことについて言及されることが頻繁にあった。特に男子が顕著だった。「すっげー良かった!」「演技上手だね」とか、中には見当違いな称賛をする人までいた。
詰まるところ周囲の人は、今の『私』を見てくれていなかったのだとようやく気付いた。
役者時代の『私』を私に重ねて、いつだって比較されるように生きてきた。
「ユカリちゃんかわいい」は子役時代の私に向けて。
「ユカリちゃん凄い」は子役時代の私に向けて。
自意識過剰な面もあるのだろう。しかし私にはそれらがどうしようもなく気持ち悪く思えた。
肯定的なことばかり言われて女王様気分でいられるほど、私は高慢ちきではなかったのだ。何もかもが都合良く感じられて、それを気持ち悪いと感じてしまう性根の持ち主だった。
そういった感情を包み隠しながら、私は高校生になった。
両親に頼み込んで地元を離れた公立校へと入学したものの、結局過去の呪縛からは逃れられなかった。一人でも知っている人がいると、あたかも感染するみたいに周囲へと情報が伝播していく。
だけど、それでも。何も問題はない。たったの三年間欺き続ければいいだけだ。周囲を、自分を。そうしてやがて大人になれば、いい加減世間も忘れた人で溢れ返るはずだから。
「――――正直言って乙原さんって、最初の『子連れ探偵』以外パッとしないよね」
だからナオトくんがそう言ってくれた時は、心底驚愕したものだ。その時の衝撃を私は今なお覚えている。
ほとんど初対面だったことを加味すれば、あるいは失礼に値する発言だったかもしれない。けれど私にとってはそれがとても新鮮に感じられた。
もちろんそれが的外れな指摘であれば私も不快感を感じていただろう。しかし事実、私にとっての代表作は彼の言う通り『子連れ探偵』で、それ以外は脚本だったり私の演技力だったりに不満を抱いていたため自己評価は低かった。
後で聞いた話によると、どうやら彼はその時から映画作りのためにドラマを見始めたらしく、偶然私が出ていたドラマを観たとのことだった。
ぬるま湯のようだった称賛の中で、ある日突然彼は冷や水をかけてくれた。微睡の中にいた私を目覚めさせてくれた。当時の私にとっては、数多の肯定よりも一つの否定が何よりの良薬だったのだ。
記憶の反芻に引っ張られて、私は彼の横顔をそっと見つめる。
雲間から覗く夕焼けを浴びて眩い彼は、変わらず一年前のままだった。
「……あ」
と、ナオトくんが不意に呟きを漏らした。
そのまま彼は立ち止まって、反対側から歩いてきた一人の男性に向けて会釈をする。向こうの男性も気付いたようで、同じく止まって手を振った。三十代くらいの優しそうな雰囲気の持ち主だった。
「やあ雲隠くん。こんな所で奇遇だね」
「はは、そうですね。あっ、この間はどうもお世話になりました」
気さくな様子で言葉を交わし合う二人。一方面識のない私は置いてけぼりを食らうため、ジッと黙って会話の成り行きを見守る。
すると即座に私に気付いた男性がおや、と私たちの顔を交互に見つめる。
「これはお邪魔をしてしまったようだ。せっかくのデートに水を差してしまった」
「いえ別に……。そういうんじゃないですよ」
私が即否定すると男はへえ、と首を捻った。思春期の男女が仲睦まじく休日に出歩いていたら勘違いもするか。
「ともあれ、私はこれで失礼するよ。買い出しの途中でね」
「はい。また何かあったら呼んでください。お手伝いしますよ」
男の背中を見送った後、私は好奇心でふと尋ねた。
「あの人誰? 私、どこかで見た気がするんだけど……」
「ん? ああ。山田さんはこの近くにある喫茶店のマスターだよ。ほら、こないだ撮影で使わせてもらっただろ?」
「ああ、道理で……」
見覚えがあったはずだ。二か月ほど前に彼の喫茶店で数カット撮らせてもらったことを思い出す。渉外担当のナオトくんなら顔見知りで当たり前だ。
それはともかくとしても、私は少し気になった部分を再度問いかけた。
「でさっき言ってた『お手伝い』って何なの? バイト?」
何の気なしに尋ねたつもりだったが、彼は途端に「しまった」と口元を押さえた。どうしたんだろう?
あー、とナオトくんは言いづらそうにしながら白状する。
「……ほら、何の見返りもなしにお店で撮影させてくださいなんて言えないじゃん。だから前に何度か、バイトがいない時なんかに代打で出勤してんだよ」
「……ぇ?」
「ああもちろんバイト代は貰ってるぞ? けど面識があった方が交渉もスムーズにいくし、俺もバイト代が手に入るしで良いこと尽くしでな。何かとちょうど良かったんだよ」
知らなかった。まさか彼が隠れてそんなことをしていただなんて。
しかしよくよく考えてみれば、カメラやマイクを持ち込むだけで結構場所を取るし、キャストも喋るのだから周囲の客の迷惑になる。プロの映画ならまだしも学生相手に許可を出す店は少ないだろう。
だとすれば以前に使わせてもらった遊園地やカラオケでも、彼は同様に手伝いをしているのではないか? 結果いくつもバイトを掛け持ちしているのでは?
――――いや、もしかしたら。ナオトくんが学校で好成績を修め続けているのも、教師からの印象を良くするためなのではないか。
客観的に見て、ただの部活動の一環でそこまで身を粉にして動く学生が果たしているものか?
考え過ぎかもしれない。憶測の域を出ない。だって彼は進んで口にしようとはしないから。けれどこれが事実だとすれば、時折自身を「役立たず」と嘲笑うのはとんだ過小評価だ。
「ナオトくん、もしかしてあなたは――――」
事実確認を行おうと思ったが私は直前で口を閉ざした。
言ったところで本人ははぐらかすに決まっている。そのくらい今までの付き合いで容易に想像できた。変なところで謙虚な男子だからなあ。
途中で言いよどんだことで却って訝しまれてしまった私は、代わりに別の言葉を用意することにした。
「……ううん。明日からも一緒に頑張って映画を完成させようね」
「うん、そうだな」
夕陽が輝きを増したように見えたのは、多分私の勘違いなんだろう。
こうして私たちの疑似デートは、あっという間に終わりを告げたのであった。