第二十九話:本当に大切なもののためなら、何をしてでもそれを守りたい<乱心?>
side:リーティス
あれはきっと、私の知らない「何か」でした。
先ほどのベニさんの様子を思い出し、ぶるりと背筋が震えます。
いつもなら、
一見すると荒っぽそうな見た目で、でも、話してみるとこちらから踏み込んでいきやすい、親しみやすい雰囲気を発している、
そんなベニさんが、
幽鬼のような妖しげな表情を浮かべ、
氷よりも冷ややかな声音で、
目の前の少年を震えさせていました。
怖い。
怖かったです。
本当に、怖かったです。
あそこに居たのはベニさんで、ベニさんの顔ををした人間であったはずなのに、全く違って見えたんですもん。
あんなもの、ベニさんであるはずが有りません。
思い出すのは、あの黒目。
さながら氷の女王の目とでも言うような、冷たく、人間味の薄いあの真っ黒い眼。
普段のベニさんの黒目を見て、あのような感想を抱いたこと、私、一度もありません。
私はあの時まで、こちらの言葉で話す彼女を見たことはありませんでした。
でもそんな私にだって、
あのベニさんは絶対に私の知る「ベニさん」では有り得ない。
そう、確信できます。
私は何か言い知れない不安感を覚えて、左隣を歩いていたカオルさんの手に左手で捕まりました。
カオルさんは、今の私の心持ちを察してくれたのでしょうか、ちらりと一瞬だけ私と視線を合わせて、右手で優しく握り返してきてくれました。
カオルさんの手の温度が、私の手のそれと溶け合い、そこから伝わった熱で心まで温まっていくように感じます。
浸食してきた得体のしれない不安感に押しつぶされそうになっていた胸の重みが、ちょっとだけ軽くなりました。
気を確かに持ち直し、脇にアリスとユムナさんを従えて私たちの正面を歩いているベニさんの後頭部を見やります。
――ベニさん。――
決して遠くはない、手を伸ばせば届くはずの位置にいるベニさんが、
今の私には手の届かない存在になってしまったかのように感じられました。
ベニさんが完全にいつもの状態に戻った後、私たちはギルドにやってきた少年と少女を家まで送り届けることになりました。
これはカオルさんの提案によるものです。
迷惑をかけてしまったのだから、お詫びを、と。
私は先ほどのショックから抜けきれない状態のまま、なんだか思い通りに動かない足を何とか前に前にと進めています。
まるで、泥の中を歩いているような気分。
温くて、足に絡みついてくる何かの中を進んでいるような、そんな感じです。
でも、そんな私とは全然違う状態の人もいました。
立ち直りが早いのか、切り替えが早かったのか。
先ほどまで一番ショックを受けていた風だったアリスは一番早く元の彼女らしさを取り戻しました。
ベニさんと手を繋いで、私の前を確かな足取りで石畳を踏みしめて歩いています。
「リュウちゃん、大丈夫?」
アリス達の横を、幼い男女二人が隣り合って歩いていました。
一人は、たった今リュウと呼ばれた男の子。
ギルドの受付で騒いでいた時の元気を何かに吸い尽くされたかのようにすっかりなくしてしまっています。
そして、そのリュウ君を気遣っている同い年くらいの少女がランちゃん。
年若い恋人同士のようにも見えますが、それにしては距離が近くありません。
ただの幼馴染の間柄なのかもしれません。
「ああ、ええっと、……いや、何でもねえ」
リュウ君の元気がありません。
それほど先ほどのベニさんが怖かったのでしょうか。
「あらあら~? 二人とも、仲いいわね。ひょっとしてお付き合いしてるの? その年齢から恋人なんて青春してるわね~」
こんな時も平常運行のユムナさんのことを、私は初めて羨ましいと感じました。
「お母さん、帰ったよ。」「お邪魔します、おばさん」
「お帰りなさい、二人とも。あら? 後ろの方たちはどこのどなたかしら」
ランちゃんのお母様が、ベッドに寝たままの体勢から二人に迎えの挨拶を返します。
こちらの正体を誰何すると同時に上半身を持ち上げかけて、失敗。
「お母さん!?」
「ありがとう、リュウ。ランちゃん。大丈夫だから、心配しないで」
崩れかけた体を、駆け寄ったリュウ君とランちゃんに支えられています。
「どうぞ、そのままの格好でお聞きになってください。我々は本日冒険者になった者です。実は先ほどうちのパーティーの者がこちらのリュウ君に失礼なことをしてしまいまして、そのお詫びに参りました」
カオルさんが、低姿勢で謝罪の意を伝えます。
ランちゃんのお母様は恐縮していましたが、まだ8歳のお子様をこちらが傷つけてしまったことは事実です。
この町では、冒険者というのは荒っぽい人たちばかりという認識が普通で、このような件で謝罪に来るなんてことは通常ありえないそうです。
でも、私達までそんな常識に倣う必要はありません。
悪いことをしたら謝る。当たり前のことです。
私もカオルさんの隣で、一緒に頭を下げさせて頂きました。
カオルさんには先ほど、「紅に、さっきの一件は伝えるな。――いや、そもそも今日は何があっても、絶対にベニに通訳はしないでくれ。魔石製作のために魔力を相当使ってしまったとでも言い訳してくれればいい」、と耳打ちされています。
私としては、ベニさん本人にも真実を告げるべきだと考えます。
でも、カオルさんがベニさんのためにならないことをするとも思えません
結局、言われた通り通訳はしないことに決めました。嘘を伝えるのは気が進みませんけど、仕方ありません。
私たちの通訳がないベニさんは、今の状況が把握できずに首をかしげながらも私達に合わせて頭を下げています。
胸がズキリと痛みます。
――許してください。
「奥様の治療はどなたが担当していらっしゃるんですか? だいぶ弱っておられるようですけれど」
気を取り直すように、疑問に思っていた内容を口に出しました。
「それが、今この町にはお医者様がいないの。お母さんと同じ病気で倒れちゃって。この町には神殿もないし、お母様を診てくれる人がもう一人もいないん、です」
それでしたら、ちょうどよかった。
「私は運命神アリアンロッドさまの司祭です。簡単な治癒魔法ならかけられますけど、重いご病気なのですか?」
「ええ。治る見込みはほとんどないそうよ」
「おばさん! そんなこと言っちゃだめだ! いっただろ、俺が冒険者になってアルケミの町の治療院に連れてってやるって。きっと治るさ」
リュウ君が冒険者ギルドに入ろうとしていた理由がようやく分かりました。
ランちゃんのお母様の治療代の確保。
安静状態を維持させながらアルケミの町まで彼女を運ぶために必要な護衛。
この二つを同時に満たす手段が欲しかったからだそうです。
ギルドに入って、あわよくば力のある人にパーティーに入れてもらえれば、と考えたのだと説明されました。
もっとも、見るからに脆弱そうな体つきの少年を受け入れるほど、冒険者ギルド登録の規定は甘くなかった、ということらしいです。
それでも一応、と頼み込み、治癒魔法を詠唱させて貰いました。
けれど、ラナさんの苦痛こそ一時的に和らげられたものの、病状の回復には至りません。
この町のお医者様も、こうした対症療法しかできなかったとのことですが、もっと私に力があればと思わずにはいられませんでした。
多少の医学知識があるというカオルさんも問診を試みましたが、病名は判断できないとのこと。
やはり、ちゃんとしたお医者様に見てもらわないと駄目なのでしょうか。
「なあ、姉ちゃんたち。冒険者なんだろ!? 俺の代わりにおばさんをアルケミの町まで連れて行って、治療を受けさせてやってくれないか! 金なら俺が一生働いて返すよ。お願いします!」
リュウ君が、必死に頭を下げてお願いをしてきます。引き受けてあげたいところですが、今は私達にも急ぎの用事が……
そう考える私の横で、カオルさんが目を見開いていたことに、私は気づきませんでした。
「よし分かった。その依頼引き受けよう」
『おい!?』(え?)「ちょっと!」「はい~?」
カオルさんの即決に、私を含めた皆から驚きの声が上がりました。
「ちょっと、貴方!リーティスの村と私の身柄よりそっちを優先するっていうの!?どういうつもりよ。それがリーダーの決断とでも言うつもり?!」
「アリス、いいから少し落ち着け」
「これが落ち着いていられる!?だいたい……」
「黙れ」
カオルさんが珍しく苛立たしげな表情を見せ、語気を荒げています。
威圧されたアリスが息をのみ、ペタンと座り込みそうになったところをベニさんに抱き留められました。
私は、いつもと全く違う雰囲気を醸し出しているカオルさんに混乱するあまり、一歩も動けませんでした。
まさか、ベニさんに続いてカオルさんまで?
そうだとしたら、私はどうすれば良いの?
『おい、兄貴……』と抗議の声を上げようとしたベニさんの声を遮って、カオルさんが似つかわしくない傍若無人な態度で言葉を続けます。
「これから俺達は二手に分かれる。その方が効率的だ」
私を含む皆は、何も言えない木偶のように立ち尽くして、カオルさんの説明を聞いているしかありませんでした。
いったいどうしてしまったんですか、カオルさん?
薫の乱心? の理由やいかに




