第百七十四話:<最後に残ったもの>
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「行くぜえええええ!」
長剣を手に握りしめ、男が地を蹴った。
気合の入った大跳躍。男が立っていた地面に砂煙が舞う。
男は高く跳びあがったその足で石製の壁を勢いよく蹴り飛ばした。剣を向け、身構えるユーノを上空から強襲せんと、獰猛な獣の眼光で迫る。
その攻撃とほぼ同時、額にバンダナを巻いた槍男が大きく円を描いてユーノの背後に回り込んでいる。当然、ユーノの死角となる立ち位置だ。
――さあ、貴女はこれに応じられますか?
天から繰り出される守りの手ごと押し潰す斬撃と、地から狙い打たれる死角狙いの刺突。
ごくごく基本的な連携技だが、基本故に効果的な対処も難しい。
「――でも、甘いねー」
「何だと――うおぉっ!?」
ユーノの足元から、幾十子の泥の弾丸が放射状に放たれた。
顔面目がけて飛来してくる黒色の泥塊を防ぐべく、長剣の男は剣の腹を防御に用いざるを得なかった。そして男の攻撃がワンテンポ遅れる。
「ちいっ!」
「一人くらいなら、あたしだって!」
槍の男は見事な反射神経で首を振り、汚泥弾を躱していた。
しかし、その彼が攻撃対象として見定めていた少女の背は、すでにこちらに向けられた剣の切っ先とその位置を交代していた。
――良いでしょう、ならば真っ向勝負です!
剣と相対することになっても、突進の勢いは緩めない。
男は槍の握りを強め、目をくわりと見開いた。
表情の見えない仮面の少女の胸元目がけ、十二年連れ添った愛槍を雷速で突き出した。
何千回と繰り返した反復訓練で身体に染みつかせた力強い踏み込み。毎日欠かさぬ鍛錬で培われた全身の筋肉と、街を守るために身に着けた剣士の魔力が、男の槍に最高の破壊力を与える―――――――はずだった。
――これは!? ――くっ、迂闊!
槍男の踏み込み足が、地面にめり込んだ。
足が沈み込んだ黒い地面が、怨讐籠った底なしの沼のように男の足を捕え、離さない。
咄嗟に制動をかけ、無様に前転することは避けたが、体勢を大きく崩してしまっていた。
そして高速で行われる剣士の戦いは、小さな隙一つで勝敗が決まる。
氷結させたばかりの地面を滑ったゆーのが、槍男の懐に潜り込んできた。
狐を模した白仮面の奥にある二つの瞳が、口惜しそうに歯噛みする男の顔を捕える。
「せっ!」
振りぬかれる長剣。
厚い胴鎧、男が反射的に魔力を集中させた首を避け、ユーノの斬撃は男の膝を捉えた。
苦悶の表情を浮かべ、男が沼状になった地に崩れ落ちる。
一流の剣士は一定以下の斬撃を受けても切り刻まれないよう身体強化をする力があるが、同格以上の敵の攻撃、その衝撃の吸収まではできない。
膝の皿を打ち抜かれ、泥沼に半身を浸らせた男に、もはや戦闘能力は残っていなかった。
「くそっ、てめえ、よくも!」
仲間をやられて長剣の男が激昂するが、泥の地面に着地して顔を歪める。
先ほどユーノが使った水魔法は、自分の足元一帯を、表面をそのままに、内側を操作可能な泥沼化させるという効果を持たせていた。汚泥弾もその魔法構成の一環である。
人間は二種類の魔法を同時に使うことができないが、一種類の魔法で複数の結果を出すことは可能。
泥弾を見てそれ以上の魔法攻撃は無いと油断する、「一般的軍人」には効果抜群であった。
――戦場の主役は剣士達――でも実戦とあれば魔法も捨てたもんじゃない、ってねー。
泥に沈んだ下半身を引き抜こうと苦闘する男を見て、ユーノが苦笑をこぼした。心中で呟いた言葉を口に出していたら、「ざけんな! てめえみたいな魔法使いがごろごろいてたまるか!」と怒鳴られていたところだろう。
作戦が上手くいったことでわずか心が緩みかけたが、そもそもまともに連携をさせていたら自分も危うかったかもしれない相手であると思い出し、唇を引き結ぶ。
そして泥の中から睨んで来る男の脇を抜け、逃走に入った。
自分をスルーしてすぐ横を駆け抜けていった少女の後姿を目にして、男がぽかんと口を開ける。剣撃に備え、身構えていた体から力が抜け、一層泥の中に沈み込んだ。
「おい待てや! 俺を無視していく気か! この、止まれっつの!」
止めたいんなら、止めればいいじゃん。
心中でちろりと舌を出し、ユーノは全力で駆け出した。
後ろで大きな罵声が聞こえた気がしたが、気にしている余裕はない。
一刻も早く、ユーノを捕える警備網が完成する前に、“ゴール”に辿りつかなければいけないのだから。
自分を捕まえるチャンスは与えた。それで捕まえられないのなら、それはもう自分がこの手で掴み取った運命だ。
それを誰にも否定させやしない。
「あたしは、まだ自分の手でやり残したことがあるからねー」
教会の屋根を飛び越え、飲み屋の看板を足場に跳躍する。
先ほどの兵二人の姿は、もうはるか後方に消えている。
しかし。
「おい、止まれ! 君はどこの誰だ! 所属と名前を言うんだ!」
――んん? あ、普通に警備兵にみつかっちゃったかー。
どうやら先ほどユーノの容姿を確認した糸目の男の連絡は届いていないようだ。しかし、怪しい格好に身を包み、道路や屋根をバッタのようにピョンピョンと跳ねまわる人間を怪しむのは当然のことだろう。
「や、すいません。急いでるんで」
「そういうわけにはいかない! この町には今テロリ――怪しい人間が潜伏しているという話があるんだ、二、三質問を受けてもらいたい!」
ユーノの行く手を阻むように、三人の鎧兵達が駆け寄ってきた。
ユーノはその三人の対応について、少し頭を巡らせる。
彼女はこの町にそこそこ長期間「旅人」として滞在している実績がある上、今は“識別信号”も持っていない。
取り調べ中に糸目男の連絡が入らなければ、あるいは本当に二、三の質問で解放されるかもしれない――そこまで考え、ユーノはふと気づく。
――や、あたしならとりあえず怪しい人間は足止めしとくか。本当にこの町に害のない人間なら長い間……街の混乱が収まるまで拘束してても大きな問題は無いはずだし。
となると、自分が取るべき行動は――
と、仮面の奥で小さく魔法の詠唱を始めたユーノの足に、覚えのある感触があった。
「よっしゃああ! どうだ、そいつは一度くっついたら絶対外れねえぞ! おい、お前達、そいつを捕まえろ!」
予感に導かれるままに後ろを振り向くと、泥にまみれて息を切らした大変見覚えのある顔をした男が、左手に長剣を、右手に大縄を握りしめて立っていた。
男の言葉に弾かれるようにして三人兵達も動き出す。
驚愕の表情を緊張に塗り替え、手にしたそれぞれの剣を持ってユーノを取り囲むべく散開した。
「――氷結の領域」
ユーノはあくまで落ち着いたまま呪文の詠唱を締めくくった。
呪文の終了と共に、白色の渦が竜巻のごとく吹き上がる。
ユーノの立ち位置を中心に吹き荒れたそれは、微細な氷粒子を撒き散らしながら彼らの立っていた通り全体を包みこむ。極冷気を伴った白色の風は、文字通り辺りの空気そのものを完全に塗り替えた。
「まだこんなに強力な水魔石を残してやがったのか! だが、その縄は絶対に外れねえし、お前には切れねえ! 絶対に逃がさねえよ!」
膝から下を強靭な氷に覆われ、男達の動きが止まった。
それは縄を手にした泥男も同じだったが、その威勢は衰えていない。
これだけの凍気に見舞われて尚氷結晶一つ付着していない特別性の縄を思い切り引っ張り、ユーノの体を牽引する。
たしかに、ユーノが放った氷魔法の拘束力はそう大したものではない。
魔力消費を気にしないなら「気弾」で、そうでなくとも、一流剣士たちであれば力技を用いて強引に脱出できる程度のもの。
このままでは姑息な時間稼ぎにしかなっていない。
ユーノは足元をきつく拘束する縄に斬撃を加え、それがびくともしないことを見て取った。
――なるほどねー。たしかにこれは斬れなさそう。あたしの足ごと斬らない限り外れそうにもない、かなー。
即座に確認を終えたユーノは、その縄の先――こちらを食い入るように見つめて来る男の手に握られた、縄を繰るための取っ手に目を向ける。
ごく普通の握りだ。
この手の魔道具にありがちな目につく意匠が凝らされている訳でもない、持ち手に鍔をあしらっただけのシンプルな作り。
これなら――と、ユーノは仮面の奥でほくそ笑んだ。
そして、その場で思い切り飛び跳ねた。
何故そんな無駄なことを――と怪訝な顔をする男の体が、ぐいと上に引っ張り上げられる。
ユーノの魔法制御はまだ続いている。
作り出した氷の凍結度を任意操作可能な領域内。その中にいた男の足を縛っていた氷を溶かし、男の体を発射する氷の射出台にしたのだ。
――確かにあたしの足からは離れないみたいだけど――あんたの手からは、どうかなー?
縄の中間部を握りしめたユーノが、背筋に魔力を流し、ハンマー投げの要領で男の体を振り回した。
拠り所の何も無い空中で目を白黒させていた男が、急な横圧で体勢をくずした。
そのまま、地上で氷と苦闘していた兵達に衝突。
狙ったわけではないのだが、男と地上兵は頭と頭を猛烈な勢いで衝突させ、視界に星を飛ばす羽目になってしまった。
ユーノの足から、縄の拘束がほろりと零れ落ちる。
――よし!
拳代わりに手元の長剣の柄を握りしめ、ユーノはすぐ隣の大きな建物の上に飛び移った。
この町の住人ならだれでも知っている大建造物、アルケミの街の時計塔だ。
そして、ユーノが目指していた“ゴール”でもある。
――時間が無い。
時計塔に飛び移ったユーノを見咎めた兵たちが、続々とこちらに向かってきていた。
それを背中越しに確認しつつ、ユーノは大時計塔の頂上へと急ぐ。
砂糖の山にたかる蟻の群れのように、街の各所から軍装の鎧をガチャガチャと鳴らしながら数十の兵達がユーノに向けて迫ってきている。
時間さえ取れれば魔法でどうにかできない訳でもなさそうだが、今からユーノがすることは、大魔法の呪文詠唱と並行して行えることではない。
――覚悟、決めなきゃねー。あんたらから逃げるために、ね。
ここが正念場だ。
こちらに向け、相変わらず大声でどなって来る長剣泥まみれ男、背後に青鎧を引き連れ、厳しい目で通りを駆け続けている糸目の男。
それらの認識一旦頭の隅に追いやり、ユーノは集中体勢に入る。
大魔法の呪文詠唱にも似た作業だが、それとはまったくの別物だ。
塔を駆け登るユーノの足元に、下の誰かが放ったと思しき赤光を放つエネルギー球――気弾が着弾した。時計塔の床が大きく揺れる。
それでもユーノの足取りは乱れない。
一歩一歩、息を切らせて駆け登るその先に見える、虹色の結界を目指して。
今はただ、心を空にして走り続ける。
跳躍力に自信のあると思しき兵達が、時計塔の壁面に向けて飛翔してきた。
迎撃魔法を放ちたいところではあるが、ユーノにその余裕はない。
やがてユーノの足元から、ザクザクザクザクとけたましい足音が聞こえ始める。
町への敵対者を逃がすまいと時計塔を登る働き者達が履く、鉄製の軍靴の音だ。
――見えた!
背後に追っ手達のプレッシャーを感じつつ、ユーノはとうとうこの町の空を覆う結界の下に辿りついた。
虹色に輝く、光の壁。
街の外敵を中に通さず、そして内部の侵入者を逃がさぬための、頑丈な鉄格子としての役目を担う、神の使徒が作成した頑強な檻の壁だ。
ユーノはその壁に手を伸ばす。
弾性のある手ごたえと、動物の体温めいた温かな感触が手に伝わってきた。
触り心地は抜群だが、ユーノを通してくれる気は無いらしい。
――でも、通してもらわなきゃ困るんだよね。
燐光を発しだした白仮面に手をやり、ユーノが最後の仕上げに移った。
まずは、今のユーノの感情・思考を仮面の力ですべて抑え込む。
そして、ここにたどり着くまでに構成していたイメージを空っぽになったユーノに載せればそれで完成ユーノの予想通りならそれでこの光の壁を突破することができる――という理屈だが、それが成ったとしてユーノがこの壁を潜り抜けることができるか否かは、実のところユーノ自身にも分からなかった。
それでも、今のユーノにはこの方法以外で町から脱出する術を持っていない。
街の中に潜伏し、ほとぼりを覚ますという道でなく、この町の兵達に正面から当たって行くという道を選んだ今の彼女に訪れる未来は、捕縛されるか脱出に成功するか、その二つだけだ。
――三、二、一……仮面効果、起動。
白仮面から、眩い光が放たれた。
ユーノにとっても初めてとなる、仮面効果の全力発動だ。
あらゆる感情の情動が静止し、虚無の海に沈み込む。
意思の振り子が止まり、思考回路が光を失った。
これで、ユーノは心に何も持たない、完全な0の存在になった。
零のユーノが、空ろな瞳で後ろを振り向いた。
そこには、数ヶ月前からずっと変わらない綺麗な姿のアルケミの街が広がっている。
看板の林に埋もれた独特の商店街も、木々の殆どを廃し、石造りに置き換えたどこか寂しさを感じる街並みも、多くの研究者、学生たちが日々を過ごす教育施設も、軍人達が日々教練に励む大鍛錬場も、ここで治せぬ病は王都にでも行かねば治せないとまで言われる、独自技術力に力を裏打ちされた医術局も。
戦果に沈む運命を捻じ曲げ、変わらぬ姿で存在し続けていた。
ユーノの目線の先に、ユーノが先ほど出てきたとある教育施設――学校が映りこむ。
彼女と年のそう変わらない少女達が、彼女とは異なる未来を考え、彼女とは異なる日々を過ごしている場所。
エアリスを連れて逃走する際、街が戦火に沈む前に一度目に収めておきたいと、つい足が向いてしまった場所。
――……。
もしかしたら、何か少し違う出来事が過去にあれば、ユーノや彼女の大好きな者達と共に、平和な生活を営めたかもしれない場所。
ふと、街をぼんやりと眺め続けるユーノの右手が、虹色の光の中に吸い込まれ始めた。
この世界における魔法は基本的に、術者のイメージが形になることで効果を世界に及ぼす。
結界の術者が作成したこの半永久結界の雛形となった、街の防衛結界についてもその例外ではない。
ユーノの半身が光の結界の中に沈んだ。ちょうどその瞬間、金属靴の音を派手に鳴らし、街の防衛を担う兵達が界面のある時計塔の一角に姿を現した。
防護結界は街を守り、街に暮らす人を守るべく作られた。
だからその結界は街の住民の障害になることは無く、逆に町の者達が通り抜けようとするならばそれを拒むことは無い。
全身光の結界の中に沈んだユーノを逃がすまいと、兵達三人も結界の界面に殺到する。
町を守る使命を帯びた彼らを結界が拒否することは無く、温い海水を通り抜けたような感触の後、兵達は結界の上に立っていた。
すぐさま辺りを見回した彼らの足元に、膝をついて項垂れるユーノの姿があった。
輝く仮面を装着したユーノの頭の中では、有り得るはずの無い世界の景色が映し出されていた。
幼いユーノが、その友人達と共にこの町の学校にまとめて転入してきた。そこには自分の領を離れ、皆と共に学生生活を楽しむことにしたアリスの姿などもある。
そして彼女達は、勉強と労働に精を出しながら、自分で掴み取ることのできる未来をより良いものにしようと、この町で日々を過ごすのだ。黒い翼にくるまって昼寝に励む黒髪の同級生や、遅刻寸前で窓から飛び込んで来る後輩、教室の傘立てに廃棄になった軍用模造剣をぶっさす眼鏡の少女達と馬鹿な話をして、時折犯した失敗をフォローし合いながら。
それは、彼女がこの町を心から愛するようになっていたかもしれない世界の姿だった。
狂おしいほどの理想の世界で、決して訪れるはずの無い世界でもある。
「――――――――――――――氷結」
小さく蹲っていたユーノのつぶやきで、虹色の結界表面が凍結した。
ユーノに手を伸ばそうとしていた兵達は、両足を薄氷の輪で拘束されて動きを止める。
解放を訴える彼らの怒号が響く中、ユーノはすくりと立ち上がった。
後続の兵達が追ってくるのはもう時間の問題だ。
最難関の結界を抜けたというのに、雑兵達に捕まってしまっては勿体が無さすぎる。
だからユーノは、すぐにこの場を去ることにした。
胸に募る思いの数々を、その胸の奥へ奥へと押し込めながら。
「じゃあね、――――――」
氷漬けの結界越しに見えるアルケミの街に対して口にした別れの言葉を、聞き取れるものはどこにもいなかった。
数秒後、結界を抜けて飛び出してきた兵達が見たのは、ようやく拘束を破った仲間の兵達の姿と、結界の上に長く長く引かれた、透明な氷のレールのみであった。




