逃走
「おれぁなにもやってねぇ!おれぁ悪くねぇ!」
そう叫びながら暗闇の中で一人走る男がいた。身の丈は五尺四寸、腰には刀の刺している。後ろから追いかける足音がする、奉行所の者だ。男は盗みを働こうとしたものの、その前に彼らに見つかってしまったのだった。
全く俺はついてない、男は逃げながら思う。戦の世が終わり、徳川の世となってからというもの不幸なことばかり続いた。そもそも、自分の仕えた家が関ヶ原で西軍につかなければ、このようなことにはならなかったのだ。西軍は負け、その後仕えた家は改易をうけてお取り潰しになり、そのまま着の身着のまま逃げるようにして江戸へ来た。今日を生きることさえ大変で、盗みを働かなければ到底生きていけない今の有り様に、かつて戦場で一心不乱に刀を振り回し、敵に立ち向かう猛き武士の姿は皆無と言ってよかった。
男は橋を越えてしばらく走って右に曲がり長屋の中に入った。
「何処だかわからん...」
男は荒い息が混じりながら呟いた。江戸に来てまだ日が浅いせいで見るもの全てが新しくここが何処なのかも分からない、そんな状態だった。だがここで捕まるわけにもいかないので、近くに空の臼を見つけてその中に入って難を逃れることにした。臼の置いてある家の奥から人のいびきが聞こえたので、この家の者の眠りを妨げてしまうな、と謝罪しながら臼の中で息を潜めた。間もなくして、奉行所の者たちが通り過ぎていく足音が聞こえた。誰も臼にその人がいることも知らずに行ってしまった。男は音が聞こえなくなったことに安心して眠りに落ちた。
次の日、長屋は臼の中の浪人で朝から大騒ぎになったことは言うまでもない。そしてこの男、歴史に埋もれ忘れ去られた剣豪山上勘助であり、その後この長屋は彼に果し合いを申し入れる浪人で溢れることになる。