第三話:意思を伝えたいなら分かる言葉で話しなさい<第三種接近遭遇>
side:薫
異世界の山中で一夜を越し、俺は一人、草の床から身を起こした。
朝日の意外な眩しさに目を細めながら周りを見渡すとすぐ隣に、草のベッドに沈みこむ紅の平和な寝顔があった。
それで俺は、紅が夜番の仕事をこなしきれなかったらしいことを知る。
睡魔に敗れた夜番の少女は、胎児のように丸まって、すうすうと気持ちよさげに寝息を漏らしていた。見ると、いったいどこからやってきたのやら、兎によく似た丸い動物が紅のお腹の辺りで同じように眠り込んでいる。
紅に眠気でも移されたのだろうか。
優しい風が紅達の眠る草の絨毯の先端を撫で、紅の短い前髪をそっと揺すって行く。
それでもまだ目を覚ますそぶりは無い。
木々の合間を木霊する小鳥の囀り、すぐ傍から聞こえてくる清廉な水音、青々と茂った柔らかな草の香り。
その中眠る、どこぞの童話の姫のような少女の姿に、肩の力が抜けた。
たぶん、紅のこの姿が、この場所では正解なのだろう。
ぎすぎすした人の世から離れたこの場所は、規則だ緊張感だ命令だといった単語が不相応に思えるほど穏やかで優しい空間だった。
くああ、と欠伸が漏れ、ついでにと思って両手を天に向ける。
体の芯に張り付いた筋肉を一枚一枚剥がしていく非常にゆっくりとした伸びを終え、俺は立ち上がった。
朝を告げる鳥たちの鳴き声に、挨拶を返す。
「Good_morning(おはよう、良い朝だ)」
何とも自然に、俺の口からそんな言葉が出てきた。
一通り自分の世話を終えた俺は、さすがにそろそろと紅の脇に膝を下ろし、そっと揺り起した。
「ん~?」
「起きろ、紅。朝だ」
ぱちくりと、生まれたばかりの雛の目をした紅に朝を告げる。
ふにゃふにゃと目を擦る彼女に用意しておいた朝食を差し出すと、何だか忙しなく周りの様子を伺った後、最後に俺の顔をじっと見て何かを諦めたかのように息を吐いて食事を始めた。
瞬く間に朝食を胃に収めた紅の、寝起きでぼさぼさになった頭が目に留まり、軽く梳いてやると、青臭い匂いの残る草の葉がパラパラと落ちた。
それを見た紅が恥ずかしそうに俯き、くいくいと俺の服の裾を摘まんできた。
「あの、兄貴。食事途中なんだけど、悪い。ちょっと川まで水汲みに行ってくっからさ……」
「水か? なら心配するな。もう汲んで来ている」
「先に言え! てか、飯より先にそれを出せよ! 兄貴のデリカシー無しっ!」
紅は朝から元気だった。
簡単な朝食を胃に詰め込んだ俺達はきびきびと身支度を整え、出立の用意を始めた。
充分な食糧と水、それに手ごろな薪を戦闘装備収納ザックに詰めこみ、昨日発見した村落への旅路を再開する。
沢を越え、谷を越え、長い緑のトンネルと地に伏した巨木の壁を飽きるほど堪能しながら、俺達は歩き続けた。
胸元をパタパタと仰ぎながら燦々(さんさん)と照る太陽に向けて愚痴を漏らす紅と他愛ない雑談など挟みつつ、足だけは勤勉に働かせる。
そんな俺達の足は、何とか日の高いうちに俺達二人の身を目標の村近くまで運んでくれた。
「うへえ、結構歩く羽目になっちまったな」
「完全に迷子の状態から数日で人里に着いたんだ、まだマシなほうだろう」
「言っとくが兄貴。そんな風に汗だくだくで息を切らして『マシ』もなにもねえからな?」
「……その通りだな」
ここまで歩き通しとなると、日頃鍛錬を欠かさない俺達であっても、流石に疲労を感じてくる。
効率的な山歩きの仕方は検索したのだが、下手に実地で試しながら、などと無駄な取り組みをしたせいで余計に体力を使ってしまった。知識として山歩きの仕方を知っていただけの俺よりも、感覚的に体力消費の少ない歩き方を地力で身に着けて行った紅のほうが余裕がありそうだ。
今回の場合、日が暮れるまでに人里に辿りつきたいと少々急ぎ過ぎたことが原因の大部分だろうが。
そんな労苦を示すように、靴はもうすっかり泥だらけだ。
俺達の足を覆う戦闘靴はあらゆる意味で特別製で、この程度の旅路で壊れるほど柔なものではないが、それでもぱっとと見ればくたびれているように思えるはずだ。
もし一般的なスニーカーでこの山を踏破しようとしていたら今頃、棘植物や毒虫の進入を恐れながら歩くことになっていただろう。
鉄鋸でも切れない靴と、その製造を可能にするASPの技術力に感謝を捧げたい。
「にしても、すげえな。こんなでっかい畑、生で見んのは初めてだぜ。土地が有り余ってんのかね。つか、何を作ってる畑なんだろうな。う~ん。異世界らしく、人面大根でも作ってんのか? 怨霊とか取り憑いてそうな奴」
「お前の異世界観は大丈夫か? そうだな……見たところ普通の穀類畑だろう。果樹園は無いみたいだが、栽培している野菜の種類は豊富なようだ。株の葉の種類が随分と多い」
村に向けて歩む俺達は、その道中でだだっ広い耕作地帯を横切っていた。
斜面の上から見下ろすと、呆れるほどに広い畑の集まりがずっと続いているのが確認できる。
耕作者の丁寧な仕事ぶりが伺える、生真面目に整列した苗の列が何十、何百と続いているのだ。
野菜や穀類畑の間を抜けて進むと、今度は土地いっぱいに水の張られた、俺達にとても馴染みのある農作物の農場に出くわして唸ってしまった。
まだ緑一色といった風情の農地だが、あと数ヶ月もすれば黄金色に染まるのだろう
この辺りでは水稲の栽培まで行われているらしい。
「米が食卓に上がる地域なのか」
「良いねえ。手土産に海苔と醤油でも持ってくりゃ良かったぜ。村の連中が米好きなら、滅茶苦茶喜んでくれただろうな」
紅と二人して、まだ見ぬ原住民への親近感を覚えた。
知らず俺達の足取りは軽くなり――しかしやがて元のペースに、そしてしばらくすると当初より慎重なものへと変化していった。
その変化は、心理的な緊張に由来していた。
今歩いている、一見普通の耕作地帯。
作っている作物の種類も普通、耕地面積は一町村には少々大きすぎやしないかとは思うものの、まあ普通かと見なせる程度。
けれど、そこにはあるべきものが欠けていた。
――村人は? 耕作人は? この畑を管理している村人はどこにいる?
村に近づくにつれて、田畑の数は増していく。
案山子と似た役割を担うのであろう、藁を纏った背の高い棒切れなどとはすれ違うが、農業に勤しむ者達と巡り合うことは一切無い。
太陽が高く上がった絶好の農業日和であるにも拘らず、鋤を振るう人も雑草取りに腰を屈めるような人も存在しない。
不自然な光景だ。
もしかして今日は何か、特別な日なのか?
例えば、宗教的休業日のような村内での農作業が完全に禁止されるような。
疑念が上がったが、すぐに気を取り直す。
仮にそんな行事があったとしても、こうして管理された水田がある以上、近くに人が住んでいることは確実だ。
村に着けば田畑の耕作主達にも会えることだろう。
歓迎してくれるか否かは不明だが、年若い男女二人を見ただけでいきなり刀を持って襲い掛かって来るようなことはさすがにないだろう。
「しっかし、あたしらは村に入れてもらえんのか? 野宿になるならなるで我慢できるけど、追い払われるのは嫌だぜ」
「流石に門は潜らせてもらえるだろう」
そんな具合に甘く、あるいは軽く思っていた俺達を、村人達は実に予想外で熱烈な歓迎で迎えてくれた。
その余りに丁重で鮮烈で最悪な歓迎を俺達が忘れることは、恐らく一生ないだろう。
「……ヤバくね? ヤバいよな、これ。なあ兄貴。これ、ヤバいって言って良い奴だよな?」
――ああ。神を呪いたくなるような事態だな。まったく
俺達は、ようやくたどり着いた村落の門前で一歩も動けず立ちつくしていた。
それは村の門番のせいだ。決して無視しえない門番がそこに立ち、俺達の行く手を阻んでいたのだ。
その門番は、特別大柄でも強面でもない人間だ。角が生えている訳でも牙を見せて凄んでいる訳でも、機関銃を構えて脅している訳でもない。
見たところ普通の背格好の、日本人基準でも身長が低そうな者達ばかり。
ただ、数だけが異常なほどに多かった。
木材や石材、そして土塁で組まれた高い壁の上に一列に。
そして猛一列、村の正門の真ん前に。
弓に矢を番えた人々が見渡す限りずらりと並んでいた。
眼に飛び込んで来るのは弓、弓、弓、弓、弓、弓。そこに時々大剣や槍の姿が混じる。
その数、恐らく200は下るまい。
鋭い銀色の切っ先に真夏の太陽光を反射させ、俺達を威嚇する。
キリキリ、キリキリ。
幾百本の弦が引き絞られるその音は、細縄で編まれた吊り橋の軋み音によく似ていた。
「兄貴。これ、逃げた方が良い気がすんだけど。どう思うよ」
背後に俺を庇いながら、紅が焦った風に聞いてきた。
確かに危ない状況だ。紅風にいえばヤバいって言って良い状況だ。
こちらに向けて弓を引き絞っている彼ら村人達からは、何やら敵意のようなものが感じとれる。
俺が首を巡らせて視線をあちこちに飛ばす度、剣呑な目線と弦の音とで威嚇されるのだ。
10代半ばと思しき実直そうな少年と目が合うと一際強く弓を引かれ、日本基準で60代程と見える白髪の老婆にはギロリとにっくき孫の敵でも見るかのような目でねめつけられる。
肝の据わっていないものなら回れ右で逃げてしまうところだろう。
だが、こちらとて伊達に日本政府の秘密組織構成員などやってはいる訳ではない。
俺はいざという時は紅に庇ってもらえる立ち位置をそれとなく確保しつつ、一歩足を踏み出した。
すると、その俺の進行を咎めるかのように、皺がれた大声が弓列の向こうから飛んできた。
「вхоо ел нос!? вхот ил нох очет!?」
予想はしていたが、全くの未知の言語だった。
声の出所は、70代程と見える禿頭の老人。
周りの者達より質の良さそうな布服をぴしりと着こなしたその男が、一音一音に魂を籠めるように全力で声を張り上げていた。
意味も意図も掴めない、しかし力が込められている事だけは分かる声に警戒心を刺激されたか、紅が緊張する気配があった。
中々に面倒な事態だ。
いきなり敵意を向けられるというのは、考えられる中でも悪い部類の接触パターンだろう。
だが、まだ最悪ではない。
声をかけられたということは、交渉の余地が残っているということ。
つまり、彼らは対話を望んでいるのだ。
対応次第では、悪くない状態に持っていける。
そのためには――
――まずは、相手の言っている言葉を理解できなければ始まらないな。よし、"完全記憶"、"並行思考4式"、"意識加速"、ついでに"視覚強化"。
目を閉じ、脳に意識を集中する。そこにある押し慣れたスイッチを4つ、ONに切り替えた。
パチン、と何かが外れるような、或いは弾けるような手ごたえと共に俺の「力」が開放された。
視界に変化が起こる。
目に映る風景の変化が、次第に緩やかになっていく。
風にたなびくちぢれ雲の流れがスローモーションに、宙を舞う砂の一粒一粒が目で追えるようになった。
時の流れが遅くなったような錯覚にとらわれるが、そうではない。
周りが遅くなったのではなく俺自身の思考が加速しているのだ。俺の"力"が齎す、便利な恩恵の一つ。
これで準備は万端だ。
――さて、最初は基本的な単語を拾うことから始めるか。
「вхоо ел нос!?」
恐らくは、こちらの正体を誰何しているのだろう。
材料として「記憶」する。
――よし。次の言葉は何だ?
耳を澄ませ、老人の次の一言を待つ。
しかし、じっと耳を澄ませていても、老人もその他の村民らしき者達も、何一つ言葉を漏らす様子が無い。
これでは、材料が足りない。
――仕方ない。
少々強引だが、言葉を引き出させてもらおうか。
そのための方法は、既に考案済だ。
俺は肩に負った荷物を下におろし、その場で一つステップを踏んだ。
わずかの跳躍と、静かな着地。
「Хос ил денг! денг! денг!」
「ватт! ватт ес цец!」
弓衆に緊張が走るが、弓衆のうち何人かが特定の言葉を放ち、それを抑えていた。恐らくは「抑えろ」、「撃つな」あたりか。
俺は右足を軸にしてその場で一回転。
俺の目線が、村の壁、高い山、困惑げな紅の顔を通過し、再度村の前に並ぶ弓衆に帰還した。
バレエダンサーのような優美な動きは無理だったが、中々綺麗に回れたと思う。
弓衆が、若干ざわつき始めた。
よし、いける。
次は右足を大きく上げてポージング、続けて三回転からの手技足技のコンビネーション。
「вхот? вхот дес хос дес!?」
まだまだ。どんどんリズムを上げていこう。
脳裏に流れ出すはジャズの名曲の数々。
景気よく流れ出すそれらBGMに合わせ、俺の体は気ままで自由なリズムを刻む。
オートパイロットで過去に記憶した名ダンサーの動きをトレースし始めた俺の体は、解き放たれた踊り人形のようにステップとジャンプを繰り出し始める。
俺の踊りを見ている弓衆が、とうとうざわざわと騒ぎ出した。
よし、これで単語がかなり手に入る。
――おそらく一人称はこの言葉、「何?」に相当する単語も確定で良いだろう。おっと、隣の奴の言葉を受けて笑ったやつがいるな。先ほどの言葉には笑いを誘う内容があったということか。
喋っている弓衆一人一人を並列して観察、読唇術も併用して言葉を聞き分ける。
激しく体を波打たせ、地に頭をつかんばかりに背を反らした体勢のまま、次々と入ってくる情報を並列して分析して整理していく。
俺の脳内では、猛烈な勢いで彼らの言葉の辞書が綴られていった。
なにやら紅がこっちを見てあっけにとられている様子なのが気になったが、まあ、今気にすることでもあるまい。
「вхот? вхот дес хос дес!?」
おっと、老人の言葉が変わった。
「何?」を示す単語も含まれ、おそらく四節目の単語は二人称。「おい、お前何をしている!? 私たちを馬鹿にしているのか!」といったところだろうか。
弓衆が騒ぎ出したのを抑えるためだろうか。例の老人がこちらのことを指さしながらさらに何事かを言っている。「静まれ」とか「敵かもしれないんだぞ」などかと予想を立てる。
試してみよう。
最低限、能動的なアクションを起こせるだけの単語は既に手に入れた。
『自分 敵、ない』
踊りを止め、老人へと呼びかける。
イントネーションを故意に崩して、母国語を喋っていないというアピールも加えてみた。
「Воре!? Воре ил ноха фатх!?」
老人が何事かを言い返してきた。
が、その単語は新出だ。どう返せばいいのか分からない。
「どういうことだ、証拠はあるのか!?」だろうか。「立ち去れ」ではないはずだが……。
ともかく、ここは伝えられる表現の中では恐らく最適であろう言葉を返すに限る。
『自分 言語 ない 自分 敵でない 武器ない』
弓衆の騒ぎが一層大きくなる。
困惑と、一部ではすでに安堵の空気も漂わせ始めていた。
緊張の糸は既に、ある程度緩み始めていた。
既に何人かは、弓をこちらに向けるのを止めている。主に年若そうな子供達の集団だ。
だが、未だ緊張の糸が完全に解けきるには至っていない。構えられた銀の鏃の大半は未だ俺達兄妹に向けられたままだ
――まだ駄目なのか?
言語が満足に使えない旅人、というだけでは警戒を解いて貰えないらしい。
次なる一手を何か、と頭を切り替えようとしたその時、村人達の様子に変化があった。
大声を出していた老人の下に、一人の女性が進み出たのだ。
丈の長い、口元まで隠す青いローブで全身をすっぽり覆ったその女性はこちらの様子をチラチラと伺いながら、老人と言を交わしているようだった。
唸るように応じた老人に対し、それを宥めるように女性が手を広げ、今度は頭を下げ、また何事かを口にする。
やがて、話がついたのだろう。
老人の前で一礼した女性がこちらを振り向いた。
薄い灰色に近い黒い両目が俺達二人の姿を順番に映す。
片手に握った長い木杖を持ち上げて女性が一歩を踏み出すと、女性の進路上にいた弓衆が慌てて道を開ける。
「Лиетитх!」
女性を引き留めようと叫んでいるらしき人もいたが、それでも女性は歩を止めない。
固唾を飲んで成り行きを見守る弓衆を背後に残し、その女性は俺達の前まで進み出てきた。
今、明らかに流れが変わっている。
俺達と弓で威嚇する村人たちで睨み合う段階が終わり、その次の段階へ移行したのだ。
そしてその移行を成したのは、この目の前の女性だ。
女性からは、緊張の色が伺えた。
長い杖を握った右手がぐっと握りしめられ、良く見ると細かく震えている。
歩みはしっかりとしていたが、微かに確認できた口元は強張っていた。
3mの至近距離まで接近されたところでようやく、その女性は未だ「女性」というよりは「少女」と呼ぶにふさわしい年代だと分かる。
赤ん坊の産毛のように柔らかそうな睫も、綺麗に通った血色の良い鼻筋も、フードから覗く彼女の顔のパーツの一つ一つが少女の若々しさを主張していた。
丈長の衣を纏っていたために遠目では分からなかったが、まだ10代ではなかろうか。
――それにしてもこのローブ姿、暑くはないのか?
彼女の額を伝っている汗の大半は恐らく緊張によるものだろうが、その厚い青ローブのために不快指数は跳ね上がっていることだろう。
既に汗が染み付き、即日のクリーニングが必須になっているかもしれない。
見目麗しいこの少女の汗で蒸れたローブなら、どこぞの変態が高値で買い取ってくれるのかもしれない――などとどうでいい思考をしていた自分の平行思考回路を閉鎖し、脳と身体への負担を減らしておくことにした。
少女はもう目の前にやってきていた。
少女の纏うローブの胸元には、彼女の持つ木杖に刻まれているのと同じ意匠の紋章が描かれている。
村の土道を歩くには似合わない濃い青の色合いと合わせて、どこか儀礼的な印象を受ける、言い換えるならば何かの宗教色を感じるローブだ。間違っても日用品ではないだろう。
そして、一文字に結ばれていた少女がゆっくりと深呼吸し、目を瞑った時に不思議は起こった。
(あの、お二方。私の……私の、言葉は分かりますでしょうか?)
どこからともなく、声が聞こえてきたのだ。
言葉のどこかに緊張の芯を残した、硬い声。
何だ今のは?
この少女が日本語を口にしたのか?
そう考えるが、目の前の少女は口を開けてはいなかったし、咽喉も動かしていなかったように思う。
声も、まるで自分の頭の奥から響いてきたかのような、奇妙な聞こえ方をしていた。
怯えた小動物のようにこちらを伺ってくる様子からして、彼女の言葉であるのは間違いなさそうなのだが。
「お二方」と聞こえたのでもしやと思い紅を見やると、当たりのようだった。
紅も俺と同じように耳に手を当て、驚愕と困惑の表情を浮かべている。
ひとまず、返事を返さないといけない。
『はい』
肯定の言葉を返すと、少女が見るからにほっとした表情になった。
緊張で縮まった体から少しだけ力が抜ける。
(あなた方は、どちらからいらしたのですか?)
やはり、この少女の言葉で間違いないようだ。
鼓膜を震わせてくるのではなく、俺達の脳内に直接言葉を送り込んでくるような感触。
俺達のような異能による"力"の作用とはまた違う、妙な感覚だ。
相手の脳内なのか、それとも"精神"という概念になのかは知らないが、相手の内なる部分に干渉してくる力というのは少なくとも俺達の基準で考えても破格の能力なのだが――この能力の正体について聞くべきは恐らく今ではない。
この少女と会話ができること、今はそちらの方が重要だ。
『自分と これ つまり 二人 あれ から 来た』
そう言って俺は、自分と紅、そして俺達が降りてきた山を指さす。
すると、少女は何やら驚いたようなに身を仰け反らせた。
(本当、なんですか? 本当に、あの山を越えて? お二人だけで?)
本当なんです。信じてください。――それを意味する言葉が分からず、回答が出来なかった。
(あ! ええと、その前に……あなたがたがパシルノ男爵の手のものではないという証明があれば、私達は警戒を解きます。なので、左腕を、見せていただけませんか?)
左腕を見せると、なぜ自分たちがそのパシルノ氏の仲間でないかを判別できるのか。
その答えは判断材料不足で分からないが、腕を見せるだけならこちらに損は無い。
「紅、見せるぞ。良いな」
目線で助けを求めてきた紅にも腕を曝け出すよう指示を出す。
袖をまくって左肩近くまで露出すると、少女は恐る恐る、と言った風に近づいてきた。
少し身を屈めて俺の腕を端から端まで確認し終えた少女は、ほっと安堵の息を漏らした。
直ぐに紅のほうにも目を向けたが、当然、俺の妹には公序良俗を乱すようなタトゥーも、痛々しい火傷跡もついてはいない。
こちらも、少女の目が紅の健康的な肌を一通り眺めるだけの結果に終わる。
その頃には、少女の表情から当初の硬さが取れていた。
ガチガチに強張っていた手の緊張もほぐれたようで、杖を握る手から赤みが引いていた。
ごくごく小さな安堵の息が、少女の小動物のような可愛らしい口元からから漏れる。表情からも硬さがとれ、目じりに涙を浮かべて安堵の様相を呈している。
雰囲気から察するに、俺達の疑いは晴れたと思って良さそうだ。
これで最悪の可能性は無くなったと見ていいだろう。
――初対面の人達と殺し合いをするのはさすがに嫌だからな。誤解が解けるなら、それに越したことは無い。
(――ありがとうございました。少し、待っていてくださいね)
俺達に深々とお辞儀をした少女は、後ろを振り仰いだ。
そして、老人(先ほどからの弓衆の雑談を見るに、おそらくこの村の長であろうと思われる)達に何事かを叫んで伝える。
すると、ずらりと並んでいた弓衆は一斉に弓矢を下ろした。
そして矢筒を抱え直した一人がこちらに背を向けるともう一人が、そして何人もの者達がこちらへの敵意を収め、村の中へと戻って行った。
俺達が敵ではないことが周知されたらしい。
もう一度こちらに振り向いた少女が俺達に向け、深々と頭を下げてきた。
(失礼な真似をしてしまってごめんなさい)
正直、ここまで謝る必要は無いと思う。
よそ者がいきなり訪ねてきたんだ。
警戒は当然であるし、こちらに文句を言う筋合いはないだろう。
そんなことよりもまず、少女と村人たちが使っていた言葉を教えてもらいたいところだ。
この子は見た目こそまだ幼いが、この子一人を残して他の村人が引き上げているところを見るに、俺達の身柄を預かる程度には信頼か実力、或いは村の地位があるとみていいだろう。
よし。恩に着せるようで悪いが、上手くお願いできれば俺と紅の今晩の寝床ぐらいは用意して貰えるかもしれないな。ここの言葉を教えてもらう手助けも欲しいし、可能な限り情報も欲しい。それにそれに……
(……それと、もう一つすみません)
そんな皮算用をしていたせいだろうか。
俺はその時、少女が何か決意を固めた表情で先ほどまでとは別種の緊張に身を硬くしていたことに気付けなかった。
息を荒くし、潤んだような目で俺達二人を見ていたことに。
『(見ず知らずのあなた方に恥を忍んでお願いします)』
そして。
『(どうか、私たちを助けてください!)』
まるで文脈不明の言葉が、勢いよく頭を下げた少女から飛び出した。
『(お願いします!)』
それが俺達と少女――リーティスという名の神官との最初の出会いだった。