第百七十二話:<離別>
言葉を切った薫に、ユーノは沈黙を返した。
口を尖らせ、一度は何か批判を返そうと試みたのだが、言葉が出てこなかったのだ。
いい加減な理由でユーノ達が歩もうとしていた道を破壊して行った薫に対する苛立ちや怒りが消えた訳では無い。だが、今の薫の言葉に、そんな感情をぶつけて返す気にはなれなかった。
それに、ユーノが何を言おうと、今の薫はおそらく、先ほど告げた言葉を曲げない。
それは、彼自身がそう決めたから。
盲目的に「これしかない」と縋った道ではない。他に選べる道を考え、それでも尚、と選んだ道。それを曲げさせるのは、並大抵のことではない。
仮面のないユーノの眉間を、薫の視線は鋭く、真っ直ぐに貫いていた。
錐の刺突にも似たそれをまともに浴びてユーノは目を細め、そして気づいた。
薫の雰囲気が先ほどまでと随分変容していることに。
音の無い教室でユーノと最初に対峙した時、彼は今ほどに強く瞳を輝かせてはいなかった。
佇むだけで気圧されるようなプレッシャーなど発していなかった。
戦闘能力では恐らく格下であるユーノをして、そこまで恐れるべきではなかろうと思わせていた何かが消え去っていた。
歩む、手を広げる、声を上げる。そういった挙動の端々から漂っている保有戦闘技術・戦場経験の多さからくる凄みはそのままに、さらにもっと別の何かが加わっているように思えた。
言葉として発したワードには、特別な力が宿る。 俗に言霊などと言われている事象で、魔力などない世界に置いても迷信として良く語られている。
だがそれは迷信などではないのかもしれない。
誰かに向けて、あるいは世界に向けて発した言葉が、発した当人の耳にも届くことが、何らかの作用をもたらしているのかもしれない。
心の内を言語化して発した言葉を、一言一句全て聞き届け、受け止め直す。
言葉に込めた思いが真剣で真摯あればあるほど、自ら語って聞いた内容はその胸に強く刻まれる。
薫は自身の反省と決意とをユーノに語り、改めて自分を見つめ直した。
混沌とした、ある種幼稚な自分の内面を認め、乗り越えた。
本来ならばもっと若いうち、あるいは幼い内に済ませておかねばならなかった宿題に、今ここでようやく、一つの回答を示したのだった。
どのような未来につながるかは分からないながらも、とにかく薫は、自身の道を選んだ。妹のみならず、多くの人を巻き込んでいく道を。
「俺は、この世界が好きだ。――俺の中を見てくれる優しい人たちに触れ、今を生きようと命を振り絞る人達を見て、当たり前のように誰かのために動ける人たちを見て、好きになっ
た。だから、俺がこれからしようとしていることはもう、紅を助けるついでなんかじゃない。……どうやら俺は、俺が思っていた以上に欲張りな人間だったらしい」
薫がふっと口元を緩ませた。
以前、リーティスと約束した時思わず口から零れた言葉を思い出した。
――君だって俺の大切な人なんだ、という言葉。
紅だけを大事にしていた「一般人」の自分からも、優先順位に逆らわず行動を進めようとする「組織人」の自分からも決して出ることはなかったはずの言葉。
欲張りな薫の本心を、この世界に生きる一人の少女が引き出してくれたのだ。
「羨ましい、な……」
ユーノがぽつりと囁いた。紙の擦れるような、ごくごく小さな声で。
薫の妙な迫力に押されながら、その迫力の基礎にある自分の持つ力への確かな自信が、ものすごく眩しく見えたのだ。
薫はどちらかというと、ユーノが嫌いな、元から才能のある選ばれた人間の方にカテゴライズされる男だろう。
けれど今、ついさきほど薄弱な目的意識で『反逆者』の作戦を易々と踏みつぶして行ったはずの彼の、訳の分からない志向と覚悟の一端に触れて、反感以外の想いを抱いた。
「……何か言ったか?」
「や、何も?」
「そうか? ――ん? どうやら、俺の待ち人が来たらしいな」
薫が若干の喜色を混ぜた表情で窓の方を振り向いた。
薄い遮光幕の向こうから轟いてくる謎の駆動音を、ユーノの耳も捕えた。
どうやら、件の神の使徒が到着したらしい。
――……。
そっぽを向いている薫の向かいで、ユーノは足元に落ちていた仮面に手を伸ばし、すっと拾い上げた。
そのまま顔に貼りつけると、馴染んだピリッとした感触が頭の奥まで浸透していく。
「外の音、あんたのお仲間さんだよね。例の最高司祭さんかなー? 話は中断して……ちょっとクロエちゃん呼んでくるねー」
「……? ああ、了解した」
若干訝しんでいる風の薫に背を向け、ユーノはすぐ隣の準備室に足を向けた。
と、歩み出そうと持ち上げた足を途中で止め、思い出したかのように薫に向けた言葉を放った。
薫に背は向けたままで。
「言っとくけど、あんたが今回の作戦に首を突っ込んだ件に関しては許すつもりないから。ま、そっちはクロエちゃんを安全に街の外に出してくれたらチャラにしといてあげようかな。それと、もう一つ。ベニ……の体に宿った竜は、たぶんそんな悪い奴じゃないよ。……それとやっぱもう一つ、こっちは完全にあたしの勘だけど、あんたの知ってるベニも、たぶん生きてるんじゃないかなー? ま、保証はしないけど」
今このタイミングで自分の求める情報を開示したユーノの意図に、薫が気づいた。
おそらく、ユーノはこれ以上自分と話す気はない。当然――ユムナとも。
「……情報感謝する。それと、何故俺がクロエをこの町の衛兵に突き出さないと思う?」
ユーノはこの場から立ち去るつもりなのだろう。
だが、それなら何故『警戒対象』と明言した薫に対し、自分の仲間たるクロエを任せるなどと言うのか。
「それを聞くってことは、やっぱりする気が無いってことだよねー? ……理由の一つは、あたしの利用価値。あんたの妹やら友達やらと親しい存在だし、縁を繋いで置けば利用価値ありそうだよねー? あんたはまだ「どっちの陣営」に近寄るかすら決めてないんだし、手札はあればあるだけありがたいはず。二つ目は、あんた自身がクロエに恩義を感じてそうだから、かなー。あんたさ、あたしと話してる最中、凄い勢いで自分が変わっていったことに気づいてた? この町に来て自分の未熟さを乗り越えた~、とかって話してたけど、それってごくごく最近――例えば、クロエちゃんと話をした時とかなんじゃない? ――いひひっ、図星っぽいねー。あんた、実は割と腹芸苦手でしょ」
ぎくりと身を引いた薫を見て、首だけちらと振り向いたユーノが、からかうように笑い声を上げる。
「いひひひっ、それで良くクロエちゃんやらリーティスやらを誑し込んだもんだよねー?」
「組織人」を否定し、それまでは常に自分の表情をコントロールしていた“力”をうっかり消してしまっていた薫の思わぬ失態だった。
「……少なくとも、俺がリーティスさんを誑かしていたという事実は無い」
自棄になったかのように表情のコントロールを投げ捨てて憮然と呟く薫に、ユーノはますます笑い声が止まらなくなった。
「はははっ! 駄目じゃん、言い訳しちゃー。男が女に自分を惚れさせたらそれは『誑かした』ってなるんだって。あと、クロエちゃんを騙してたって今認めたよねー? けっ、巨大スライムに頭を丸かじりされてきなよ、女の敵」
「……」
惚れさせた~の下りで薫はピクンと眉を跳ね上げた。
男女関係について現代日本人にしては有り得ないほど疎い薫は、からかいとも本気とも取れないユーノの言葉の返答に窮し、沈黙する。
それを見て仮面の奥で安堵の息を漏らしたユーノは、迫力も何もない、それこそ今この教室にいるにふさわしい自然体の学生のような姿を晒す薫を見て、ニヤリと笑んだ。
――あー、なるほど。世話焼きなあの娘がこいつに惚れた理由が少し分かったかなー。聞いてた印象からこいつがあの子をひたすら守ってる、みたいな関係かと勘違いしてたからピンとこなかったんだよねー。ま、そっちもあるのかもだけど、こいつあの子の前で何か弱味でも見せてたりするんじゃないかなー?
どんぴしゃり正解だったが、ユーノにその正誤を問い質す気はもう無かった。
もう、頃合いだ。
「それじゃ、またねー」
「……大丈夫なのか?」
手をひらひらと振りながら準備室の取っ手に手をかけたユーノの背に、薫が心配そうに問いかけた。
薫達の助けを借りずに町を脱出できるのか、の意味だ。
「ま、敗戦者が楽して助かろうなんてほうが間違ってる訳だしね。――例えばあんたはあたし達の他の同僚まで助ける気は無いんでしょ? ……一応、勝算はあるし、行けるんじゃないかなー?」
実を言えば五分五分、いや、そもそも根拠も何もない推論で構築した作戦しか胸の中には無い以上、それ以下の勝率しか見込めないはずだが、それは言わずにおく。
何か言いたげな薫の視線を振りきるように、ユーノは開いた扉の隙間に潜り込んだ。
入った準備室の中で、背中合わせで座るクロエとエアリス、そしてその横に置かれた自分の戦利品を見つける。
用途不明の赤い大三角柱に立てかけていたその戦利品――良く使い込まれた長剣を握りしめると、ユーノは二人を振り仰いだ。
「クロエちゃんは予定通りあいつに逃がしてもらって。多分、悪いようにはしてこないと思う。 ――エアリスちゃん」
ビクン、と制服少女の背中が跳ねた。
そろそろとこちらに視線を向けてくる気配があったが、ユーノには時間が無い。
「本当に――ごめんね。無事だったこの町で勉強して、幸せになってね。それがあたしの最後の願い」
「――――おねがい待って! 私やっぱり――」
背中にエアリスの声を感じた時には、ユーノは学校の窓から飛び出していた。
腕に掴んだ長剣が、力強い脈動でユーノに剣士の魔力を供給してくれる。
顔にピタリと張りついた仮面の一方で、髪のほうは正面から吹いてくる大風に煽られ、盛大にまくれ上がっている。
着地の間も惜しいとばかりに校舎の壁を蹴って跳躍したユーノは大きな放物線を描いて商店街の屋根に降り立った。
――本当に、ごめん……。
ユーノは最後に一言、自分が出てきた後者の窓をみて呟いた。そして、すぐに目線を外すとぐるりと視線を巡らし、街の中央部と、街上空を覆う虹色の結界を仰ぎ見る。
溜息が漏れた。が、仮面に隠れた口を結び直し、ユーノは改めて覚悟を入れなおす。
――さ、逃げようか。
ユーノの逃走劇、開始。
更新が遅れてすいません。
まさか、二日連続で筆が止まるとは思いませんでした。
本当に申し訳ありません。
それと実は現在、とある書き手さんに触発されて、別作品の構想を練っている最中です。
今作の更新を優先させながらも、これからそちらの作品も投稿していくかもしれません。
そんなこんなでひいこら言いながらも今作の完結に向けて取り組んでいきますので、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。




