第七十五話:<金髪少女に狂った男:中>
盛大な遅刻すいません。筆がノリ続けてヤバいです。少々精神的にショックを受けている方が、捗るものなのかもしれませんね。新たな真理を得たかもしれません。
少年の手元に突然転がり込んできた、権力の座。
欲する者にとってはこれ以上ないだろう垂涎の逸品を前に、
少年は、頭を抱えて困惑と拒絶の意を示した。
男爵の地位。
それを得た者は、自領内において絶対にして唯一の権限を獲得し、国王の干渉さえ許さない強大な力と、それを振るう責任を負わされる。
その日暮らしの平民、明日をも知れない貧者達、自身の成り上がりを夢見る貪欲な者達にとっては、何に替えても手に入れたい、この上なく羨ましい、祝福されし権力だ。
けれど彼にとっては――この上なく、呪われし権力だった。
彼はずっと、急逝してしまった兄が継ぐものと思い、それ以外の可能性を考えていなかった。
彼が継ぐことになど、夢にも思っていなかった。
幼馴染曰く”想像力の足りない”彼らしいと言えば、彼らしい。
彼は父に、自分には男爵の地位は重すぎると伝え、世襲拒否の訴えを固持した。
領地経営の勉強など、彼はまともに行ったことが無い。
自分が何か大きな失敗をしてしまい――それが元となって自身の権威が失墜することを、第三者から見ればいっそ滑稽なほど臆病に恐れた。
しかし、爵位継承のルールは当代貴族を含め、何者にも覆すことはできない。
堅固にて絶対なる「王国法」の規定に背くことなど、法制定者たる王自身にすら許されないのだから。
黙って小さく首を横に振り続ける当代男爵の前で少年は膝を折り、深くうなだれた。
今にも消えてしまいそうなほどちっぽけで、頼りなく体をふらつかせる息子の頭に、男爵は手を載せ、告げた。
「なに、領地の経営など、家臣の者達に任せておけばよい。お前には……そうだな、差し当たっては男爵位となるお前に相応しい嫁を取らせようじゃないか。今の婚約者の彼女には気の毒だが、まあ、納得してくれるだろう」
一瞬、少年が背をピンと伸ばし、体を硬くしたが、すぐにくたりと崩れる。
「良き妻に支えられながら、仕事を一つ一つ丁寧に覚えていけ。私も……、そうやって積み上げてきた」
少年は口を開き、何事かを言わんと試みた。
けれど、強張って細かく震えるその喉が、主の望む言葉を紡ぐことは、ついぞありはしなかった。
「やあ、ラターシャ。ああ、今は”ラターシャ夫人”とお呼びした方が良いのかな?」
「その気障な口調、今すぐ止めて。鳥肌が立ちそう。……まだ婚約したばっかりよ。それで? この度めでたく男爵の位を賜ったお方が、こんな木端貴族の娘に、何のご用かしら? 未婚の女性を自室に連れ込むなんて、外聞が悪いわよ」
「つれないねえ。ご心配なきよう、私の妻は実に寛大な方でね。どこぞの口の悪い娘とは比べ物にならないくらい気立ても良く、健気に夫を支える絵にかいたような良妻さ」
「……別にそんなことは聞いていないわ」
モリガン青年は大仰に両腕を広げ、孔雀の羽のように派手な一張羅を見せびらかしながら語り上げた。
商人の成金小僧でもこんな恰好は普段着として選ぶまいというような、目の痛くなりそうな派手派手しい、品の無い色調だ。
精一杯男爵の威厳をつけようと躍起になっているのかもしれないが、ラターシャの目からは、正直道化のおままごとにしか見えない。
「随分、趣味が悪くなったのね」
「どういうことだい?」
「――何でもないわ」
所詮、自分とこの男では、住む世界が違う。
そう考えたラターシャは、忠告の言葉を打ち切り、口を噤んだ。
これから彼が本気でおかしな行いをした場合は、自分ではなく、その良い妻とやらが代わりに止めてくれるのだろう、と。そんなことを思いながら。
持参した箱からとっておきのワインを取り出そうとしているモリガンから目線を外したラターシャが、革張りのソファーに身を沈めながら、視線を辺りに彷徨わせ始める。
若き男爵の私室は、人の住む部屋とは思えぬほど生活臭のない、小奇麗な部屋だった。
「貴族の私室」は、「貴族の友人」を招待する場という意味で、完全に私的な空間という訳ではない。
見栄っ張りなモリガンが整えたのか、あるいは、美的センスのない彼の代わりにその妻が整えたのか。
いずれにせよその空間は、かつてのモリガンの混沌とした私室とは似ても似つかないものであった。
若きラターシャが足を踏み入れる度に感じた、木机にこぼれた魔法薬の渾然とした香りや、魔法装置の資材用にため込んだガラクタの山、読み途中で投げ出された書籍の山といった、かつてのモリガンを感じさせるものは何一つとして残っていなかった。
それを見て取ったラターシャの瞳が、寂しさの光を宿してパチパチと瞬いた。
「さあどうぞ。私の生まれ年と同じ年にこの地で生産された白葡萄から作られた酒だ。私の栄達を一緒に祝ってくれたまえ」
いつの間にやら瓶を捧げ持ったモリガンがニコニコと鷹揚な――ラターシャからすれば作り物めいた笑みを浮かべながら、身を乗り出してきていた。
机上の、高価なガラス製のワイングラスを持ち上げたラターシャに、モリガンがワインを注ぐ。
トクトクトクトク。
紫の滴が瓶口から一直線に落下し、口を開けた杯を満たしていく。
「乾杯」
「……」
上機嫌に杯を呷るモリガンに対し、ラターシャは目の前に捧げたグラスを静かに揺らしているのみだった。
「おや、飲まないのか。ひょっとして、意外と下戸なのか?」
「ええ、そうね」
嘘だ。
ラターシャは人並みには酒を飲める。
けれど、この杯にだけはどうしても口をつける気にならなかったのだ。
自身の誕生年と同じ、その酒を。
同い年で、かつて他の誰よりも近しかったモリガンが、もはや自身とは対等の存在でなくなったことを祝うことを強いる、その酒を。
酒を入れ、舌の周りが良くなったモリガンは、ラターシャに向けてべらべらと、男爵位を継承するまでの苦労話を始めた。
一番好きな魔法薬学や錬金学に打ち込む時間さえ取れず、両親の監督の下、領地経営の術を壱から叩き込まれたこと。
それまであったこともないような家の重臣や領内の権力者、富豪たちと顔合わせをし、時に他領の貴族にも挨拶回りに連れまわされ、脳内の人物記録帳がオーバーワークで焦げ付きそうになったこと等。
その内容は、モリガンが苦労の中にあって尚上手く立ち回り、如何に他の者達から評価をされていたかの語りに終始していた。
臣下の者なら適当に追従の声を上げ、相槌を打ちながら続きを促していたところだろうが、ラターシャは興味なさそうに頬杖をついて、美しい青の瞳をしぱしぱと瞬かせていたのみだった。
「……へえ、苦労したのね。ねえ、そういえばあの孤児院にはもう行ってないの?」
「孤児院? ……ああ、あそこのことか。いやあ、今の私は忙しいからね。あれ以来、行っていないよ」
「そんなこと言わずに会いに行きなさいよ。この領地に居る限り、いつでも好きな時に行けるんだから」
水魔法で氷を作り出したラターシャが、カランと音を立てるグラス越しに、モリガンを見た。
そのため、モリガンの瞳に一瞬だけ昏い光が宿ったことに、ラターシャは気づかなかった。
「私は、もう昔の私じゃない……!」
「は? 何言ってるのよ? 訳わからないことを言わないでちょうだい」
拳を握ってプルプルと体を震わせ始めたモリガンに、ラターシャが戸惑いの眼差しを向けた。
次の瞬間、唇を引き結んで無表情になったモリガンが、ガタンと音を立て、椅子を蹴散らしながら立ち上がった。
「ちょっと。いったいどうしたの――」
「来い、ラターシャ」
「ちょっと、気安く手首なんて掴まないで――分かったから、自分で立てばいいんでしょ?」
モリガンの急な行動に戸惑う間もなく、腕を引かれたラターシャは、部屋の隅まで連れていかれる。
困惑を表情に宿すラターシャの腰に手をやったモリガンが、その体を抱き寄せた。
「あっ……!」その手の中の金髪女性が、声を漏らす。
モリガンはそのまま、ラターシャの桃色の唇に自身の唇を重ねた。
ラターシャの肩が強張った。
驚きに見開かれたラターシャの目を至近で覗き込んだモリガン。
腰に回した手の力を一層強め、唾液の橋に繋がれた唇を、再度接近させんと試みる。
二人の吐息が、宙で絡まる。
そこで――、モリガンの体が突き飛ばされた。
付着した泥水でも拭い去るかのように、忌々しいものを何としてでもこそぎ落とそうかとでもいうように乱暴な仕草で、服の袖を用いて唇を拭うラターシャ。
その片手には、「剣士」の力を発動させるための触媒――儀礼用短剣が握り込まれていた。
呆然とした面持ちで、尻餅をつくモリガン。
眉間に短剣の切っ先を突きつけられ、パクパクと言葉を紡げぬ口を開閉させていた。
「男の癖に『剣士』の才にも恵まれなかった貴方が、仮にも貴族の娘を力ずくでモノにしようだなんてね。私は安い女じゃないの。男爵だろうが侯爵だろうが国王だろうが、私の認めた男以外に抱かれる気はさらさらないわ」
先ほどから、ラターシャは気づいていた。
執務室然とした小奇麗な部屋に相応しくない、一つの家具。
まるで今日この日の為だけに運び込まれたかのように異彩を放っていた――夫婦サイズの、寝具の姿に。
そして、そのことから、
今日この日、モリガンは自分に実力行使でことに及ぶのでは、と、
想像し、警戒していたのだ。
先ほどまでの余裕ある態度を崩し、酷く情けない顔――ラターシャの良く知るモリガンの顔をした青年に短剣を向けながら、ラターシャは続ける。
「見損なったわ、モリガン。貴方との縁は、今日を限りにさせてもらうわ。もう二度とその顔を私に見せないで」
豪奢な絨毯にへたり込んだまま動けずにいた青年の下から小さな足音が遠ざかり、やがて、部屋の扉までたどり着いた。
そうしてラターシャは、モリガンの下から去って行った。
ラターシャの方から歩き去っていくという、いつもの二人の別れ方で――しかし、それまでには有り得ない、重く、痛々しい別れ方で。
音も立てず扉を閉めたラターシャは、剣士の力も解除しないまま、薄暗い廊下を駆けて行った。
その足取りは荒々しく、速度こそ速くあれど、まるで幼児の駆けっこのような有様であった。
やがてその足は止まり、廊下の途中で彼女は膝から崩れ落ちた。
強く噛みしめすぎた唇からは、血の跡が伝っている。
目元を乱暴に擦った彼女は、今自身がいる場所のすぐ傍に見覚えのあるテラスが存在することに気づいた。
いつだったか、モリガンと二人で将来について語り合ったテラスだ。
彼女の記憶が確かであれば、あれはモリガンの兄が15歳を迎えた誕生日祝いの日のこと。
互いに、親に決められた婚約者同士という事で打ち解けられていなかった二人。
その時は互いに他人行儀な態度であったことを、彼女は良く覚えている。
誕生会の主役、モリガンの兄のスピーチで、何を思ったか彼は、彼の婚約者である、とある少女とののろけ話を盛大に垂れ流した
初々しい若者達の恋愛話に、訪れていた客たちは大いに頬を染めさせられ、盛大に拍手を送った。
観客たちに煽られ、その兄の下に進み出た婚約者の少女は、衆人環視の中、手を広げて彼女を迎え入れた婚約者から接吻を受け、目を白黒させた。
観衆は大盛り上がりである。
そんな「婚約者同士の熱愛」を目の前で見せつけられたラターシャとモリガンは、何とも気まずいような気恥しいような雰囲気になりながら、このテラスで夜風にあたりに来たのだった。
そんなに長い会話はしていない。
ただ、互いが今生のパートナーとなるのだという事を確認し合い、改めて婚約者としての関係性を確認し合っただけに過ぎない。
けれど、その短い会話の中で、モリガンが言った一言を、ラターシャは今でも覚えていた。魔法でもかけられたのかと疑うほどに強く記憶に刻まれ、忘れようと思っても忘れられない一言だ。
『ラターシャって結構気まぐれな性格だろ? だから僕の傍にずっといて、それを支えてってやり方じゃあ、きっと疲れちゃうと思うんだ。貴族の娘らしからぬ、なんてさっき言ってたけど、ラターシャはそれでいいんだよ。ラターシャはラターシャなんだから。これからも、時々僕のところにふらりとやってきて、僕が何か失敗をしてるって思ったら、それをちくりと指摘して欲しいな。僕らの関係性は、それがきっと一番綺麗な形だと思う』
かつて己の婚約者だった男が、その時立っていた場所。
ラターシャは、その前で跪き、冷たい石造りの床に片手を伸ばした。
そして――次から次へと堰を切ったように溢れ出る滂沱の涙を顔を覆う手の隙間からこぼれ落とさせ、嗚咽をこぼす。
一人の女が一人の男のために流す涙は、涸れる気配を見せず、女をその地に縛り付け続ける。
夜の男爵邸の片隅で、一人の女の静かな鳴き声が、延々と響き続けた。
上中下構成の予定でしたが……このパートが予想以上に長引いたため、変更するかもしれません。四分割なら「起承転結」で良いとして、ご分割だと「一~五」でしょうか。




