第百十七話:<束の間の逢瀬>
遅れました。――すいません。
「あいたたたた…… あ! 大丈夫ですか!? 怪我とかしてません!?」
衝突で地を転げたエアリス。
しかし、同じく横倒しになった人影を見て即座に跳ね起きた。
頭を抑えて半身を起こした己の被害者の下に駆け寄り、直ぐに立ち上がれない様子を見て真っ青になる。
対応しようにも急な展開に真っ白になってしまった頭ではあたふたと慌てることしかできず、唯一、謝罪の必要性のみに思い至り、勢いよく頭を下げた。
「ほんっとすみません! ごめんなさい、私の前方不注意でした!」
「あつつ……。いや、気にしないで――ください。進路方向を良く見てなかったのは、僕も同じでしたから」
思いのほか穏やかな声をかけられ、エアリスは恐る恐る頭を上げた。
人影の全体像が、エアリスの視界に飛び込んでくる。
その人物は、頭をすっぽりと覆う民族衣装めいたケープに身を包み、幅広の白い帽子を被った白砂のような肌色の少年だった。
外見年齢は、今年15歳になったばかりのエアリスとさほど変わらないだろう。
どこか浮世離れした印象を受ける均整の取れた顔立ちに、その印象を覆す親しみやすい柔らかな表情を浮かべている。
起き上がるのを手助けしようとエアリスが手を差し伸べるが、愛想の良い笑みをうかべながら上半身を起こした少年は手を横に振ってそれを断る。
さて、これが物語のお約束であるならば、この少年は、本日付でエアリスのクラスに転入する転入生か何かであるのだろう。
けれど残念なことに、そのような学園イベントはエアリスの下には訪れなかった。
学生の格好には見えない、膨らんだ旅道具入れを背負う旅装スタイルをした白色の少年がエアリスの前で、ぽんぽん、と服についた汚れをはたき落とす。
「ほら、大した怪我だってしていません。せいぜいがちょっと頬を地面に擦り付けたくらいで……」
「うわわっ! ちょっとちょっと! 帽子の横っちょが赤く染まってるじゃない!? 血ですよね、それ? ちょっと待っててください。私、治療用魔法薬持ってますから、使ってください!」
両手を広げてほぼ無傷をアピールする背の低い少年だったが、目敏く帽子に染みた血の跡を発見したエアリスが慌てて自分の手荷物をひっくり返し始めた。
「えーと、お薬、お薬……。あった! これだ!」
「い、いえ、お構いなく。この程度の傷なら、すぐに塞がると思います。その薬は貴女がご自分に使ってください。――それに僕は今、ちょっと急いでいますので。この街の軍団長さんの家に用事があるんです。ご親切にありがとう。では、僕はこれで。お体をお大事に」
「え、え、え? いや、私、ちゃんと受け身取ったんでこれくらいじゃ傷一つつきませんって! それと、どこ行くんですかーー! そっちは軍団長さんの家とも防衛軍の勤め先とも真逆ですよーー!」
なぜか焦った風に帽子を引き下げ、目深にかぶりなおした少年。
そのまま歩み去ろうとしたところで、エアリスの声を聞いてピタリと立ち止まった。
不思議そうな顔でエアリスの方を振り向く。
「――え? こっちの方向じゃないんですか? この街の南門から道をひたすら真っ直ぐ行ったところにあるって聞いていますけれど」
「南門から来たんですか!? そっちの方向は北西の医療研究特区があるだけですよ。あの、失礼ですけど……方向音痴の方だったりします?」
「え? あー、うん。そうかもしれないですね。なにせ僕は、人の集まる町に来たのはこれが初めてという身ですから」
「旅人さんですか? あー、この街は変な建物が乱立してる上に区画整理に区画整理を重ねて迷路みたいになってますもんね」
――私も初めてこの街に来たときは面食らったんだよねえ。
エアリスは、やる気溢れる女学生として目を輝かせて新天地に降り立った日の、懐かしい思い出に浸った。
そして、自分の中にムクリと気まぐれな気持ちが湧き上がったのを自覚する。
「……よければ、私が案内しましょうか?」
その気持ちを言葉に変え、笑顔で少年に提案した。
「え、そんな!? 貴女もどこか目的地があって、それで急いでいたんじゃないですか? 悪いですよ」
――いやあ、たしかにそうだったんだけどね~。たぶん今から急いで行ったところで、もう間に合わないのよ、これ。
恐縮する少年を前に、エアリスは心中でため息を吐いていた。
エアリスの午前中の予定は、一二限ぶち抜きで行われる精霊魔法の実習だった。
そして、その講義を担当するのは、規律に厳格なことで有名な桃色の魔女などと揶揄される風魔法使いの女教師だ。
恋多き女を自称し、多くの男の間を渡り歩いた挙句、本日めでたく独り身にて30歳(※この世界の平均結婚年齢は10代後半である)を迎えるこの学校の名物教師の一人でもある。
最近は結婚相手を求めて成人したての生徒にまで目をつけ始めたなどという噂もあった。そんな彼女が最近口にした迷言は「調子に乗るなよ小娘ども! 若さなんてなあ! 露ほどの命しか持たない、儚い代物なんだよ!」だ。
エアリスが「遅刻しましたけど、授業を受けさせてください」などとのこのこ彼女の前に出て行ったとしても、嫌味なお叱りの言葉を受けた挙句、授業見学までしか許されないのは目に見えている。
――それだったら、こっちの方が楽しそうかなーって、ね。ぐふふふふ。
エアリスの心中で邪な気持ちがが炸裂した。
その邪な心の向かう先は、目の前の少年だ。
一見100%親切心からくるように見える笑顔を少年に向けながら、すらすらと言葉を続ける。
「いや、これくらいのお詫びはさせてください。無礼を非礼で返したとあれば、故郷の母に申し訳が立ちません!」
「そ、そう? それじゃあ……、お願いしても良いかな?」
少年が再度体ごとエアリスの方に向き直り、はにかむような笑みと共に、依頼の言葉を告げた。
薄い睫の載った瞼をパチリと瞬かせ、白い肌にすうっと伸びた鼻の下に、形の良い唇を持ったその少年が、エアリスのために笑顔を向けている。
エアリスがそれまで見たことも無かったような、――美少年の笑みだった。
――っしゃーっ! イケメンゲットだぜーーーーーーっ!!
心の中で快哉を叫ぶエアリス。
しかし、眼前の少年の容姿に見とれすぎていたせいだろうか。
つい先ほどエアリス自身が目撃していた傷跡も、帽子を濡らしていた血の跡もいつの間にかすっかり消えていることに気づいていなかった。
「じゃあ、案内しますね! あーっと、それとたぶん、貴方って私と年齢同じくらいですよね? もっと砕けた口調にしても良いですか?」
――よっしゃ、イケメンとデートじゃー! みんなに自慢してやろう! ふひひ。別にあの先生みたいに恋愛どうこうな関係になりたいって訳じゃないけど、やっぱ心躍るよねえ、こういうの。
「うん、いいよ。むしろ、こちらからお願いしたいくらいだ。僕の名前は、"ラルク"って言うんだ。よろしくね――ええっと」
「エアリス! 私の名前はエアリス! よろしくね、ラルク!」
――うん、たまにはこういう潤いのある日があってもいいよね。
そして、軽い足取りで歩み出したエアリスの先導の下、ラルクと名乗った白い少年は本来の目的地に向けて歩き出した。
平和なアルケミの街の学校地帯を今、二つの影が抜け出し、歩き去っていく。
「へえ、じゃあ、エアリスさんは将来、国外に出るような仕事がしたいんだね」
「そうそう! やっぱりねえ、せっかくそこに広く大きな世界が広がってるんだしさあ。限られた世界だけじゃなくて、もっと色々なものを見てみたいって思うじゃない!」
「この町で勉強しているのも、そのためかい? 確かな知識と技能を身につけられれば、どこに行っても通用するものね」
「うん、そそ。実は、親には内緒の夢なんだけどねー。うちの親は20年くらい前にあった獣人国との戦争経験者だから、国外に出るなんてとんでもない! ってなことしか言わないし。まったく、頭固すぎて困っちゃうよ」
やれやれと、肩を竦めて頭を振るエアリス。
「ご両親はエアリスさんのためを思って言ってくれてるんだろう? 良い両親じゃない。大切にしなよ? ――でも、そうなんだ、良い夢を持ってるね。僕はそんな大きな夢、自分で抱いたことが無いから、少し憧れるかな」
「夢に大小なんてないでしょ。私の友達なんて、自分の趣味を認めてくれる男の妻になれればそれでいいよ、なんて言ってるよ? まあ、あの娘は私と違って可愛いし、その"趣味"以外に目立った欠点なんてないし……案外簡単に叶えちゃうんじゃないかなあ。エアリスの夢って何?」
「僕の……僕個人の夢っていう事なら、僕の好きな人と、一生静かに幸せに暮らせれば、それでいいかなって思ってるよ」
「わっ、枯れてるなあ。――因みに、その"好きな人"の席って既に埋まってるの?」
「席? ああ、うん。その子なら今、僕の故郷で僕の帰りを待ってくれているはずだよ」
「(ちっ――お手付きか)」
「エアリスさん?」
「ああ、うん、なんでもない。でも、何かいいな、それ。もう婚約済み? 結婚したの?」
「まだどっちも、かな。でも、ちゃんと待っていてくれるってさ」
「わお、固い信頼だねえ。良いなあ――あっ、あそこの屋台、見える? あそこで売ってるお菓子がこの町の名物。ちょいと買ってかない?」
「へえ、あれが町ごとにある『名産品』ってやつなんだね。初めて見るよ」
「??? ええと、まあ、興味あるなら食べて見なよ――すんませーん! 親父さん! こいつを二丁くださーい!」
エアリスとラルクの二人は、二人連れだって商店街の近くまでやってきていた。
街の中心部にある巨大な時計塔が、ここからだともうだいぶ小さく見える。
そこでは、財布を忘れたことに気づいて真っ赤になった顔を抑えて蹲ったエアリスと、そのエアリスに代わって二人分の代金を払って、店主のオヤジから湯気の立ち昇るその甘い菓子を受け取るラルクの姿があった。
「ぎゃぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! そうだったぁぁぁあああ! 私の財布、ロッカーの中入れっぱだったぁぁあああああああああああああ!」
ここが人の行き交う往来でなければ、地を転げまわりながら足をバタバタとさせていたことだろう。
大層な取り乱しっぷりを見せて頭を振るエアリスの前に、苦笑を浮かべたラルクが歩み寄ってきた。
「ほら、エアリスさん。向こうの公園で食べようよ。お金のことだったら気にしないで。――でも、財布は肌身離さず持っていた方が良いよ? いつ盗られちゃうか分からないし、ね」
「この町が平和すぎるのがいけない! ああ、もう、拙いったらありゃしないなあ、私。この街の安全基準に慣れきってる。これじゃ、ここの学校を卒業したら私、どうなっちゃうんだか……」
そうぼやきながら、ラルクの背後についてとぼとぼと歩くエアリス。
そして、その様を快活な笑みで見送る店の主人の男。
実に平和な日常の光景だった。




