第四十四話:やだ、あたしの運動能力、低すぎ……<逃げ込んだ、その先は>
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side:薫
この都全体で、何か大きな変化が起きた。
そんな確信を、嫌な予感と共に胸に抱く。
肌に感じる空気が明らかに変わった。
魔力の濃い地域特有の、通常の生物にとって居心地の悪い空気そのものは先ほどまでと変わらない。
どこか淀んだ感じの、濃厚な油そばのスープがぶちまけられた浴場の上を歩いているような、そんな感覚。
だが今はそれに、何かピリピリとした、こちらを拒絶するような気配が加わったように感じる。
俺の知るものに例えるなら、敵対組織の者達が潜んだ、そのアジトの雰囲気に似ている。
まるで――古都全体が俺達を拒絶しているかのようだ。
ざわり、ざわり。
胸騒ぎが収まらない。
目立った視覚、聴覚上の変化は無いはずなのに、先ほどまでと全く違う場所に移動してしまったかのようだ。
掌に、汗が滲む。
心臓が早鐘を打つ。
先ほどまでの古都にとって、俺達が興味のない観光者程度の認識だったとするならば。
さしずめ今の俺達は、排除すべき侵入者といったところか。
「GHGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」
突然の咆哮。
呆けていたユムナの背後、開け放たれていた教会の扉から何か巨大なものが姿を現した。
それは、溢れる涎が伝う牙の奥から狂ったような咆哮を轟かせる、黒い狼だった。
軍馬並みの巨体を持つそれは、教会に飛び込んで来た勢いを維持したまま、真っ直ぐこちらへと駆けてくる。
視認と反応は同時。
俺は、即座に地を蹴り、硬直するユムナと狐耳の少女の前に飛び出した。
腰元のナイフを抜き放ち、両手の十指をコキリと鳴らす。
咆哮と共に大口を開けた黒狼が、鋭い牙を見せつけてきた。
狼の血走った眼を、気合で負けてなるものかとこちらからも睨み付ける。
牙とナイフ、二つの鋭い刃が交錯した。
強靭な顎による噛みつき攻撃をナイフで退け、左フェイントをかけた右方向への踏み込みで体を躱す。
巨狼の突進に伴う風圧が正面から遅れて襲い掛かかってきた。
目を細め、髪を叩くその風を受け流す。
そしてすれ違いざまに、伸ばした左手で黒い紐束のような尾に手を伸ばし、掴みとった。
背後でバグン! と音が鳴る。
獲物を捕らえられぬまま閉じられた口は、その口惜しさを別の獲物で埋めんとばかりに、すぐさま開かれた。
柔らかい肉をもった目の前の女性二人に魔狼の注意が向かう。
あくまで前方しか視界に入れない、知性を失った狂獣の尾を、俺は思い切り握りしめた。
全身を巡る魔力が複雑な回路状の陣を描き、俺の腕、足、掌、肩口、全ての箇所の筋力と耐久力が大きく引き上げられていく。
強化した背筋の力を存分に振るって、俺は重量感溢れるその巨体を持ち上げた。
そのままハンマー投げの要領で、大回転。
遠心力を利用し、入口の方へと全力で投げ飛ばした。
「GHHHHHUUUUUUUUUUUUUUUUYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!」
「逃げるぞ!!」
焦りと共に、背後の二人に呼びかける。
遠ざかっていく魔狼の吼え声と入れ替わりで、教会の入り口に第二波の魔物たちが殺到していた。
そのど真ん中に俺が投擲した黒狼がぶち当たり、通り向かいの家の壁まで吹き飛んでいくが、全てを打ち払うにはほど遠い。
「りょ、了解!!」
「ごめんなさいいいいいいいいい!」
弾かれたように駆け出す俺達。
教会の扉を抜け、町の通りに足を踏み出す。
すると不意に、足元がぐらりと大きく揺れた。
「うきゃあ!」
運動音痴のユムナがすっころんだ。
それはもう見事に、顔から地面に着地してみせている。
「おい、そいつを抱えてやってくれ!」
藁にもすがる思いで要請を駆けると、少女は案外素直に協力してくれた。
コクコクと了承の相槌を見せた少女は鞭状の触手を伸ばしてきた植物魔物の攻撃をぴょんと飛び越えてユムナの下に駆け寄り、左肩に担ぎあげる。
剣を持つ右手はフリーにしたままその場を離れ、道路、家の壁麺を蹴って魔物達のちょっかいを回避していく。
幼い少女に担がれたユムナだったが、足手まといになるつもりは毛頭無いようで、背後に迫った先ほどの魔狼達の群れに向けて、風魔法の「風刃」を幾十本と飛ばして迎撃していた。
ユムナの周囲に、大気が次々と集まり、収束していくのが見える。
追撃の刃の充填も万全のようだ。
しかし、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。
新たな脅威はすぐそこにまで迫ってきていた。
魔物達の声の他に、ぴしり、ぴしりと何かが割れていく音を感知したのだ。
その音源はちょうど……彼女達の直下、足元の方からだ。
「“何か”が来るぞ! 退避しろ!」
俺達の進路方向――町の出口の方角からやってきた甲虫型魔物の頭を居合抜きの要領で繰り出したダガーの一閃で斬り飛ばしつつ、二人に注意を喚起する。
俺の突然の指示に、戦い慣れた風な少女より先に、ユムナが反応を示した。
さすが、数週間も俺の相棒を努めていただけのことはある。
下級風魔法の斬撃をばらまいていた手を一旦止め、少女の体を、抱えられた自分ごと風魔法で吹き飛ばした。
膨らんだ大気が、二人の体を上空へと運ぶ。
「きゃああああ!」
不意を突かれた少女から、年相応の可愛らしい悲鳴が漏れた。
ユムナ達の退路を開くべく、俺も群がってきた異形の魔物たちを片端から斬り捨て、蹴り飛ばし、着地した少女の横に並ぶ。
それと同時、
先ほどまでユムナが上に倒れていた石畳が割れ、黒い触手……この町で見飽きるほど遭遇してきた黒色植物、それが変態した魔獣の体の一部が、しなる体を蠢かせながら這い出てきた。
一本が姿を現すや、周囲の建物の屋根や壁を粉砕しながら、二本目、三本目と後が続く。
俺の胴体よりも太い触手が四方八方から間欠泉の勢いで姿を現し、俺達の視界を埋め尽くしていく。
一本の触手が、俺達を絡めとろうと猛烈な速度で伸びてきた。
その一本を下から掬い上げるように蹴り飛ばし、別の一本にぶつけてまとめて崩れ落とさせる。
さすがにユムナを抱えたままこいつらに対処するのは無理と判断したのか、ユムナを下ろした少女も、剣を振るって応戦を始めた。
ユムナも足に怪我は負っていない。妥当な判断だろう。
少女は火魔法で炎壁を築いて魔物達を牽制し、峻烈な踏み込みと一体となった高速の剣捌きで触手の群れを切り裂いている。
「ちょ~っ! こいつら何! ――痛っ! ちょっと、離れなさいよ馬鹿野郎―――――!」
触手と魔物の攻勢の手を躱し、時折火魔法の「爆炎」を放ちながら走っていたユムナが、悲鳴をあげた。
いつの間にか足元に忍び寄っていた、淀んだ緑色の“流動体”を踏み抜いてしまったようだ。
慌てて水魔法で吹き飛ばしていたが、駆けだす瞬間苦悶の表情を示し、歯を喰いしばった。
見ると、先ほどの流動体を踏んだユムナの足元が、ジュウジュウと煙を上げていた。彼女の白い足が焼け爛れ、赤く染まっている。
――あの流動体は強い溶解性を持つのか!
戦慄を覚えながら周囲を見渡す。
気づくと、町の側道に配備されている朽ちた水路から、先ほどの流動体が次から次へと沸き上がり、石畳を浸食してきていた。
緑の水柱がそこかしこで上がり、路面のみならず、周囲の風景そのものが、緑に染まっていく。
緑の濁流は、集まってきた他の魔物達をも飲み込みながら、どんどんその規模を拡大させていった。
何があっても俺達の進路を阻もうというのか。
俺の首筋を気持ちの悪い汗がつたった。
「ユムナ! 水魔法であの流動体を吹き飛ばして活路を開け! 周囲の魔物と触手は俺が吹き飛ばす!」
あの流動体は風や火魔法では対処できまい。
寄ってきた熊型魔獣の首を切り裂きながら、そう指示を出す。
「分かったわよコンチクショ~!! あたしの前から消え失せなさい!」
ユムナが手を振り下ろした指先の地面を中心に不可視の力が放射状に吹き抜け、緑の海にぽっかりと穴が開いた。
その半径は10mほど。仮の足場としていた黒触手を蹴った俺もその中に着地し、ユムナ達を促して駆け出した。
俺達の移動に合わせて“領域”も移動する。
しかしどうやら、徐々に徐々にその円の径が狭まっていっているらしいことに気づいた。
「もっと広げられないのか!」
「これで限界よ!」
俺の無茶な要請に、ユムナが苦しげに答える。
しかし、水深――この表現で正しいのかわからないが、ユムナの魔法によって見えないドーム上に形成された流動体排除領域の外側を巡る緑の高さが猛烈な勢いで上がっていっていることは事実だった。
先ほどまでまとわりついてきた魔物たちまで緑の障壁に阻まれて近づいてこれなくなったのが、唯一の救いか。
しかし、どういう仕組みかこの液体で溶解されることのないらしい黒触手が、時に俺達の足元から、時に背後から、緑の膜を突き破って湧き出てくる。
鞭のような一撃が、必死の回避を続ける俺達の足元を掠める。
「ぐくぅ!」
回避しきれなかった攻撃の一つが、ユムナをしたたかに打ち据えた。
思わず声をかける。
「ユムナ!」
「走れないほどじゃない! 後で治癒魔法で治せる程度よ!」
強がっているが、もうユムナの体力は限界に近いはずだ。果たしてちゃんと街の出口まで持つのか……?
くそっ。こんなことになるなら最初からもっと然るべき準備をしておくべきだった!
後悔するが、もう遅い。
今はただ、この地獄から逃れる術を、この状況でもできることを考えねば。
「あっちに安全なとこがあるよっ! そっち逃げよ!」
俺が上空から飛来した猛禽型魔物の爪撃を受け止めている間に、触手の一本を切り伏せた狐耳少女が勝手な方向へ駆け出した。
少女の視線の向かう先は、俺達も良く知る「あの場所」。
――まずい! “そこ”は駄目だ!
そうだ、確かに少女の行く先は「安全なところ」ではある。
だが、そこは……
引き留める言葉を出すより先、ユムナがドームの形を変え、少女の示した“あの施設”への道を作り出した。
少女とユムナが駆けていく。
逃げ道のない、閉ざされた檻の中に向かって……。




