第百六十二話:<薫の転換点>
現在出先で執筆中なのですが、中々書く時間が取れません
一週間程、執筆頻度が大幅に落ちることを先に断わらせて頂きます、本当にすいません
「……どう、したの?」
求められるまま、ひたすら回答の提供をしていたクロエが小さく首を傾げた。
その正面では眼鏡に手をかけた薫が、目を見開いていた。
薫は、伸ばした左手の下で酷く動悸の激しくなった心臓を、持ち前の精神力で無理矢理抑えつける。
心配そうに、下から顔を覗き込んで来るクロエに自身の異常を悟られないよう、顔を横に背け、短く深呼吸した。
――今、こいつが言ったこと。――本当、なのか?
少年――薫の額には、知らず知らずのうちに、汗の玉が浮き出ていた。
それに気づいたクロエが腰元からレースのハンカチを取り出す。
そのままひょいと腕を伸ばして薫の顔にハンカチを当て、こしこしと汗を拭き取り始めた。屋内は、窓を閉じきっていることもあって少し暑くなっている。薫の汗はそのせいだろ言うとクロエはあたりををつけたのだ。
「……んしょ、んしょ」
どこか楽しそうに手を動かし、自分の顔を拭ってくれているクロエを薫は見下ろす。
最低限、仮にこの体勢から襲い掛かられても反撃できるよう警戒は維持しつつ、薫は喉をごくりと鳴らした。
薫の脳内で、クロエが語った言葉がゆっくりと反芻される。
つい先ほどまで、薫は、反神組織――エルフと共にこの町を襲っている者達に関する詳細を、クロエから、あくまで紳士的に聞き出していた。
ごく簡単な知識確認、あらためての目的確認等、重要と思える事項は殆どすべて聞き出せた。
拍子抜けしてしまうくらいあっさりと、クロエは薫の望む答えを口にしてくれた。
非協力的な態度は一切見せず、むしろ説明下手な自身の欠点を補おうと、何か分からないことはないかと薫に聞き返しながら、一生懸命に回答をしてくれる。
神陣営からの裏切りもちらつかせているとはいえ、こうもあっさり行くと逆に不安を覚えるが、嘘の情報が混じっていたとして、後に本人に今度は非友好的な対応で聞き出して答え合わせをすれば良いと薫は考えていた。
そう。別にすべての情報を平和に聞き出す必要はないのだ。
こうして平和に会話をしていると忘れそうだが、目の前にいるのは戦争の相手サイドの人間。
例えその少女の身を、療養中の彼女の兄が遠い地から案じているらしくとも。
少女が、少なくとも親しい者相手にはごく普通の優しさを見せられる存在だったとしても。
それで躊躇する理由にはならない。
今薫の顔を懸命に拭ってくれている彼女が、この町の住民に多大な血を流させる作戦に加わっていたのは間違いない。
友人、仲間の安否を気がかりにしている彼女が先ほど、薫の大切な相棒――ユムナの命を、おそらくは奪い取るつもりで剣を振るったことも間違いない。
クロエと名乗った黒髪の彼女が、今までどんな人生を送ってきたのか、これからどういった人生を送るつもりでいるのか、彼女との会話の中で薫は、それらを知るヒントを少しずつ得てきた。
恐らく、彼女の所属するその組織こそが、生きるための糧さえ碌に得られず、叶えるべき夢すら見出せずせず、理解者を得ることの叶わなかった彼女とその兄達を受け入れる唯一の受け皿になったのだろう。
そこで出会った人々と交友を結び、友誼を結び、その者達と自分達の目的は間違っていないと再確認し合いながら、ここまで必死に生きてきたのだ。
けれども、それを知って尚、彼女が逃げ込んだこの小さな暗い家に踏み込んだ時から、彼女をどう処するかについて薫の考えは一切変わっていない。
なれ合いを演じて情報を引き出し、最後に屈服させて根こそぎ情報を搾り取る。
その予定のままだった。
そして、そのようなことを考えていることなど悟らせぬまま、絶対に聞いておきたいと考えていたことを聞き終える。
そして最後に、「何故自分のことを知っている風だったのか」、ついでに「自分の妹について何か知っていることは無いか」について軽い気持ちで聞いてみた。
その回答の時間が、クロエという少女と、笑顔を向け合いながら言葉を交わせる最後の時間になるはずだった。
そこでクロエの小さな口で紡がれた言葉が、薫に大きな衝撃をもたらすものであるとは、想像だにしていなかった。
「今、何と言った……? すまない、手数だがもう一度、その話を聞かせてくれ」
「……? 貴方達兄妹のこと? えっと、……貴方の妹が体に宿してる古代の竜。それが、私達にとって、とても重要なもの。あと、それが私が、貴方に――神を裏切ってほしいって思う、その理由。そういった話を、していたんだけど――?」
古代の竜。
気高く、力強く、人を越える知恵と知識を持ち、かつて地上に住む全ての生き物に恩恵をあたえていた存在であったという。
年を経て幾百の年輪を重ねた木々より太く力強い足で大地を掴み、鉄より強固な鱗で身体を守り、哲学者の瞳で世界を見る生物。
広げた翼で空を征き、霊樹森や火山よりも濃度の濃い、大量の魔力を身に宿して天候や地形すら自在に操ったとされ、時代を経て神と同等の崇拝対象とされた存在。
このアルケミの街を襲っていた”亜竜”という生命体は、その竜の因子をこそ受け継がせているが、あくまで竜の強靭な身体を既存の生物をベースに再現させた張りぼての戦闘動物だ。それですら、通常の生物を圧倒する強大な戦闘力を有しているのだが。
――そして何より、神の明確な意思でもって滅ぼされた生物だ。仮にその生き残りか、復活体かは分からないが、現代にもそんな奴がいたとすれば確実に、神に憎しみを抱いている、そんな危険な存在――!
それが、この世界に居るらしい。
よりにもよって、薫の最愛の存在の中に。
「……どう、したの? まさか、初めて聞いた、とか? ……ん、さすがにそれはないか」
クロエが何か言っていたが、薫の中にそれに対する返答をする余裕は無かった。
ユムナが教えてくれなかった、紅の中に眠る「この世界を救う鍵」――対面した薫の印象では、とにかく他の生命に対する敬意の足りてない、危険な存在としてのもう一人の紅。
その正体が、このような場所で明らかになるとは思いもよらなかったのだから。
目の前で掌をひらひらと振って来るクロエを無視して、自分の心中の平静維持を図る。荒れそうな感情を不安定な理屈を以て抑えようと試みた。
――取り乱すな! 別に紅の中に眠る存在の正体が分かったからと言って、それで紅の容態が悪くなる訳でもない。――リーティスさんからの「召喚」もない以上、まだ紅の体は大丈夫だ。竜だろうが何だろうが、紅の体を乗っ取るには至っていない。そのはずだ。
しかし、薫の焦燥は抑えきれていない。
その同様の様は、忙しなく動く両の黒目に現れていた。
クロエは、見るからに落ち着きを失っている薫に困惑を覚えつつも、とにかく彼の興味を引くべく、話を続けた。
「……えと、実は私、見てる。貴方の妹、あの子が、竜に飲み込まれて暴走を始めるのを――っ!?」
「それは一体、どういう意味だ……?」
クロエの言葉の途中で突然体を起こした薫が、彼女の肩を引っ掴んだ。
万力のごとき握力で締め付け、抵抗も許さぬまま、クロエの背を床に叩きつける。
先ほどの薫の踏み付けでダメージを負っていた石の床に、ビシビシと音を立てて罅が入って行った。
仰向けにさせられたクロエは、呆然と天井を仰いだ。
そこにあったのは、混乱や焦燥を抑え込むために無理矢理に感情を凝縮し、一つに押し込めた薫の瞳。
二つの黒い瞳が体を強張らせたクロエを上から睨み付けてきた。
尋常ではない、ギラギラとした輝きをその内に宿して。
クロエは、自分が何かひいてはいけない引き金を引いてしまったらしいことに気づいたが、もう遅かった。
「答えろ……、お前は、紅について、一体何を知っている? ……ああ、ユムナの言ったとおりだ。お前はどうやら俺にとって、最高の情報源のようだ」




