第百五十七話:<追う者、追われる者(2)>
「……しつこい、……しつこい、しつこい、しつこい!」
クロエは、耳に届く超音波の反射具合を確認し、未だ諦めず執拗に追走してくる追手に苛立ちを覚えていた。
蝙蝠人間たる彼女は体に超音波発声・受信器官を備えている。
いかな暗闇の中も、障害物に溢れる街並みの中でも広い知覚能力を約束してくれる便利な能力だ。
しかしその力を駆使して尚、追撃者を振りきることはできないでいた。
クロエは、走りながら踏み砕いた酒瓶の欠片を魔法で起こした突風に載せて、苛立たし気に叩きつける。
太陽光を反射してギラリと光る破片の嵐が追走者に向かって飛んでいった。
怯んだ隙に本命をぶつけようと、クロエは手の中の魔石をぐっと握りしめ、わずかに走る速度を落とした。
それに対する襲撃者の反応は劇的だった。
走る速度を爆発的に高め、輝く鋭利な粉塵の中に、自分から全力で飛び込んでいく。
気付いたときには、襲撃者はクロエの振りかぶった右腕の脇に到着していた。
猛スピードの疾走の余波としてやってきた粉塵交じりの風の圧力が、驚きに目を見張るクロエのコートを揺らした。
にこり。
笑顔で手を伸ばしてきた少年の手を慌てて払い、クロエは後方に転げて距離を取った。
片手に携えた剣を媒介に下から突き上げる風を産み、その風に乗って高く跳びあがる。
体勢を立て直し、屋根の上に着地しようとするクロエの眼前に、変わらぬ笑顔を浮かべた眼鏡の少年が出現した。
「――――光ノ決壊ッ!」
咄嗟に放った光の魔石に、自身の奥の手の一つである魔法を載せた。
焦燥感に身を焼かれながらも、クロエが幼いころから実践で培った魔法構築能力は遺憾なくその能力を発揮した。
瞬きの間に、視界全てが闇に染まる。
微かに喧騒の音が伝わって来ていた町の風景も、眼鏡の奥の瞳をパチリと瞬かせた眼鏡の少年も、黒い闇の帳の彼方へと消え去った。
これは煙幕のような不完全な暗闇ではない。
蝙蝠系の亜人が長い年月をかけて熟成させた魔法の効果たる、光の無い世界である。
視界を奪われ、当惑しているであろう追走者に踵を返し、クロエは音も無く駆け出した。
その足取りに乱れはない。
蝙蝠亜人の種族特徴である超音波器官は、クロエが進むべき道どりと、後方で立ち尽くす追走者の姿をはっきり補足している。
追走者を打ち倒す絶好のチャンスでもあったが、迂闊に接近したり攻撃を仕掛けたりすると、何か良くない事態が起こり得ると本能が警鐘を鳴らしていた。
クロエが始末したかったのは先ほどの"女性"の方であって、この少年ではない。無駄な時間を費やしたり、危険を冒したりする必要はない。
そのように計算を巡らせていたせいか、クロエは気づかなかった。
屋根を飛び下り、魔法の効果圏内から脱した後も可能な限り距離を離し、路地に身を滑り込ませたクロエの居る場所を、少年がその目で追い続けていたことを。
そして、鬼ごっこは終わらない。
避難者の群れに身をまぎれさせ、完全に追手を撒いたと思い込んでいたクロエの前に、少年はにこりと片手を上げて現れた。
思わず悲鳴を上げたクロエを勇敢な町民が立ちふさがって庇い、少年は懐から取り出した紙を持ち出して自身の正当性を主張した。
忽ち咆哮の逆転した敵意の視線からクロエが逃げ出し、逃亡劇の第二幕が始まった。
物陰を利用して視界を遮蔽しようと、息を潜めて物陰に忍ぼうと、追手の足取りは乱れない。
クロエに取り憑いた幽鬼のごとく、ピタリとその背後について離さないのだ。
沸き上がる苛立ちは思考を鈍らせ、鈍る思考は更なる苛立ちを呼ぶ。
入り組んだ街並みを縦横無尽に駆け巡り、建物や看板で相手の視線を遮断しようと試みた。
だが、明らかに視覚以外の知覚能力をも駆使している彼には通じない様子だった。
犬並の嗅覚でも持っているのかとゴミ捨て場を経由してみたが、いやそうな顔こそ見せるも、鼻をつまむ様子すら見せなかった。
人質でも取るべきかと思い至るも、あの少年に対する効果的な人質候補などクロエは知らない。破れかぶれに避難民に刃を向ければ、周辺を囲う憲兵達全てが敵に回るだろう。
やがてクロエは、少年の気配を完全に見失った。
撒いた、と考えなかった。
むしろ、息をひそめて自分の行く先に待ち構えている可能性の方が高い。
クロエは、びっしょりと汗に濡れたローブを引きづり、目についた一軒屋の扉の前に立った。
すっかり息の切れた体を、それでも緊張体勢を維持して油断なく周囲の様子を伺いながら、木戸の取っ手に手をかける。
クロエがこの家の中に入ろうと考えたのは、そこが追っ手の少年が待ち構えている可能性が最も低い場所であると考えたからだった。
幾らなんでも、閉鎖空間で逃げ回る相手を待ち構える馬鹿は居ない。
そして、追手が自分の確保を諦めていないなら、この家の中に入って来ざるを得ない。
家の中――閉鎖環境ならば自身の奥の手は、より威力を発揮する。
先ほどは数秒で消えてしまった光を奪う魔法領域も、数分は維持できるはずだ。
家ごと焼き払われたならしょうがない、その時は可能な限り早く追っ手を補足し、再度逃げるだけである。
しかし、金属の蝶番をキイ、と軋ませ、扉を開けようとしたクロエは、はた、と思いとどまる。
この思考も相手に読まれているという可能性はないか、と。
常なら考え過ぎ、と自身でも一蹴する程度の思い付きだ。
しかし、ここまで執拗に自分を追いかけてきたあの男なら有り得るかもしれない。
クロエの喉がこくりと鳴る。
しかし、いつまでもこうしている訳にはいかない。
クロエは思い切って扉を開け、剣を構えて室内に素早く踏み込んだ。
誰もいない。
生活雑貨が雑然と積まれた、家事無精の棲み家と思しき、静かな室内だけがそこに広がっていた。
クロエの肩が落ちる。
やはり、無用の心配だったようだ。
「はじめまして、だな。ふむ、ここなら落ち着いて話が出来そうだ」
クロエの右肩にぽん、と手が置かれた。
クロエの全身にぶわっと嫌な汗が流れる。
「風ノ――っ!」
「まあ、落ち着け。危害を加える気はない」
少年の左手が流れるようにクロエの左手に重なり、魔法のように鮮やかに、そこに握られていた魔石を奪っていった。
「落ち着け。繰り返すぞ。俺はお前に危害を加える気はない。今までの追走で、お前も薄々分かっているだろう?」
仮面奥に隠した顔に緊張の汗を流し始めたクロエは、予想外の「優しい声」を耳にし、恐る恐る背後を振り返る。
クロエの感知の手を如何なる手法を用いてか綺麗に潜り抜けたあの追手が、開かれた扉から漏れる太陽の光を背にして立っていた。
「緊張してるな。食べるか? 俺の連れの好物なんだが」
取り上げた魔石の代わりとでも言いたいのか、少年は細長い棒状のものをクロエに差し出してくる。
見ると、いつの間にか少年自身もその棒――この町の名産である砂糖菓子を咥えていた。
それを見てクロエは、何故だか膝から床に崩れ落ちそうになってしまった。
「……何で? 何が、目的?」
安物の厚い麻布のカーテンが閉じられ、クロエ好みに明かりを落とした狭い部屋の中。
薫とクロエは、向かい合って言葉を交わし出していた。
薫の見たところ、クロエは、胸に去来した安堵の気持ちに困惑を覚えているようだった。
ストックホルム症候群という言葉がある。
犯罪者と犯罪被害者が時間と場所を共有することで、互いに過度の同情や好意を抱くという精神作用だ。
”吊り橋効果”などと混同されることもあるが、少し違う。
今回、カオルが意図して産みだした状況は、これに良く似ている。
追う者と追われる者だった薫とクロエの間には今、完全ではないにせよ小さくない精神的結びつきができていた。
赤の他人に「ちょっとお話でも」と言われても警戒心が先に立つが、それが同じ学校に通う同級生ならば、机を並べて仕事する同僚ならば、その言葉の受け取り方も代わって来るように。
焦る必要は無い。
薫はあくまで落ち着いた物腰で、困惑する少女を見つめる。
この世界の剣士という人種も、さらにそれが亜人と言われる特別な種族であるとしても、それが生き物であることには違いなく、精神的、肉体的な疲労から逃れることはできない。
目の前の少女が「追い詰められ」、家の中に入ったのは、本人の意思とは関係なしに、これ以上の甲斐の無い逃走に嫌気がさしてきているという事実を意味する。
「――俺がいつでも攻撃できる体勢なのが気にくわないか? なら、こうしよう」
言いながら薫は立ち上がり体を部屋の隅にあったソファへと投げ出した。
安物のスプリングがギシリと鳴って薫の体を受け止める。
薫は膝の裏をその肘掛に載せ、両手は枕代わりに自分の頭の上で組む。
ちょうど、目の前の少女に無防備な腹を向けるような格好だ。
無論、用心深い薫が完全に警戒態勢を解いた訳では無い。「剣」技に頼りがちなこの世界の剣士達と異なり、薫の武器はその肉体全てだ。
一見無防備に見えるその格好も、完全に筋肉を伸びきらせない様、いざという時どの方向にも跳べるよう考えられた上でのもの。
しかし、それを知らない仮面の少女――クロエは、見るからに無防備な姿を晒す追手の少年を前に、一層の困惑を深めた。
「……ええ、と」
――よし。
薫は心の中でぐっと拳を握りしめた。
今クロエが漏らしたのは、単なる困惑の言葉。
しかし、相手に対しての言葉を発したということは、相手との対話の意思をもったという事でもある。
恋愛シュミレーションゲームを考えると分かりやすいか。
この手の対話、"攻略"で大切なのはまず相手に言葉をかけられるようにすることが肝要だ。
それができれば、先に進むことができる。
自分に対して向いている敵意、恐怖、不安といった感情を、対話を通じて少しずつ別の感情に変換していけば良い。
相手が完全に自分に興味が無い――たとえば、職務上の抹殺対象としか見ていないのであれば、この手法は上手くいかない。
まあ、例外もいない訳ではないのだが。
薫の知り合いには、職務上の敵すらも自分の恋人として連れて帰ってくる妙な諜報部員が居たのだが、流石に薫はそのレベルの籠絡技術は持ち合わせていないし、今回はそもそも、そこまでの技術は必要無い。
「俺の居た国では、家の中では外の争い事を持ち込まないという文化がある。そしてお前は今、こうして家屋の中で俺を待ってくれていた。……対話の準備は整っているんじゃないか?」
嘘八百だが、これもまた円滑な議論のための方便である。
「……そんな文化、知らない」
「なら、今日だけでいい。俺につき合ってくれないか?」
「……こんなことしてる時間、私には無い」
「うん? 仲間が心配なのか?」
「……貴方には、関係ない」
拒絶の言葉しか返ってこないが、対話には応じてくれている。
今の薫にはそれだけで十分だった。
元々、ユムナの”追った方が良い”という助言を受け入れたは良いものの、この少女が一体自分にとってどれほど有益な情報を握っているのか、どういった立場の存在なのか、それすら分かっていない。
今の応答で初めて明確な「仲間」が居るらしいことが分かった。
ユムナを襲ったという事実から、エルフ側に与する存在であることは予測がついていた。
恐らく、この世界から神を放逐することを目的とするらしい組織の一員であるとみて、間違いない。
それ以上の情報を引き出すために、まずは「友好的」な立場からの質問を試みることにした訳だが、成功の様子である。
「そう言うな。いい機会だ。お前達、神に刃向おうとしている者達には、一度聞いておきたかったんでな。実のところ、俺はお前達の目的について、神側から与えられた情報しか聞いたことが無い。正しい判断のために、お前達の側からの情報も聞きたかった。なにせ、今の俺の持つ情報のみで判断すると、お前達が試みているのは勝てるはずの無い戦という事になってしまう。それは、少しおかしい」
かなり危うい発言だということを、告げた薫自身も自覚していた。
取りようによっては、「俺は今自分が味方している神の陣営に疑念を抱いている。お前達の方が正しいんじゃないかと思えてならない」といった風にも受け取れる。
勿論、ユムナを守るためとはいえ、仮にも剣を向け合った者同士、そのような物言いを素直に受け取ってもらえるとは思っていない。
だが、相手がわずか1%でもそれを信じてみたいと思うなら、その期待は見えない鎖となって相手の思考を縛る。
そう。その程度の、対談を多少有利に進めるための、或いは相手の信用をわずかばかり勝ち取るための発言だった。
しかし。
「……!?」
少女は薫の予想外のリアクションを見せた。
それまで装着していた灰白色の仮面を床に放り捨て、薫の寝転がるソファまでずずずっと身を乗り出してきたのだ。
驚くほど大きな手ごたえだった。
仮想的戦力の急接近に反射的に武器を抜きそうになった自分を、薫は必死に抑え込む。
黒髪を振り乱しながら自分の目を覗き込んで来る大きな黒い瞳には、警戒心こそ残っていたものの、害意は含まれていなかったからだ。
薫の顔を見つめて来る少女のその表情は明らかな興奮と――
「……今の話、本当? “貴方”が、本当に私達の話を聞いてくれるの?」
――微かな期待に彩られていた。




