第三十五話:嫁を好きになれないのは姑ばかりじゃないってな<妹の気持ち2>
side:紅
リーティスが寝息を立て始めた。
……これで、このテント内でまだ起きてんのは、あたしだけか。
兄貴の手紙を追っていた目線を外し、寝息の聞こえてくる方に首をめぐらせる。
目を閉じ、すやすやと平和な寝息を漏らしているリーティス。その平和な吐息と裏腹に、睡眠中とは思えない険しい表情だ。
その腕は寝袋の外に出て、祈祷時のごとくしっかりと組まれている。その左手に赤く輝く指輪に、あたしの目が吸い寄せられた。
碌な光源のない薄暗いテントの中でも、その美しい紅色の光は褪せていない。
――綺麗な指輪だ。
兄貴がリーティスには与え、あたしには与えていないもの。その輝きを前に、あたしは思わず目を細めた。
兄貴が今一番信頼しているのは、あたしじゃなくて、リーティスの方なんじゃないだろうか?
あたしは、町を出てからこの指輪を見る度に、そんなことを思い続けていた。
兄貴が二分を提案した、あの後。あたしとアリスが去ったその後、兄貴とリーティスはどんなやり取りを交わしたんだろうか。
リーティスは「アリスに乱暴な言葉を言ったカオルさんとは、喧嘩別れになりました」なんて説明をしてたが、あたしは半信半疑だ。
兄貴とリーティスが、お互いのことを罵り合うレベルの喧嘩をするだと? 嘘を吐き慣れてないリーティスらしい、分かりやすい嘘だぜ。
空からマシュマロが降ってきたなんて言葉の方が、まだ信憑性があるんじゃねえだろうか。
わざわざそんな嘘を吐く理由は分からないが、『喧嘩』自体が無かった、全部リーティスの嘘だったと考えたほうが、あたしにはよっぽどしっくりくる。
手に持っていた兄貴の手紙を、枕元の荷物下へと突っ込んだ。
リーティスに宛てられたものよりはるかに分量の少ないA4用紙一枚からなるそれは、背嚢程度の重石があれば、吹き込む夜風に飛ばされる心配もない。
本当にその程度の、分量だ。
手紙を手放して空いた両手を、枕代わりに頭の下に敷く。
リーティスの方を向けていた頭を、何もないテントの天井のほうへ向けた。
閉じきった採光窓からは、曇り空に浮かぶ月の光は入ってこない。
暗視の効くあたしでもそろそろ何も見えなくなるくらいに、暗闇の帳が降り始めていた。
町を出る前、あたしは兄貴が直接指示を出すために会いに来てくれることを期待してた。
けど、その期待は裏切られた。
おまけに、リュウを通して手紙の形で渡された指示は、ごくごく簡素なもの。大した内容も書かれていない、手紙一枚きりときやがった。
リーティスの手紙には、数枚に渡って様々な伝達事項を記していたってのにな。
あたしの手紙に記されていた数少ない兄貴からの指示は、少なくとも耳が出る程の「獣化」は控えろ、ただし二人を守るためなら躊躇はしなくていい、というものだ。
その他も事務的な連絡に紙面の殆どを割いていて、あたしの体を気遣うような文言さえ無かった。
まあ、あの兄貴にそんなもんを期待する方が間違っているし、本心ではちゃんとあたし達を心配してくれてんだろうから、気にしてねえけど。……気にしてねえけど。
旅の行程は、こちらの言葉が使えないあたしよりもリーティスに任せるべきだってのは分かる。
だけど、そもそも何故兄貴はアリスを怒らせてまであたし達を別行動させたのか、それが未だに分からねえ。
なんで兄貴は、あんなことをしたんだ?
アリスは、面倒事を放って逃げ出すため、と思っているみたいだ。
リーティスは、「他の人達もまとめて助けられると過信していて、欲張ったからだ」、と主張していた。
だが、そのどちらも、兄貴の真意じゃねえ気がする。
とはいえ、あの結論に至る兄貴の思考過程を推測するには、あたしの手持ちの情報じゃあ足りなさすぎる。
兄貴も、あたしにくらい言い訳の言葉を残してくれてもいいだろうがよ……。 何で、あんな手紙しか寄越してくれねえんだ。
そんなことを思っていると、妙な考えが頭に浮かんできた。
ん? もしかして兄貴は「あたしに情報を与えたくない」のか……?
――いや、そんなことをする必要性が見出せねえ。ただの妄想だ。
あたしの横で、リーティスが身じろぎした。
「うぅん……」可愛らしい寝息がその口から漏れる。
今、彼女はどんな夢を見ているのだろうか。
思考を中断し、再び彼女の寝顔に視線を落とした。
幼さと色気が同居した、いかにも男に好まれそうな顔だ。
化粧を重ねてすらその領域まで手を伸ばせないあたしとは、大違いだ……。
ため息を吐く。
要するに、嫉妬してるんだろうな、今のあたしは。
こちらの世界に来ても、兄貴はあたしを一番には頼ってくれない。
あたしのことを心配してくれるくせに、自分があたしに心配されるのは嫌がるような奴だからな、あたしの兄貴は。
そしてこの世界で、兄貴が自分の責任を一緒に背負ってもらおうと選んだのがリーティスだった、ただそれだけの話だ。
兄貴は疑り深い性格だ。敵に対してだけじゃなく、味方にも。他人を信じたいと思っているくせに、或いはだからこそ人一倍、裏切られることを恐れている。 だから、兄貴の立ち回りはいつも慎重なものになりやすい。
いや、なりやすかった。
そんな兄貴の様子が、この世界に来てから少しずつ変わってきたように思う。 慎重なのは相変わらずだが、これほどまでに信頼する人間を見出したんだ。心境に何か大きな変化があったんだろう。
文字通り兄貴が半生を捧げてきたASPから離れたこと自体も大きな原因だろうが、きっとそれだけじゃあない。
兄貴とリーティスは、友人としての関係を越え、男女として惹かれあってんだろう。
でも、兄貴がリーティスに信を置くのは、惚れた相手だからって理由だけじゃねえ。リーティスが兄貴に信頼されるだけの「何か」を見せたのは間違いない。
――そしてそれはきっと、あたしにはできなかったことなんだ。
半身を持ち上げ、今は夢の世界にお出かけしているリーティスの顔を覗き込む。
可愛らしい寝顔だ。
こうして見るなら年相応、いや、14歳という実年齢より幼く見えるかもしれないほどあどけない顔だが、その内に秘めているものはきっと、あたしよりも……
ブルンブルンと首を大きく横に振った。
――駄目だな、あたしは。兄貴のことになると、本当にすぐ心が揺れ動いちまう。
日本にいた時からそうだった。ASPの研修で離れ離れになっていた4年間は、兄貴に対する執着を薄れさせるどころか、ますます強くした。
こっちの世界に飛ばされるまでの2年間、あたしは公私共に兄貴にべったりで、別居しているはずなのに一日の大半を兄貴の傍で過ごしてた。
手作り弁当を携えて、昼の間も兄貴のデスクに赴いていたしな。
こうしてまた離れ離れになった今、あたしがこれまでどれだけ兄貴に依存していたのかを強く意識させられた。
ああ、ちくしょうっ。心のもやもやが収まらない。何かこれを解消する手立てが見つからないことには、夜も眠れ――
『はぁい! リーちゃん。ちょいとお邪魔するねー』
テント入口の布を持ち上げ、「解消する手立て」が下品な笑いを顔に張り付かせながら姿を現した。
「よし、てめえ、今すぐ表出ろ」
拳を鳴らしながら野生の獣めいた良い笑顔で立ち上がったあたしを見て、顔をひきつらせた馬鹿男が慌てて背を向ける。
逃がすか、ボケ。
こうしてあたしはその夜、快眠とまではいかないまでも疲れを取るには十分な量の睡眠時間を確保できた。
翌朝テント前にぼろ雑巾が転がっていたが、リーティス達が起きてくるより前に天幕(ゴミ箱)に放り込み、清々しい朝の景観を損ねるものは無事排除できたことを付け加えておこうか。




