第二話:未知行けば<妹の気持ち>
推敲が済んだので早速ながら投下します。
side:紅
崖脇の小穴で最初の一夜を明かしたあたし達は、二日目になる今日も今日とて道なき道を歩き続けていた。
森の草木をかき分け、岩山を乗り越え、川を飛び越えて進む、どこぞの冒険家のような行程。
まあ、兄貴もあたしも、高さ50mのロッククライミングやはぐれ狼の襲撃くらいならものともしない。
あたし達を見て涎を撒き散らしながら飛びかかってきた大狼はというと、兄貴に拳銃の銃床を叩きつけられて気絶し、急な斜面をごろごろと転げ落ちて行った。
それよりも何よりも、この思わぬ陽気の良さの方がよっぽど面倒な敵だった。
暑さそのものもまあつらいんだけど、次から次へと湧いてくる汗がとにかく鬱陶しいんだ。
たまに山頂から霧が下りきて、こいつが来ると日差しは遮ってくれるんだけど、今度は蒸し暑さが酷いことになる。
水源が近くて水の確保は楽なんだけど、生水ばかり飲んで腹を壊したらたまったもんじゃないってんで、兄貴からは程よく休憩をとって汗を流しすぎないようにとのお達しが。
兄貴はいざとなったら「自分の体調を完璧に整える」裏技があるからともかく、あたしの方はそうはいかない。
少々超人的に丈夫な身体はしているけれど、あたしだってただの一人の女の子。
戦車に轢かれて無傷な肌と青酸カリの数十倍の毒性を持つ神経毒も分解できる内臓はあるけどさ、無茶しちゃいけねえよな、うん。
まあ、そんなこんなで川の流れを追って山を下り続けてたあたし達だったけど、ひたすら続く山道にもやっぱり終わりはある訳で。
視界を遮る繁った木々の枝々の先に、とうとう探し求めていた目標を発見した。
「おい、あれ! たぶんだけど、村だ。畑っぽいのが見える」
崖脇の小さな滝を見つけ、その畔で小休止を取っていた時のことだ。
日差しを遮る大葉の下で涼を取りながら川の下流の方を見下ろしていたあたしは、霧のちょうど薄れた瞬間に、耕作地帯らしき土地と、その向こうに小さく見える柵のようなものを視認して、兄貴に報告した。
「どの方向だ?」
あたしより視力の低い兄貴は立ち上がってあたしの示した方角を見るも、目視に失敗。
「まあ、お前の言う事だ。信じよう。明日にはその村まで辿りつこう」
でもあたしの観測結果は信じてくれて、そう言ってくれた。
ほっと安堵の息を吐いた兄貴が草上に腰を下ろし、大きく伸びをする。
方針が定まったからなのか、なんだか分かりやすい安堵と安心の気配がゆるんだ頬から見て取れた。
兄貴はその無駄に硬い口調と(あくまで一見)生真面目そうな性格とは裏腹に、実は気分が割と顔に出やすいタイプだ。
そのあたりが理由なのかね。
兄貴は意外と隊の女受けは悪くなかった。「男」として見てたってやつはあたしの知る限りでは居なかったが、可愛い弟タイプだと評判は良かったように思う。黒縁眼鏡は愛嬌があるって高評価だったし、能力面は文句のつけようがないくらい優秀だったしな。
ま、あたしのガードを潜り抜けて兄貴とツーマンセルのパートナーになった奴はいなかったけど。
「あー、二日続けて野宿かよ。しかも今日は屋根もなしとか、グレードダウンしてるじゃねーか」
「文句を言うほどのことじゃない。水と食糧だけでも確保出来ているだけでも充分だ」
いかにも優等生なお説教を返してくる兄貴だが、気持ちしょんぼり下がった眉を見るに、自分自身もう少し上等な場所で夜を明かしたかったんだろうな。
そんな兄貴の顔を見つめ、しばらくニヤニヤしていたあたしだが、ふと先ほどの兄貴の言葉に意識が行った。
「あれ? そういや、食糧って確保できてたのか?」
あたし達は一日中、わずかな小休止以外の時間はずっと歩き続けてたはず。
残り少ない糧食はもうそろそろ流石に心許ない量で、そろそろ狩りでもしないとな、なんて思っていた頃だ。
首をかしげるあたしに対し、兄貴もまた目をきょとんと不思議そうにしばたかせた。
「……ちょっと待ってくれ」
ごそごそと背嚢を探った兄貴は、腰の水筒の原料と同じ大きな葉っぱを懐から取り出し、地面に置いた。
葉っぱは青々とした瑞々しい色艶を見せていて、確かに草食昆虫とかが大好物にしてそうな見た目なんだが――。
「まさか、この葉っぱを食えってか?」
人間が食べるとなっちゃ、話が別だ。
確かにこの状況でちゃんとした食べ物を口にできるとは思ってなかったけど、これはちょっとな……。
そんな風に気持ちをしぼませていたあたしの前で、兄貴はふっと悪戯めいた笑みを零す。
「別に青虫の真似事をしろとは言わない。食べるのはこの中の物だ」
「おお……!」
見ると、その葉っぱの中には、いったい何時採ったものか、木の実に茸、植物の球根(?)など、食材らしきものがいくつも入っていた。
博識な兄貴が見繕ったものである以上、毒の心配はしなくて良いはずだ。
それにしても――。
「こんだけのもの、一体どうやって、いつの間に集めたんだよ」
「歩きながら集めていた。俺は一瞥の時間があれば有用性の判断、最適な採取法あたりは引き出せる。特段長い間立ち止まらなくてもこれだけのものは集められる」
おお、あたしが野生動物や毒虫に気を張って先を歩いている間に、兄貴はそんなことをやってたのか。
あ、そういや思い出した。
そういや兄貴は道中、草村や木の脇で時々しゃがんだり飛び跳ねたりの奇妙なムーブをしていた。
あれは別に、変なダンスを踊って日々のストレス解消をしていた訳じゃなかったんだな。
「まあ、せっかくの兄妹水入らずの晩餐だ。これだけのメニューでは少し寂しい。日が落ちるまで時間もあることだ、紅はさっきの川で川魚を獲って来てくれ。火は起こしておく」
「あいよー、了解。そんなら善は急げだな、早速行って来るぜ」
立ち上がりつつ、ふと一言。
「あ。あと、兄貴はこっちくんなよ。魚採ってる時あたしのこと覗きに来たらぶっ殺すかんな―」
「ん、どういうことだ?」
「結構幅のある川だったろ? あそこで魚を採ろうってんなら防水仕様っつても服をそのままって訳にもいかねえかな~って」
流し目で軽くからかってやると何かを察した兄貴は目を泳がせながら「お前ならガチンコ漁なり手掴みなりで採れるだろう。服を脱がなければ良い」なんて言い出した。
ふふん。ま、言われなくてもそのつもりだったけどな。
「んじゃ、そういうことで」
くっくと笑いながら川へ向かう。
いやあ、楽しい。
ASP本隊から離れたあたし達は、事実上の遭難生活中なわけだが、そんなことどうでも良いだろって思っちまうくらいに、あたしは今この瞬間を満喫していた。
兄貴と再会してからの数年間でも、今が一番充実しているかもしれねえな。
「へえ、中々綺麗な川じゃんか」
魚の姿が見える川岸に到着したあたしは、川の清浄さに思わず感心してしまった。
あらためて見ると、硝子みたいに綺麗に透き通った水だ。清流なんて言葉がぴたりとあてはまる。
ゴミは勿論、不要な泥も交じっていない。人里離れた地という事もあり、見た目以上の神聖な清浄ささえ感じさせる。
旅行雑誌あたりで「見ているだけで心が洗われる美しい河川です」とでも紹介されてりゃ、「おお、まさに!」とでも同意しちまいそうだ。
どこかうきうきとしてきたあたしは脱ぎ捨てた靴を投げ捨て、川に向かう。
「あはっ」
ズボンの裾をまくりあげ、ジャブジャブと音を立てて川の中心まで入ると、自然と笑顔になってくる。
いやあ、暑い日には川遊びに限るとはよく言ったもんだ。体の奥に染みわたるような自然な冷たさが実に気持ちいい。
兄貴がこの場に居たら、水の掛け合いっこなんてのにも挑戦しときたかったね。
まあ、今回の目的は水遊びじゃねえ。ハンティングを開始させてもらいましょうかねっと。
「よし。覚悟しろよてめえら。美味しくがっつり食ってやる!」
びしりと指さす先には、何匹かの川魚が湖底を泳いでいた。
腰を低くかがめ、熊の手掴み漁を模した体勢をとる。
農作業する農夫達の姿勢って言った方が分かりやすいか?
さて物は試しと手近な魚にゆっくり寄っていくが、警戒心が強いのか、すぐに逃げられちまう。
まあ、そう簡単にはいかねえよな。
仕方ないので、腰を据えて魚が手元にくるのをじっくりと待つことにする。
――来た!
機会は直ぐに訪れた。
体長10㎝ほどの川魚が近くに来たのを見逃さない。
右腕を高速で湖面に突き入れ、伸ばしたその手で獲物をがっちりと捕まえる。
「おっしゃ、一匹目ぇ!」
獲物となった魚が、水面から持ち上げたあたしの手の中で、元気に体をくねらせ、跳ねて逃げようと暴れまわる。
駄目だぜ? 離さねえからな。
種類は分からないが、磨かれた食器のように綺麗な銀色の身体をしていて、中々美味そうだ。
跳ね回る元気がなくなったところで自分の靴を置いたあたりに投げてプールしておく。
良い滑り出しだった。
「おし、次々ぃ!」
二匹目、三匹目、四匹目と、そう苦労せず捕まえられた。
何となくコツを掴んだ気がする。一匹捕まえりゃあ、あとは簡単だな。
確保した魚の数は順調に増えていった。
そのまま漁を続け、手の中の5匹目が飛沫を飛ばしながらぴちぴちと体を跳ねさせているのを見ていた時だった。
「そいつ」はいきなり現れた。
背筋にゾクリと嫌な感覚を覚えた。
思考より先、体が反射的に戦闘態勢をとる。
足を川底に滑らせ、気配を感じた上流側に体の前面を向けて身構えた。
右手に掴んだ五匹目は投げ捨て、迫りつつある未知の気配を見据える。
未知の気配ではあったけれど、あたしはその気配の種類は良く知っていた。
強い害意、或いは強い悪意の籠った冷たいものが川の上流から放射されているのが分かる。
その「殺気」の発生源の方向を、あたしは睨み付けた。
そして、気配の主が姿を現した。
――魚……か?
そう思ったが、違う。
両手を胸元の高さに掲げて身構えるあたしの身に、ピリピリとした圧力を感じさせてくる、その生き物。そいつは鰭を持ち、手足を持たずに水中を行く直線状の体という、魚として有りふれた造形をしてた。
だがしかし、その生き物は、どう考えてもただの魚じゃ有り得なかった。
まず、とんでもなく大きかった。比較的浅瀬であるこのあたりでは、その胸鰭が水底にこすれてしまうほどの巨体が、水の中を悠々と進んでいる。
その存在を大いに主張する巨大な背びれは、水面から顔を出して河面を切り裂いている。
けど、こいつの異常性は、その非常識な大きさだけじゃあなかった。
何より異様なのは、鎧のような外骨格に覆われた凶悪な面構えだ。肉食獣についているような巨大な牙を二本備えてる。
暢気に観察しているように思えたかもしれないが、そいつの泳ぐ速度は時速に換算するならば60kmほどはあった。ジェットスキー並みの高速である。
そしてそれすらも全速じゃあなかった。あたしが姿を認めた次の瞬間には更なる猛加速を見せ、あたしとの距離を一瞬で詰めてくる。
強靭な尾びれで川底を叩き、異形の魚はまっすぐ、こちらの顔目がけて飛んできた。
夜叉の面に似た異形の凶相が、巨大な口を広げて迫ってくる。
暗い口内には、鋭利な牙の林が生えているのが見える。食らいついた者をズタズタに切り裂くこいつの武器だろう。
だが、あたしだって黙って食われてやるわけにはいかねえ。
水面すれすれまで屈んで構えたあたしは、一瞬だけ人の理から逸脱した。
「くおッ」
全てがスローモーションで流れ始めた世界で、あたしは四足の姿勢から動いた。
怪魚の横腹を右足で力の限り蹴りつける。
ただそれだけの挙動で、怪魚の巨体がはじけ飛んだ。
大量の赤い液体が水上で振り撒かれる。
ごつい顔だったから勘違いしてたが、身体の方は普通の魚ぐらいの柔らかさだったのかもしれない。
あたしの右足は、勢い余って怪魚の体を抉りとり、真っ二つにしてしまっていた。
あたしの顔に熱いベーゼをお見舞いしようと飛んできやがった上半身を右手で掴み、受け止める。
あたしの初めてを奪おうなんざ100年早い。
水面跳躍の勢いを残した下半身は回転しながらあたしの後方に飛んでいき、派手な水飛沫を上げながら着水した。
轟沈。
そしてごつい上半身は体の半分と切り離されたまま、あたしの手の中に。
それでも尚、そいつは死んでいなかった。
鋭い牙の生えた顎が何度も何度も打ち合わされる。
半分の体で暴れ、あたしの拘束から逃れようとしてくる。
けど、その体にはあたしの五指を深く食い込ませていた。
逃げられる道理なんてない。
それでもそいつは暴れるのをやめようとはしなかった。ぶっとい歯の生えた顎ががちがちと鳴り、自然で暮らす動物らしくない粘っこい殺気を放ってくる。
その殺気があたしに認識させる。こいつは、敵だ、と。
「テキ……」
その時にはもう、あたしの右手はそいつの頭を外骨格ごと握りつぶしていた。
血と共に、硬質そうな外皮の欠片がその場に飛び散る。
凶相の上半身が、完全に動きを停止した。
あたしは物言わぬ骸となった怪魚を足元に落とした。
大きな波紋を生じさせながら河面に落ちた怪魚の残骸から赤い血が流れだし、清浄だった水の色が汚らしく濁っていく。
握りつぶした怪魚の血で服を汚してしまったことに気付いたが、元々先ほどの蹴りの時点ですでにある程度汚れてしまっている。今更大した問題ではないだろう。
――ああ、いっけねえ。着替えが無いんだったな。そもそも汚しちまったこと自体が問題か。
死んだ魚より、これから暫く着続ける予定だった服の方が大事だ。どうしたもんか……、と血に汚れた身であれこれ考えていると背後の茂みががさりと音を立てた。
振り向くと、いきなりの銃声が耳に飛び込んで来た。
銃弾が一発、あたしのいる場所へと飛んでくる。
あたしの耳元数十cmの距離を飛翔して行った超小型の銃弾は、そのまま空気を裂いて突き進み、あたしの背に取りつこうとしていた、長い針のような器官を備えた黄色い海老のような生き物に命中し、その体を弾き飛ばす。
遅れて鼻元に漂ってきた硝煙の香りは、いつの間にか駆けつけていた兄貴が構えた、携帯銃の先端から漂ってくるものだった。
「結論から言おう」
「いいね、結論から。いつもそうしてくれりゃ、色々楽なんだけどなー。兄貴は結構無駄話好きなのが欠点――」
「まぜっかえすな、紅。任務中はそうしているだろう。……まあ、それは良い。ともかく、重大な結論だ」
わざとらしい咳払いで一拍間を置き、兄貴が告げる。
「ここは地球じゃない」
パチパチと火花を飛ばして燃える焚き火の前にて。
あたしのとった魚(怪魚じゃねえぞ。どんな病原菌や寄生虫が入っているかわかったもんじゃないからな)を枝に刺して焼く準備を整えながら、兄貴はそんな言葉を告げた。
ひどくぶっ飛んだ言葉だったが、兄貴は至って真面目な顔だ。
間違いなく冗談で言っちゃいないだろう。
それにその言葉、もしくはその事実。
正直、あたしはそこまで驚きはしなかった。
薄々は感じちゃいたのだ、何となく雰囲気というか空気の違うこの地が、地球上にある場所――あたし達の知っている世界と陸続きで存在している場所じゃないのかもしれないと。
「最初に疑問に思ったのはここの植生と昆虫だ。俺が検索できない種類のものが、かなりの数存在した。昆虫については俺の知識もそれほどでは無いが、植物、特に食に適する果実や根を持つ種類や毒を持った種の特徴に関しては、何かの役に立つかもしれないと思って完璧に『記憶』している。……まったく未知の果実をつける種だけで構成された林などを見て、おかしいと感じた」
「はんえんひおふほうおくっへ、ひおふははんへんへほひっはんほほえはほほほわふれふほともはふっへひいへんへど?」
兄貴お手製のキノコ鍋の具材で口の中をいっぱいにしていたあたしの言葉に、兄貴は眼鏡を抑えてのため息で返事をしてきた。
「……口の中のものを無くしてから喋れ。それとそのあたりの知識は座学で習っているはずだが?」
おお。一応あたしのことばは解読できたっぽいな。さすがだぜ。
「木々だけじゃない。さっきお前が遭遇した魚型の生物も海老似の生物だってそうだ。あんな生き物、俺の知識にはない。引きだせなかった。そもそもあんな浅瀬のある川にあれほどの大きさの生物が棲息していること自体有り得ないんだがな。俺が思うに、あれは陸上でもそれなりの生活能力がある肺魚の一種じゃないかと……」
「もしくはあれだ、魔法生物とかかもしれないぜ。ここが異世界だってんならそんなファンタジー生物が居てもおかしくないだろ?」
魔法。物理の理に縛られない、悪魔のようなルール。
半分冗談半分本気で言ったちゃかし言葉だったが、それに対して兄貴からの返事は無かった。
沈黙し、再度腕を組んで唸りはじめる。
あたしはそれを尻目に、食事を再開しながら自分でも考えを纏め始めた。
兄貴も、『その』可能性は考えていたんだろう。
ここがそもそも、地球と同じ物理法則で成り立つ世界ではないのかもしれないと。
そんな、恐ろしい可能性を。
「あ、兄貴。魚焼けたんじゃね?」
「ん? ……いや、まだ火が通ってない。もうちょっと待て」
「大丈夫だって。あたしならいける」
「生の川魚は寄生虫が巣食う虫虫パラダイスだ。俺は自分の妹が虫の住み家になるところを見たくはない」
「うげ、そいつは嫌だな。でも兄貴なら行けるんじゃねえか?」
「お前は俺をどうしたいんだ?」
兄貴が困ったように頬を掻く。
押して押して押しまくれば食ってくれるかもしれないが、別にあたしも兄貴にそんなことをして欲しいわけじゃない。
下らない雑談に花を咲かせ、食べごろを迎えた焼き魚をきちんと腹に収めたあたしと兄貴は、ふうと一息ついて就寝の準備にかかった。
すっかり日は落ちていた。
「予定通り今日は俺が眠らせてもらう。見張りを頼むぞ、火の番もな」
「はいよ。全力で眠ってこい」
「――"完全休眠"」
言うや否や、兄貴は木の下で丸くなり、すぐに寝息を立て始めた。
昼寝検定有段者であろう野比のびた君も真っ青の早業だ。
あたしは兄貴が「休眠」に入ったことを確認し、何とはなしにその傍まで身体を寄せた。
丸くなった兄貴の横に膝を抱えて座り込み、ぼんやりと空を眺める。
昨夜は曇って見えなかった星空は成程、こうして見てやると普段見ていた夜空とは別物のような気がした。
――あたし達はいったいどこに来ちまったんだろうな?
つい先日まで、人間同士の殺し合いなんぞをやってたあたし達だ。
いつ精神的に参ってしまっていてもおかしくなかったあたし達に、神さまが気を利かせて平穏な時間を与えてくれたのかもしれない。
なら、ここはさしずめ羽休めのリゾート地ってとこか。食う物も寝るところも自力で現地調達たあ、随分気が利いてるぜ。
そんな、夢にも思わないことを考えてみる。
そんな都合の良いことなんてあるわけがないと、自分でもわかっちゃいる。
何かの偶然にせよ誰かの必然があったにせよ、あたし達は誰かの善意でこの場に運ばれてきたわけじゃないんだろう。
でもどんな形であれ、今はまたあの、いつかの昔みたいに、誰に気兼ねすることもなく兄貴の隣にいられるんだ。その事実は、嬉しかった。
とてもとても嬉しかった。
焚き火の炎がパチパチと音を鳴らす。
耳をすませば、夜も勤勉に励む滝の音も耳に入ってくる。この滝はさっきあたし達が休憩してたとこのやつだろうか。
時折吹く風が草木を揺らし、葉擦れの音が耳心地の良い音を奏でる。
夜空に浮かぶ満点の星空には、星の輝きをも脇役に貶める大きな主役が浮かんでいた。
それは、地球のそれより二回りは大きい満月の輝き。
暗い暗い森の夜を照らしだす、美しいけれど、どこか妖しげな光。心も身体も、ここではないどこかに連れて行ってしまいそうな、異界の月の魔性。
ふと、あたしの頬を何かが伝った。
「……え?」
涙だった。
寝静まった兄貴の傍で、あたしはいつの間にか涙を流していた。
この世界の自然に触れたあたしの体が、どういう訳だか涙を流していた。
ここ数年間、どんな過酷な訓練の時も、作戦で大失敗をやらかした時も涙なんて流れなかったってのに。
なんで、今。こんなところで……。
――いけねえ、兄貴の前で涙は見せないって決めてたのに
我に返り、慌てて両の頬をぐしぐしと両手で擦る。
右頬を伝った涙が兄の眼鏡に落ちたことに気づき、慌ててハンカチを取り出した。
これだけは清潔にと思ってとっておいたハンカチで、兄貴の頬からあたしの感情の欠片を綺麗に拭い取る。
「――っ」
ASP東京本部第十二部隊の切込み隊長竜崎薫の妹、最速の戦士竜崎紅は、知らず知らずのうちにただの16歳の竜崎紅に戻ってしまっていたみたいだった。
それは地球ではないこの土地で芽生えた不安感ゆえか、或いは組織のしがらみから離れて、兄とただの兄妹のように居られる状態になったことが戦闘員として作り上げた心の鎧を取り払ってしまったからか。
早くいつもの自分を取り戻さなければと理性が訴える。
こんなんじゃ、兄貴の護衛の寝ずの番さえ満足にできないぞ、と。
でも、感情がそれに逆らっていた。
今はただ、兄の傍で涙を流していたい気分だった。
頬を伝う柔らかで温かい涙の感触が、酷く甘美でしょうがなかった。
兄の横でこうしていられることが、どうしようもなく嬉しい。
その気持ちに逆らうことはできそうもない。
甘くて優しい、悪魔の誘惑。
……だから、今日だけは自分を許すことにした。
隣で安らかな寝顔を見せている兄に、自分の影法師が落ちる。
「おやすみなさい、お兄ちゃん」
完全休眠中の、よほどのことが無い限り目を覚まさない兄の頬にそっと口づけする。
涙の痕の残滓が兄の頬に残ってしまったが、今度は拭わない。
きっと明日の朝には乾いているはずだから。
眠り続ける兄から身体を離す。
直ぐ間近に感じていた兄の温もりが遠ざかるのが口惜しかったけれど、心の方はすっかり落ち着いて、満足していた。
とても、いい気分だ。
とっても、嬉しい気持ちだ。
夜は更けていく。