第百六十九話:<終戦を噛みしめる仮面の少女>
立ち尽くすユーノの目の前で、運命は勝手な形に再構成されていった。
この町を巡る戦はもう終わったのだという宣言を、薫が告げた。
そして、それを裏付けるかのような言葉を天井を突き破って空から降ってきたエルフの男が残して行った。
――何で? 何で? どういうこと、これ?
ユーノは、震える両手を目の前の教卓に載せ、今日一日で傷だらけになった自分の掌を呆然と眺めつづけていた。
こちらを伺う薫の視線が気になるが、それに構う気力も無い。
いきなり告げられた「終戦」の言葉を未だ飲み込めず、一人で困惑と憤激の気持ちと戦うのに、心囚われていた。
薫の告げた終戦の言葉。その理屈は承知している。
ユーノ達の所属する組織、『反逆者』の計画は、前提条件を崩され、瓦解したのだ。
組織の計画通りならば、自分達は今頃、町を亜竜の群れで跡形もなく破壊しつくし、エルフの里と化したアルケミの街を第一の拠点として「神との戦い」を始める準備をしていたはずだ。
その際「敢えて町から逃した町民の生き残り」は、近隣の街へと「絶対戦力としての亜竜の恐怖」と、「情け容赦のない侵略者達」の情報を届ける役割を担い、その街内にいる組織の息がかかった慎重派――即ち、「圧倒的戦力を誇る謎の侵略者達」を刺激しないように暫く「侵略された街」様子を伺おうと主張する者達の働きによって、短期的な均衡状態を作り出していた――はずだった。
いや、一部分だけ取り出して言えば、「組織の計画は成功している」と言っても良いかもしれない。
何せ、敵戦力には抗しえないと判断したアルケミの街がとった戦略は、「町そのものの撤退」。街の本体はその地理的所在にではなく、街の機能と住人にこそあると判断し、厚さ僅か15mの地面を座布団代わりのお供に、街そのものを別の場所に移動させるというもの。
尻尾まいての完全な逃走劇である。
組織本来の目的地である、「アルケミの街跡地」=「エルフ達の古の故郷」は無事、確保できたのだ。
エルフ達が長年確保を夢見ていた「古の故郷」は神に抗う者達の前線基地として再建され、同盟を組んだ『反逆者』を受け入れる役割を担うだろう。
しかし、その前線基地の設立までは時間的制約が存在する。神さえ知り得ないだろう、いつまでになるかさえ分からない、ふざけた時間制約が。
古の大戦期、神の秘儀によって隠されたエルフ達の故郷は、実体を酷く不安定なものにさせられたとユーノは聞いている。
その秘儀の拘束力は、100年単位で強弱が変わり、今日この日からおよそ一ヶ月の間が、最も拘束力の弱まる期間だ。その期間の間にエルフ達が「故郷」を取り戻すべく儀式を執り行う訳だが――今のままでは、その儀式を終え、基地設立を果たすまでの時間的余裕はいかほどあるか分かったものではない。
この町を助ける「援軍」――即ち組織と敵対する、武装を完了した集団が既に組織されているというのだから、尚更だ。
そりゃあ計画を推し進められなくなった組織も、「終戦」を受け入れざるを得なくなるというものだろう。
何の意味も持たなくなった街攻めより、思いがけず勃発の可能性が高まった他戦力との交戦に備えるのが当たり前だ。
「神を認めることが当たり前」であるこの世界の在り方そのものに反旗を翻すのだ。組織の上位の者たちとて、大きな武力衝突は覚悟していたであろうし、備えてもいただろう。
しかし、このような衝突の可能性は想定していなかったはずだ。
今の今まで山の麓に陣を敷き続け、ようやく動きを止めた「アルケミの街」の前に揃って歩み出てきた、8つの街の兵及び、このノワール王国と同盟関係にある一つの小国の兵達からなる混成援軍は、エルフ達という大戦力を一時的に失うことになった『反逆者』が、即座に撃破できるような戦力ではない。
この事態を受けた『反逆者』がどのように振舞うのか、ユーノは知らない。
ユーノのような下級戦闘員は、自分の関わる作戦単体の概要ならともかく、他の――特に、これから行われるであろう作戦のことについては、何も知らされていないからだ。
だからユーノは、これから組織がどうなってしまうのか、それを知る術を持たない。
しかし、今のユーノ達は、そもそもそんなことすら気にしている場合ではなかった。
もっと差し迫った事態に対応しなければならないのだ。
――じゃあ、あたし達の未来は……?
計画は失敗。街に潜り込んだ工作員は、未だ敵地のど真ん中に残されたまま。
今の『反逆者』に、敵の陣営に取り残された工作員たちを救出している余裕など、あるはずもない。
味方達の勝利を祈りながら「識別信号」を発する装身具を身に着け、この町の警邏達と決死の追いかけっこに興じている工作員たちは、自力でこの町を脱出しなければならなくなったのだ。
そして、その事実に未だ気づいていない者も、きっといる。
――それで、あの虹色の結界もまだ張り巡らされたままってのは酷い話だねー。……ひひっ、あたしらは結局、この町でやったことに何の意味も、価値すら残せないまま、ここで退場するって訳かー。神の居ない世界を、見ることもなく。
ユーノの膝から、どんどん力が失われていった。
すぐ傍に薫が立っていなかったら、教卓に凭れ掛かったまま、ズルズルと教室の床に膝をついていたかもしれない。
絶望的な状況だった。
ユーノ達は今、街という名の檻に閉じ込められてしまっている。
組織の者たちがそれまで希望の印として握りしめていた識別信号はもはや、敵に自分の位置を知らせる、首輪についた鈴でしかない。
嘲るような笑みを口の端に浮かべたユーノは、胸元から取り出した「識別信号」送信具を足元に放り、全力を籠めて踏みつぶした。
エルフ謹製のその魔法具に込められていた、非精霊魔法の魔力が枷を失って開放される。
魔法具はパンと音を鳴らして弾け、教室の床に黒い焦げ跡をつけた。
それでも気持ちの収まりのつかないユーノは足を振り上げ、ガラクタと化した装身具をさらに蹴り飛ばす。
方向も碌に見定めず、ただ感情のままに。
教室の壁に衝突した装身具はいくつかの机の上を跳ねまわった後、インクで汚れた床の上にべちょりと落下した。つけペン用のインク瓶を、午前中、まだ平和なこの教室で授業を受けていた生徒か誰かがこぼしていたのだろうか。
「そんなことをしなくとも、既にこの部屋は結界魔法で包んでいるんだろう? 識別信号なら、外の誰かにキャッチされる心配はないだろう」
「……あんた、たぶんそんなことは分かった上で言ってるよね? 余計な助言ありがとう、ウザいんだよ」
薫の忠言は、ユーノとの話を再開するための単なるとっかかりの言葉だ。
それを感じ取っていたユーノだったが、結局は感情のままに反応を返してしまった。
薫の言葉は、ユーノの神経を逆なでする悪手だったのか、それとも自分自身に注意を向けさせたことに成功したという点で良手であったのか。まだ、分からない。
しかし今、仮面を取り去って半眼の憎々しげな眼を露わにしたユーノと薫は、確かに視線を交わし、向かい合うことになった。
「この際だから聞かせてよ。あたし達を迎え撃つこの作戦を提案したのはあんただって言ってたじゃん? 何でわざわざそんなことしたのさ? あんたに何のメリットも無いよね?」
吐き捨てるように口にしたそれが単なる八つ当たりの言葉であることを、ユーノは自覚していた。
何でもなにも、目の前の少年は一応神側の人間と行動を共にしていて、さらに自分達のやろうとしていたことが、結局のところ明らかに義に反する「大量殺戮」であった以上、それを止められる立場にあれば、止めたいと考えてもおかしくは無い。直接自分の利益にならないことを他者のために成そうと思えるだけでも、大したものではあるが。
だから、ユーノはこの言葉に対する薫の言葉になど、興味は無かった。
彼がありきたりの理由で、ユーノ達この戦いに臨んだ者達の覚悟や行動の意味を無にしていったことを再確認したかっただけで、ついでに言うなら、それに対する無意味な罵詈雑言を吐くつもりでもあった。
だからこそ、予想外だった。




