第百六十三話:<竜崎薫>
お待たせしました
昨夜、無事帰投しましたので、連日更新を再開します
「はな……て、おね、が………」
耳に届いた小さな訴えかけを耳にして、薫はふと我に返った。
気付くと薫は、クロエに馬乗りになり、両肩を床に抑えつけていた。
両手に感じる少女の温かな体温と、自分に向けられた懇願の眼差しを前に、呆然とする。
咄嗟に手の力を緩め、クロエを解放しようと試みるも、失敗する。
手がいう事をきかなかった。
黒髪の流れる薄着の少女の肩を、硬く掴んだ薫自身の手が決して離そうとしない。
焦りが募る。薫の首元に嫌な汗が伝った。
しかし、自分が「敵認定」している少女の前で晒す訳にもいかない。
そんな弱味を見せることを、戦士としての薫が自分に許さなかった。
結果として生まれたのは、目を爛々と光らせ、クロエの小さな体を押さえつけたまま静止している一人の少年の姿だった。
唇を引き結び、何かを耐えている風の薫にのしかかられながら、クロエはしかし、段々と落ち着きを取り戻していった。
わずかに早まっていた呼吸が元に戻り、紅潮しかけていた頬が元の色を取り戻す。
日本人形のような、染み一つない肌色のかんばせに不安げな瞳を揺らしながら、クロエは荒い息を吐く薫をじっと眺める。
彼女がそれだけ落ち着いていたのは、何かしらの勘で、薫の興奮が直接的に彼女を害する類の者ではないと察し取っていたからか。
或いは、今の薫とよく似た興奮、行動を見せた者――彼女の兄と重ね合わせ、デジャブを感じていたからか。
単に、兄の背後に隠れながらそこそこ色々な荒事に巻き込まれてきた経験による落ち着きが、人付き合いスキルの低い彼女の過敏な警戒心を上回ったのかもしれない。
理由は定かでないが、確かにクロエの心は落ち着いてきていた。そして、異常な「混乱の最中にある」薫を見ていた。
先ほどまでは、少なくとも外面上はそれこそ少々真剣な学生同士の茶飲み話でもしていた風だった二人。
その二人が、それぞれの内心を揺らしながら、時折瞬く目と目を合わせ、見つめ合う。
薫は、上手く体の自由が効かせられない自分の今の状態を、知識の辞書を捲り、頭に思考の回線を走らせ、素早く分析する。
クロエの体をきつく拘束しようとする己の四肢は、何故彼の意思に反して動くのか。
何故、今の彼の唇は、猛烈に激しい言葉をを吐き出してしまいそうに蠢いているのか。
――俺の”力”の作用による感情の揺らぎ。その制御が上手くいっていないのか?
薫は、結論を出した。
体の制御を、「暴走した自分の感状に」持っていかれてしまっていたのだろう、と。
日本において、薫達のような能力者は、その能力の内容如何にかかわらず、ある二つの性向、そのどちらかを獲得する。
一つは、目につくものを破壊せずにはいられなくなる、超攻撃的な性向、もう一つは、その逆に戦闘の一切を拒否し、自分の世界に逃げ込む超保守的な性向。
ASP設立以降の殆ど全ての能力者は、組織が用意した修練プログラムをこなしてそういった性向を矯正させられる。そして、安定した精神状態を得てから、能力の訓練に入るのだ。
だが、あまりにも早くに能力者となり、かつ、自力での能力制御を果たしていた薫はその手法を取っていない。
数奇な運命を経て、能力を制御する「己自身の身体」さえ自由に操作可能な力を使いこなせるようになった薫は、「能力者が得る双方の性向を共に獲得し、己の中でぶつけ合って相克させる」という他に例を見ない手法でこの「能力の副作用」に対処した。
しかし薫は、そんなイレギュラーなやり方こそ選んだものの、今まで感情の制御に失敗したことは無かった。あるいは、それ故に、今回の事態に酷く動揺していた。
日本において、薫はASPという組織に参加した面子の中でそれなりの古株だ。前線に出て戦闘を経験するようになったのはだいぶ後のことだったとはいえ、このような事態など起きないだろうと思える程度には、能力制御に自信を持っていた。
それなのに――
――何故、こうも……今の、俺は――?
薫の体が揺れた。
それで床に転げないようにと、彼の体が反射的に目の前のものを強く掴む。
クロエの白い肩に、薫の指がぐっと食い込んだ。
腹に膝を置かれた上に、肩口を更なる力で握りしめられたクロエが、痛そうに目を瞑り、顔を顰めた。
このままなら、知らず知らずの内に神聖魔法での強化を巡らせ始めた薫の腕は、クロエの肩を有り余る握力で握りつぶしていたかもしれない。
けれど、そうはならなかった。
すぐにその目をはっきりと開き、興奮の表情で「固まっていた」薫の頬に片手を触れさせ、口を開いた。
「……妹、さん」
クロエはぽつりと発した一言で、薫の目を揺らぎ、見る見るうちに何か複雑な感情がうねり出した
薫の体が停止する。
クロエの四肢への拘束が緩んだ。
クロエは自由になった両手で目の前に迫った薫の胸をとん、と優しく押す。
そして、何を言うべきか悩むかのように視線をしばし漂わせた後、小さく言葉を続けた。
「……妹さんのこと、大事?」
それは、奇妙な問いかけだった。
突然自分に食って掛かってきた理由を問う訳でもなく、中断された話を続ける訳でもない。
問いかけたクロエ自身、自分がなぜその言葉をかけようとしたのか分からなかった。
けれど、その問いかけが最善の言葉だったことを、クロエは目の前の光景を以て知る。
兄を持つ少女が発した問いに、妹を持つ問われた少年、薫が答えたのだ。
「大事だ。――たぶん、他の誰よりも」
目の前の黒髪の少女を、自分の良く知る一人の少女の姿と重ね合わせながら、薫は自分の手の握りをゆっくりと解いていった。
もう、彼の体はきちんという事をきく。
クロエが先ほどから会話を続けていた時の、竜崎薫の雰囲気が戻った。
――そうか。そういう、ことか……
安心した風に目を細めながら立ち上がったクロエに見つめられながら、薫はかつて日本において彼の上司と交わしたやり取りを思い出していた。
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「お前の申し出――妹の紅君と合わせて欲しいというお願いだけどな、駄目だ。許可できない。諦めるんだな」
「――何故ですか?」
都会の高層ビル、それも超高層階の壁際の一室。
ブラインド越しに眩い太陽の光が差し込んで来る、そこそこ広い個人用の書斎。
「政治家や役人等、対外用の豪華応対ルーム」とは別に、この部屋の主が自分の執務用にと用意させた、どこぞの中小企業の会議場と小中学校の校長室の中間のような部屋だ。
上質な絨毯の上に鎮座する黒塗りの執務机上の灰皿に、吸い終えた一本目の煙草を転がしながら、黒スーツの男性は、己の正面に直立する薫に向け、聞こえよがしに溜息を吐いた。
彼こそ、秘密組織ASPにおける薫の上司、そして日本唯一の公的能力者機関ASPの創設者であるところの男、夢道栄一郎である。
部下の――それも特に気を許した者の前でだけは、普段のきびきびとしたエリートビジネスマン風の雰囲気ではなく、うらぶれた薄給サラリーマンのような姿を見せる彼だが、そうでもして時折ガス抜きをしないとストレスで胃に穴が開いちまうとは、当人の弁だ。
今は、珍しく頑強な姿勢で「お願い」を通そうとして来る一人の部下を窘める立場を背負わされ、一日5本と決めた煙草の二本目に火をつけている所だった。
薫の問いかけに数秒の喫煙時間を挟み込んだ後、その物わかりの悪い部下の方に顔を向けた。
「逆に聞き返そうか。何故この組織のトップであり、超絶忙しい身の上であるこの俺様がお前みたいな若造の我儘を諭す役目を今担ってると思うよ?」
「自分がこの組織の古株だからでしょう。年齢上、役職上俺より立場が上の者は何名もいますが、仮にも『プランナー』である自分に強く言ってこれる者は多くない」
ぬけぬけと言い放った薫に、夢道は舌打ちする。
ネクタイを解いてだらしなく広がる胸元を扇子で扇ぎつつ、目を窄めてジロリと薫をねめつけた。
「やっぱり分かった上でやってやがったな。性質が悪いにもほどがあるんだよ、お前は。ガキの癖によ。……で、俺の口から直々に言ってやればお前も諦めるだろうと、お前の上司ちゃんから泣きつかれたわけなんだが、あんな美人に変な気苦労を与えてやるなよ。苦労すんのは男だけで十分だ。お前さんがあいつに小皺をプレゼントしてやりたいなら話は別だがね。そうとでも言うつもりか? 仮にもお前の初恋の相手だろう? ん?」
「話を逸らす気ですか? それについては、ノーコメントです。……今回の自分の申し出ですが、そこまで常識に外れたことを言っているでしょうか? 紅――彼女は、自分の妹でもありますが、自分がこの手で保護した対象でもあります。類似例で、被保護対象と保護した者が顔を合わせたという過去の例が50件以上あると伺っているのですが」
「よう調べてきたな、おい。まあ、確かに? お前がこんな我儘を言ったのは、まさにその姫君の救出作戦の前線部隊に何が何でも参加するって志願しやがった時くらいだ。お前がこれまでASPに貢献してきた度合い、諸々の外部評価、ついでに俺様個人の好感度を換算して考えれば、この程度の我儘は聞いてやるべきだって意見はあった。親族だから心配なのは当たり前、ましてやこんなやくざな生き方してる人間にとっては尚更だ、だから特例でもなんでも出して、現在絶賛修練中の妹ちゃんに合わせてやれよ、ってな具合よ」
薫と同等以上に古株の能力者達――今はそれぞれの特技・能力を活かしてASP各部で働いている者達との話を思い返しつつ、夢道は、櫛の通りの悪そうな短い黒髪の頭をぼりぼりと掻きむしった。
公的な用事の時以外はつけっぱなしなのだという、太陽を模した民族模様入りの木製ピアスがちゃらちゃらと揺れる。
「では……」
「だが、駄目だ。……そう睨み付けるな、これから理由は話してやる」
眉を顰めた薫に向け、夢道は両手を上げて自制を促しつつ、億劫そうに解説を続ける構えに入った。
片手を上げ、後ろに控えていた秘書に飲物を二人分用意するよう言伝ると、直立したままの薫に顎をしゃくり、革張りのソファーを薦める。
一礼した薫が腰かけるのを見届け、机を指で叩きながら、夢道が口を開いた。




