第二十六話:徘徊癖ってのは老人の専売特許じゃねえぞ<夜の散歩>
side:紅
――ん、寝たみてえだな。
先ほどまで、あたし達の隣の部屋の中を、アリスらしき小さな気配がうろうろと歩き回っていた
たぶんだけど、兄貴の言う通りにおとなしくしているのは気に食わないが、一人で外に出るのは怖い。
それで迷いに迷った挙句、後者が勝ったか、もしくは考えるのに疲れて去来した眠気に身をゆだねたとか、そんなとこじゃねえだろうか。
柔らかな布団に潜り込んで完全に寝静まったらしいアリスの気配を感じ取って、あたしは壁から耳を離した。
死人のように静かに眠っている兄貴。
その下、あたし達のベッドに挟まれたスペースで、ぐーすかと眠りこけるユムナ。
この部屋の面々もあたし一人を除いてみんな夢の世界だ。
それにしても、このユムナって女。縄で拘束されたまま寝室なんぞに連れ込まれて、良くこれだけリラックスできるもんだぜ。
ドMって感じじゃねえし、適応力が高いだけかね? ま、この世の終わりみたいな表情で「好きにすればいいわ……」なんて言われるよりゃマシか。
この女ならむしろ「あれ~? 今日は縛ってくれないの?」とか言い出しても驚かねえ。
さて、話し相手もいないあと二時間弱、どうやって時間をつぶそうかね。
ベッドの上に体を投げ出し、あたしは一人の時間の処理について勘案を始めた。
兄貴が「休眠」している三時間の間、あたしは見張り番ってことになっちゃいたけど、実のところ、不要の役職なんだよな、これ。
兄貴は寝ていてなお「怪しい気配」を感じ取ればすぐさま覚醒できる程度には脳を活性化している。
あたしの護衛は保険程度の意味しかねえつまてことだ。
そう考えて、ふと今が絶好の機会なのではないかと思い至る。
皆の目から離れて外を出歩ける、格好の機会であることに、気づいてしまった。
あたしは、膝の上にかけていた布団をゆっくりと脇にどかした。
一度やる気になっちまうと、やらずに済ませる気が一切なくなってしまうのはあたしの悪い癖だな。
若干の後ろめたさを感じる内心とは裏腹に、あたしの手はよどみなく胸のボタンを外し始めていた。
寝間着代わりのローブを取り払い、外出に適した格好に着替えを終える。
ココロ村でもらったカチューシャも装着した。
帽子はかぶらなかったから、「耳」は出たまんまだ。
蒸れにくい素材の帽子なんだが、夏場にずっと装備しておきたい代物じゃない。
まあ、見られなければ問題ねえよな。
部屋の南側の窓を開け放つと、冷たい夜風が部屋に吹き込んできた。
桟に足をかけて外気に身を晒すと、さわさわと流れる風が、夏の夜を疎ましく思っていたあたしの体をほど良く冷やしてくれた。
良し、行くか。
あたしは窓枠を足場に、隣家の屋根まで一息で飛び移った。石造りの家は足場としちゃすごく頼りになる。
――良い夜だな。
屋根から屋根への跳躍を繰り返し、心地良い夜風を身に受けていたら、そんな感想が零れ出た。
あたしの眼下に広がるソルベニスの町は、ココロ村に比べると石畳による整備がしっかりと成されているみたいだった。
「町」と称するにふさわしい密度で、西欧風の家々からなる町並みがどこまでも続いている。
町の中心を貫く大通りには松明の括りつけられた鉄柱が左右に立ち並らび、月明かりの弱い夜闇の中、一際明るく存在を主張していた。
その脇には、貴重な光の魔道具やランプを用いて、この時間も経営を続けているらしい店もある。
大半の建物は明かりを落とし、中の住民ごと眠りについている時間帯だってのに、ご苦労なこった。
この町は冒険者がそこそこ多いって話だったから、酒場かなにかかね。
時折、町の警備の兵らしき三人組の男たちとすれ違う。
ガチャガチャと金属鎧の音を鳴らしながら歩くそいつらの頭上を飛び越えるが、闇に溶け込んで音もなく歩むあたしの姿に気づいた様子はない。
誰にも見とがめられることなく、あたしは夜の町の疾駆を存分に楽しんだ。
――ああ、気持ちいい。
元々あたしは夜の町の光景というやつが好きだった。
日本にいた頃、兄貴に手を引かれ、学校から自宅まで、夜の町を抜けて帰っていた時期がある。
明かりをつけて家主の帰りを待つ玄関や、道まで漂ってくる夕餉の支度であろうカレーの香り、すっかり暗くなってから街灯に照らされてできるようになる足元の長い影といったものに、何とも心惹かれたもんだった。
おかげで兄貴によく「もうしばらくお散歩していたいな」なんて言って困らせちまってたなあ。
兄貴を追ってASPに入隊することになった後も、この何とも形容しがたい寂しくも温かい雰囲気を感じたくなって、良く夜の町に繰り出していた。
変な店に入り浸ってた訳じゃねえが、女の子が持つべき趣味じゃあなかったな。
齢14を超えたあたりから、変な輩に声をかけられるようなったが、片端から拳で撃退してやったもんだっけ。
気づくと、大分長い距離を走破していた。
もう、町の端である門の姿がすぐそこに見えてきていた。
そろそろ休憩すっか。
手直に広い公園を見つけたので、そこにお邪魔させて貰うことにした。
太い広葉樹の根元に座り込み、ふうと一息つく。
久しぶりの一人の夜に少々興奮しすぎちまってたみたいだ。
息は切れてねえが、若干汗をかいてしまってる。
懐から取り出したタオルで大雑把に顔を拭き、脇を拭って水気を払う。
――これで、スポーツドリンクでもあればベストなんだけどな。
無いものねだりをする自分に苦笑する。
そんなもん、この世界に有るわけねえだろ。
あたしは使い終えたタオルを肩にかけ、全身の力を抜いてクールダウンに努めることにした。
枝葉を揺らす夜風があたしの体を通り過ぎ、体温を下げてくれる。
本当に気持ちいい風だぜ。
背を木の幹に預け、しばし街の夜風を堪能する。
熱された体が程よく冷やされてきたあたりで、ふと、眼前に背の高い灰色の建物があることに気づいた。あれ、こんな建物、さっきからここにあったっけか?
特に目立つ外装がある訳でもないのに、何となく目線が吸い寄せられる。
不思議な存在感を放つその建物。
教会か、何かだろうか?
(リーティスのいたあの神殿に似てやがんな。規模はもうちょいでかいみたいだが)
ココロ村のアリアンロッド神殿は、30人も入れば埋まってしまう礼拝場のみという小さな作りだった。
それに対して目の前の建物は、外見から内部を想像するに、少なくとも100人程度の信徒が入ることができるんじゃないだろうか。
掲げている紋章はアリアンロッドのそれではなかったから、リーティスのお仲間さんじゃないみてえだけどな。
(気のせいだと思うがあの印、漢字に似てんな。さしずめ、「竜」ってところか)
木に寄りかかって休むこと数分。
そろそろ宿に戻るかと思い、立ち上がったところで、目の前の教会の正面扉が音もなくゆっくりと開き始めた。
暖かいような冷たいような、どちらとも分からない不思議な彩色の光がその中から漏れ出てくる。
――こんな遅い時間に外出か? 宗教家さんは大変だねえ。
ぼうっと眺めていたあたしの目を、突然眩しさを増し、かっと輝きを放った光が焼いた。




