第六十七話:お城は、浪漫ですよね!<妖精との旅:下>
side:リーティス
「落ち着いた?」
「落ち着きました。……落ち着きましたから、早く腕を離してください」
「え? 離していいの? じゃあ、――ほら」
ううぅ……。
さすがに、足場の無い上空に、身一つで放り出されるなんて事態、今まで経験したことが有りません。
完全に、未知の感覚です。
びゅうびゅうと音を立てて体にぶつかり、髪を乱していく強風の感触。
足の裏に支えるものが何もない状況に対して覚える、生理的な不安感。
寒くもないのに体が震え、血の気が引いていくのを感じます。
ともすれば遠のいていきそうな意識を自分の腕をぎゅぎゅうっと強く握りしめることで何とか繋ぎ留めました。
――これは夢、夢だから死なない、夢だから大丈夫……
必死に頭の中で夢という言葉を繰り返し唱え、精神の安定を図ります。
そうして、数分ほど自身のイメージ力だけで空にとどまっていたでしょうか。
早鐘をついていた心臓が元の緩やかな拍動を取り戻し、食い込みそうなほど強く腕を握りしめていた両手の指は、自然と解けていきました。
良かった……ふう、何とか落ち着けました。
「えー、そこは『やっぱり怖いですっ!』って言いながら僕の腕に飛び込んでくるところじゃないの? 君だって、この姿の僕に抱きしめられれば嬉しいでしょ?」
「あなたはカオルさんじゃありません。好きでもない人に抱きしめられるのは、嫌です」
腕を大きく広げた体勢のまま口を尖らせていたカオルさん――の姿をした妖精さんに、正直な気持ちを伝えます。
「真面目だねえ。男なら、自分の好きな相手と全く同じ格好をした女の子が自分に擦り寄ってきたら、絶対にギュッと抱きしめて、ぺろぺろクンクンはあはあするのに。君の想い人のこの少年だって、君と同じ外見の少女が現れたらきっとそうするんじゃないかな」
「カッ……カオルさんはそんな人じゃありません!!」
そう言いつつも、ついつい頭の中では私の姿をした女の子を優しく抱きしめ、そっと口づけをするカオルさんの姿を想像してしまいました。
うっとりと目を細めるその女の子が、カオルさんの背に手を回し、カオルさんがそれに応えます。
あ、駄目ですカオルさん……。そんなところまで手をのばしちゃ……
「おーい、戻っておいでー」
「ふひゃあ! 何でもないです! 私、別にそんなこと考えてないですっ!!」
「真面目な女の子はこういうとこが可愛いよね。まあ、落ち着いたんなら、とにかく下を見てみなよ」
――下……ですか?
顔の火照りを空の風で冷ましつつ、言われた通り足元の方へ視線を落とします。
――わあ!
恐る恐る足元を覗き込んだ私でしたが、目の前の美しい光景を見て、高所への恐怖感はどこかへ行ってしまいました。
先ほど地上で見た白亜のお城、その大きな白を中心に、透き通った湖の穏やかな青色、その周囲から放射状に伸びた道沿いに同心円状に立ち並ぶ建物達の、優しい赤色の屋根。
所々に並ぶ木々の緑や花々が、鮮やかな色を添えます。
まるで、予め高い場所から見下ろした際のことを考えて配置されたかのような、美しい円の芸術が眼下に広がっていました。
それにしても、こうしてみると上空からの景色というのは良いものです。鳥や天馬の皆さんは、毎日こんなものを見ているんですね。ちょっと良いなあ、って思っちゃいます。
「これは、どこかの町ですか?」
「そうさ。ごく一部の人間と、“とある種族”が一緒に住んでいた、古の迷宮都市だよ。うーんと、古都ノクワリアは知ってるかな? あの都が滅んだ時期に、存在を“末梢された”場所だね。今は地図にも記録にも載っていないはずだよ」
古都ノクワリア。……神の怒りに触れて、滅ぼされたと言われる古の都でしたっけ?
確か、本物のカオルさんが、ベニさんを助けるヒントを得るため、調べ物に行くと言っていた場所でもあります。
あのユムナさんという方の正体が盗賊じゃなくて、でも無条件に信頼できる相手でもないから、彼女が告げたことが本当かについても、そこで調べてくる……そんな風に、聞いています。
……カオルさん。貴方は今、どこで、何をしているんですか?
とくん、と心臓が一つ鼓動を打ちました。
――おっと、いけません。
物思いの泉に沈みかけた心を、そっと掴んで引っ張り上げます。
今、私がするべきは、カオルさんの無事を祈ることでも、心配することでもありません。
大体、私が心配するまでもなく、きっとカオルさんは帰ってきてくれますもん。
カオルさんと私との絆の証である赤い指輪をちらりと見やり、気持ちを切り替えます。
それに、話し相手がいる時に、他のことを考えているのは失礼ですもんね。
「“抹消された”というのは、どういうことですか?」
先ほどの妖精さんの言葉で、疑問に思ったことを尋ねます。
私の顔をじいっと眺めていた妖精さんが、珍しく少し遠慮するような態度で、言葉を返してきました。
「その問いに答える前に一つ聞かせてもらうよ。君、この町を見て、何か心の奥を揺さぶられるような感覚はある?」
「え? あの、綺麗な町だなとは思いますけど、そういう事では……ないんですか?」
帰ってきた言葉の意図が掴めず、混乱します。
眼下の町と妖精さんの顔を交互に見やりながら困惑の表情を浮かべる私を見て、妖精さんがふっと笑顔になりました。
「(なるほど、エルフの血族じゃあないんだね。なら、竜の血は正真正銘の天然か)うん、ちょっと安心したよ。それじゃあ、司祭さん、行こうか」
「え? 行くってどこへ? って、だから勝手に腕を掴まないでくださ――ひゃあっ!」
目の前にあったカオルさんの顔が、沈み込みました。続いて、私の体も。
私の都合も尋ねず、手を引いて勝手な落下を始めた妖精さん。
独特の浮遊感が、体を包みます。
妖精さんが先ほど小声でぼそりと呟いた内容を聞き返す間もなく、数百メルトルの高度から、猛烈な勢いで地面が近づいていきました。
反射的に目を瞑りそうになるのを、なんとか堪えます。
いくら夢の中だからって、妖精さんもわざわざ「死のう」とは思わないはずですから。
果たして、その予想は的中しました。
地面すれすれで直角に進路を捻じ曲げた妖精さんに腕を引かれ、私の体は湖上の横断を始めます。
水面数メルトルの位置を高速で飛翔する私達が巻き起こした風が、湖上に白い波を立てているのを背後に確認しました。
まるで、船の航跡みたいです。
「へえ、結構度胸あるなあ、司祭さん。見直したよ」
「その顔と声で言わないでください。反則です……」
正面から吹き付ける風に短い黒髪を乱れさせているカオルさん――の顔をした妖精さんの笑顔から、目を逸らします。
私の髪や服もバタバタと音を立てて翻っているのですが、そちらは意識の中には入ってきませんでした。
十数秒の飛行が終わり、私たち二人は先ほど見た白亜のお城の正門前に着地しました。
エスコートするかのように私の腰に手を伸ばしてきた妖精さんの手をすっと避けて、そのまま、大きく解き放たれた門の方へと歩いていきます。
「待ってまって! もう、このお城の中が目的地だなんて言ってないじゃないか。勝手に行かないで欲しいね」
「じゃあ、どこなんですか?」
「……この中。あ~あ、つまんないの」
両手を頭の後ろで組んで体を揺らしながらという、本物のカオルさんなら絶対にやらなさそうな仕草を見せながら、私の後ろを歩いてついてくる妖精さん。
その一方で、私の方はというと口元に笑みを隠しきれていませんでした。
正直、今はちょっとワクワクを抑えきれていない状態です。
なぜかって?
うふふ、だって私、こんなお城、生まれてから一度も入ったことがありませんもん。
同行人にはちょこっと問題がありますけど。
今からこの綺麗なお城の中に足を踏み入れるのだと思うと、胸が弾みます。
白く綺麗で、けれども荘厳な構えの門をくぐると、緑の芝からなる大きな庭が広がっていました。
そしてこれは、湖の水を流しているのでしょうか?
庭のあちこちには幾つもの橋が架かっていて、透明度の高い水の道が織りなす幾何学模様チックな紋様を乗り越えながら庭を歩き回れるようになっています。
――本物のカオルさんとも、一度来てみたかったですね。
初めて目にするお城の庭の美しさに心奪われながら、そんなことを思いました。
カオルさんのことですから、もしこのお城を見たら、ロマンチックだなという言葉の代わりに、水上に建設された城の戦時の攻防における有用性の考察でも述べ始めそうではありますけれど。
きっと、そんな時間も悪くないんじゃないでしょうか。
でもその場合、そんな私達のほうをチラチラと伺いながら、ベニさんがその周りをうろうろと歩き回っていそうですね。アリスも一緒でしょうか?
カオルさんがいるのならベニさんもいるはずだと、自然にそんな考えが頭に浮かんできました。
カオルさんとベニさんが離れ離れになっている現状――そちらの方が、あの二人にとってはずっと異常な状態なんだろうと、どうしてもそう考えてしまいます。
やっぱり私は、カオルさんの隣に立ちたいという思いはありますけれど、ベニさんを押しのけて独り占めすることはできないんだろうな、という諦めの気持ちがあるみたいです。
――いえ、でも普通ですよね、それ。ベニさんはカオルさんの妹なんですし……。
あの二人の絆に割り込もうという方が、無茶なのでしょうか?
「さっきからニコニコ笑顔になったり難しい渋面を作ったりしてどうしたの? 情緒不安定だねえ。ひょっとして生り――」
「違います!!」
はあ。本当に、この妖精さんの相手は疲れます。
そうこうしている内に、私達はお城の中心施設、その扉の前に立ってました。
いったい、どんな内装をしているんでしょうか?
カオルさんの姿をした妖精さんが重そうな扉を一人で開けていくのを見ながら、まだ見ぬお城の中の光景に心を飛ばします。
きっと、廊下にお上品な赤絨毯が引いてあったり、高名な絵師が描いた見事な絵がそこら中に無造作に飾られていたり、テラスにはお姫様たちが優雅にお茶を飲み交わすような白テーブルが有ったりするんでしょうね。
ああ、素敵です……。
「さあて、じゃあそろそろ目的地だよ。いやあ、楽しみだねえ」
ええ、凄く楽しみです。
――ん?
あれ? そういえば、私がこの場所にきた理由ってなんでしたっけ?
ググググググ……、ガタン……。
首を捻る私の前で、お城の巨大な扉が口を開けました。
次回、<妖精との別れ>
絶対に、涙ながらの話にはなりそうもありませんね。




