第百八話:因縁とは人の強い感情、意思によって結ばれるものです あなたは今までにいったい幾つの因縁を紡いできましたか?<聖剣との出会い>
遅れました、申し訳ない。
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それは、酷い雨の日だった。
天に滝が生まれたかと見まごうほどの、容赦ない水の強襲。
流れ落ちる水の垂れ幕が視界を遮り、地を叩く雨音が他のあらゆる音を駆逐する。
増水した川の水が土砂を吸って黒く濁り、ゴプゴプと不気味な音を上げながら土手の草地を削っていく。
その川は、いつ氾濫に至ってもおかしくはないように思えた。
そんな危険な川脇の道を、濡れた装束を肌に張り付かせた一人の少女が走っていた。
ぬかるむ地に時折足を取られつつも、息を切らせ、全力で走る少女。
ピンと伸びたエルフ種特有の長耳から雨水交じりの汗をしたたらせ、水を吸って重みを帯びた長い黒髪を、胸元に乱暴に押し込んでいる。
「間に合え間に合え間に合え……間に合うでござる――!!」
奇矯な叫び声を上げ、駆ける両足で泥を撥ね上げながら、少女は走り続ける。
少女の体サイズぴったりに作られた目に優しい黄緑色の服を泥で汚し、足を包む革の靴をぼろぼろに傷つけながら、一心不乱に、たどり着くべき目的地に向けてただ走る。
「着いた……着いたでござる……。無事でござるか! ラルク殿―っ!」
ずぶ濡れの少女が発見し、ばちゃばちゃと水たまりを踏み弾きながら駆け寄って呼びかけを向けたのは、奇妙な造形をした一軒の建物。
大きさは平屋一戸建てほど。樹上に魔法を用いて居住空間を作るのが一般的な現代のエルフ社会ではそうそう見られない、地べたに構えられた建造物だ。
「その声! クズハかい!? ちょうどよかった、一緒に土固めを手伝ってくれないか!? 手が足りないんだ!」
少女――クズハの呼びかけに対し、建物の屋根の上から返答が返ってきた。
まだ若い少年の声だ。実際、ラルクと呼ばれた彼の年齢は27――寿命300年も珍しくないエルフという種族にとっては、まだ幼子と言えた。
「”土固め”……精霊魔法でござるか? ――分かった、拙者に出来る限りのことをする! そなたを手伝おう!」
「無理はしないでいいよ! まず、この『書庫』の周りをできるだけ高い土の壁で覆い固めてくれ! 僕は今、天井を塞いでるんだ。地下は固めたけど、壁までは手が回らない!」
「了解でござる!」
帰ってきた言葉の求めに応じ、クズハが直ぐに魔法の行使を開始する。
呪文を紡ぎ、家の周りを地から生み出した土で塗り固めていく。
塗り固めながら、後でどうやって中のものを取り出せば良いのかちらりと心配に思ったものの、先ほどのラルクの焦り声から、今は塞ぐのが最優先だと判断。手を休めず、魔法を行使し続けた。
視界の端に、とうとう氾濫を始めた先ほどの川の様子を捉えながら。
今、クズハとラルクの二人が行っているのは、彼らの宝物が詰まったこの”書庫”を大雨の浸食から守るための対処だった。
二人とも、エルフとしてはいっそ異様なほど魔法の適正が低い身ではあったものの、今だけはそれに対する愚痴など言っていられない状況である。
ラルクは屋根の上から、クズハは氾濫した川の水が流れ込み始めた地の上で、それぞれ自分に出来る限界まで魔力を振り絞り、水を通さぬ土の鎧で書庫を隙間なく覆っていく。
足に染みいっていく川の水の冷たさに急かされるように、クズハは魔法で生成した土の覆いを地面から屋根に向けて伸ばし、固めていった。
――くうっ!?
そうして二人作り出した土のコーティングが書庫の壁、その中頃でランデブーを果たし、融合を開始した辺りでクズハの意識が揺らいだ。
膝をふらつかせ、ばちゃんと音を立てて地上を覆い始めた浸水の上に尻餅をつく。
――しまったでござる。拙者の魔力が、もう……。
顔面蒼白になるクズハ。
エルフの血を引き、長耳や色白の肌等のエルフ的特徴を数多く母から受け継いだ彼女だが、その身に抱える魔力は人間並み。あるいは、その水準以下であった。
エルフに伝わる「魔力増加」の儀式も、齢5の彼女はまだ受けさせて貰えていない。もっとも、基準年齢の10歳に達したとしてもそれを受けられる保証はないのだが。
――くっ! 今すぐ誰かに……ラルク殿に助けを求めねば……。
魔法行使に集中しすぎていたために、魔力切れに気づくのが遅れた。
今更ながらにそのことに気づいたクズハが声を絞り出し、助けを求めるが、大雨と地を流れる水流の音にかき消され、屋根の上にて慣れない魔法の行使に集中しているラルクの耳には届かない。
こうなればもはや、頼れるのは自分自身しかない。
膝に手をやり、立ち上がろうとするが、その挙動は今のクズハにとって仇となった。
――くぅあっ!?
体勢を崩したクズハが、仰向けの格好で水の上に背を叩きつける。
波紋を生みながら、クズハの上半身が水面に潜り込んでいく。
既にその水深は、クズハの膝丈を越えていた。
そして、魔力不全の副作用たる全身の脱力が完全に始まった。
幼き少女の体が、碌な抵抗も出来ぬまま水の中に沈んでいく。
――きいぷっ! あっ! ふいっ! ぅあ!
たちまち流れる水流に翻弄され、水面に顔を浮かべることもままならなくなった。
空気を求めて口を開くが、新鮮な酸素の代わりに濁った水を流し込まれ、咳き込む間もなく再び水中に没する。
未だ地に足のつく水深なれど、或いはそれ故に、足が地を離れて顔が水面に沈む恐怖が一層際立ち、クズハの幼い精神を蝕んでいく。
次の浮上が約束されない水没を、傍若無人に振舞う水流に叩かれながら、自由の効かない体で幾度も幾度も繰り返す。
今自分が吸い込んでいるのが水なのか空気なのか、それすら判別できなくなるほどまでに、クズハの心が追い詰められていく。
微かに動く指先に力を籠め、地面に繋ぎ留める錨として用いようとしたが、摘まみこんだ地面ごと水流に押し流された。
絶望的な状況と冷たい水温が、体力と同時に彼女の精神を削り取っていく。
――あ、あ、あ……。
通常、魔力の欠乏でこのような全身脱力といった症状を引き起こす者はそうそういない。
生き物の体が本能的にそのような状態を拒み、そうなる寸前で魔力行使を中断させるからだ。
それを可能とするためには相応の技術を訓練をもって身に着ける必要があるのだが、今のクズハは、様々な偶然が重なり、その領域に手を届けてしまったのだ。
一つには、エルフが幼子に施す”転写魔法”によって彼女が得た、魔力操作の知識。
二つには、その転写魔法の対象として想定された一般的エルフ種と比べ、圧倒的に少ない彼女の総魔力量。
最後に、精霊魔法の本質たる”願い”と”意思”。その二つを、かつてないほど純粋に、強く心に思い描いてしまったこと。
本来であればクズハの魔法使いとしての成長を示す喜ばしい成果だったはずの脱力現象が、今は彼女の体を縛る冷たい鉄鎖となって彼女の命を危機に晒していた。
それでも尚、クズハは屈していなかった。
生きあがいていた。死を否定しようとしていた。
生を求め、懸命に力を失った体を動かそうと試みていた。
崩れつつある精神の器を強い心の糸で縛り、完全な崩壊を許さない。
――拙者は、まだ世に何も残しておらぬ……。そうだ、拙者はこんなところで死にとうない。
クズハの脳裏に、ラルクと共に読んだ、とある大好きな物語の主人公が語ったセリフが蘇ってきた。
『世の中は広いのだ。この世界のどこかには、拙者の求める死に場所があるはず。だが、そこにたどり着くのが決して容易い道でないことも確かでござろう。故に拙者は戦う! 我が征く道の障害となるのであれば、何人たりとも許しはせぬ! 拙者が”最強”であるのはそれ故よ! 我の求める理想の地、理想の世界、理想の死に場所! その地をこの足で踏むまでは決して死ねぬのだからな! 我に死を与えんと欲するのなら覚悟せよ! その時、我は貴様達の”敵”となるだろう! 死神となるだろう! 死神とは死を与えるもの、そして己が死を否定するものだ!』
――そうだ、拙者はまだ死なぬ! 拙者は、生きるのだ!
苦しげな表情で、しかし目に強い光を宿しながら心の中で強く叫ぶ。
クズハが放ったその強い意志に、応えるものがあった。
『ふうむ、中々の逸材ですねえ。君に任せてみましょうか――どうぞ受け取ってください。これは、君の求める"力"です』
酸欠で意識が薄れゆくクズハの手に、何か光り輝く、温かなものが握られた。
生物の心臓のような脈動をするそれを、クズハは何かに導かれるように全力で握りしめた。
――拙者は……生きる。生きて見せる。そしてきっとこの世界に、拙者の生きた証を……。
突然、水中に浮かぶクズハの手元から眩い光が放たれた。
クズハの握力に応えたかのように高まったそれは、水面を貫き、雲に隠れた先にある月を目がけて真っすぐ伸びていった。
「クズハ!」
その光に気づいた一人の少年が、黒雲を映した黒い水面に飛び込むんだ。
その少年が水をかき分け、迫って来る音が、その時クズハの耳に最後に届いた音となった。




