第一話: ここはどこ?<初めての転移>
引き金を引く。撃鉄が雷管を叩き、硬質の銃口から吐き出された銃弾が五メートルの至近距離を瞬く間に駆け抜けた。
今撃ち出された9ミリパラベラム弾は、鉄板をも貫き、打ち砕く代物。それが柔な人間の体に衝突すればどうなるか。
右肩に被弾した敵の体が、身をもってその様を表現してくれた。
肌を裂き、骨を壊し、それでも銃弾は止まらない。
衝撃で仰け反った敵兵の背後、その白壁に亀裂を入れ、そしておそらく、さらにその先へと飛んでいった。
極悪な一撃を身に受けた男の眼からはしかし、驚くべきことにまだ戦意の炎が燃えていた。
まだ己は戦えると、誇示するかのように前に出る。
その歩みを止めるには、もう一撃加える必要がありそうだった。
そしてその一撃は、再度引き金を絞りかけた俺の予想より一足早く訪れた。
こちらを睨むて敵の足元に、赤く輝く巨大なものが飛来した。明滅する人間大の赤光から突き出されたのは、見事な速度の右の掌底。それが、男の顎を打ち抜いた。正確無比に打ち込まれ、彼の脳へとまっすぐ衝撃を送り込んだ掌は、彼の意識をいずこかへ吹き飛ばした。
男が銃を取り落とし、白目を剥いて廊下に崩れ去る姿を確認して、俺は耳元のインカムに指を触れた。
「ポイント5(ファイブ)-F。扉前、制圧完了。突入の可否を問う」
『行って良し。タイミングはお任せで』
「了解。他班の状況は?」
『うん? 経路B順調、経路D順調、問題なし。極めて順調だよ』
「OK。ではすぐに突入する。5(ファイブ)-Z到達後、また指示を乞う」
『健闘を祈るよ』
回線が切られると同時、俺は右手を上に掲げて周りの注意を集めた。
今周りに立っているのは味方のみ。そしてさっと示した手信号の意味はその皆が知っている。
突入30秒前、即座突入準備――その意味を持つ手の動きを確認した隊員達が素早く、そして迷いなく配置についていく。
腕の多機能時計のボタンを押しこみ、30秒後発動するアラームを待ちながら、俺は作戦本部から聞いたばかりの情報を整理した。
経路A……敵のビル一階から突入した陽動班。あのチームは恐らくもう引き上げているはず。
経路B……一階の裏から突入した強襲班。突破力に秀でたあのチームは、予定通り階下の制圧に努めている頃だろう。
経路D……屋上からの侵入班。あの二人は今頃、目的の“首”を獲るため、最短経路を走っているはず。
そして経路C……爆薬であけたビル五階壁の大穴目掛け、隣のビルから跳躍して侵入した俺達破壊工作班。この侵攻状況も予定通りだ。ビルの上下経路分断。俺達の侵攻度を敵に推測させないための遊撃。いずれの役割も問題なく果たせているだろう。
この階での仕事も残すは一つ。目の前の扉の先、この中で武装して待ち構えているだろう敵を打ち倒し、そのさらに奥にあるはずの階段を物理的に使用不能にすることのみ。
腕に小さな痛みが走る。セットしたタイマーが鳴り響く30秒経過の直前、その5秒前を知らせる通知。
――突入準備
右腕を上げ、仲間達に合図を送る。応諾の気配が背中越しに伝わってきた。
最前に立ち、突入の切り込み役を兼ねる俺は最初の仕事を行う。タイマーの発動と同時、腰から引き抜いたナイフを横に一閃した。
真っ直ぐ振るったナイフの軌跡が鈍色の扉を横切り、軽金属の外装ごとその内部を通る配線を両断する。
開錠装置と連動していた配線の切断を受け、扉に施されていたロックシステムが異常終了を起こした。解錠の音が警告音と共に鳴り響き、スライド式のドアがゆっくりと横に流れていく。
直後、開き行く扉の隙間から銃弾の雨が漏れ出した。豪快に撃ち鳴らされるマシンガンの発砲音が届くより先に荒々しい破壊の嵐が到着する。
弾雨の激しさに耐えきれなかった華奢な扉が穴だらけで弾け飛ぶ。敵は俺達の待機する廊下をまるごと蜂の巣にする気らしい。一応はオフィスビルである建物の白壁一面に弾雨の降り注ぎ、穴と裂け目を産み出していく。
開いた扉から閃光弾やグレネードを投げ込まれる前の決着を狙ったというのであれば悪い判断ではない。あるいは賢いやり方だったかもしれない。だが、俺達はそんなスマートな突入など狙っていなかった。
俺は左手に構えた合金盾を前に押し出し、一歩を踏み出した。
そして開け放たれた扉から堂々と姿を現す。弾雨の降り注ぐ世界を、傘代わりの大盾のみを頼りに。
盾で身を固めながらの正面突破。それがいつもの俺達の、実に頭の悪い、そしてこの上なく効果的な突入法だった。
無色透明・強度最高の合金盾越しに、敵の全容が確認できた。
突然現れた俺に銃口を向けているのは、バリケードに身を隠し、横一列に並んだ四名の男達。
その内訳は仰々しい防具姿をしている戦闘職3名と、そして見るからに場違いなスーツ姿の男1名。
「ひぅああああ! この! このぉ! くそったれの化け物野郎! 死ね! 死ね! 死ねえええええええええええ! 死んじまぇぇぇええええええええええええええええ!」
慣れない構えで小銃を操る、縦にひょろ長い胡瓜のような男。俺は彼を最初の狙いに定めることにした。目標までの距離はおよそ5m。間の障害物は机一つ。
これならちょうど三歩の間合い。
腹に息を溜め、集中を高める。戦闘態勢で既に高めていた集中をより高次で強力なものへと変えていく。集中を高めきったとある瞬間、ぱちんと音を立てて世界が変わった。
まずは視覚が変化した。迫り来る弾丸がスローモーションで流れ出す。
次に全身の筋肉が、神経が、空気を感じる皮膚が、その感覚を変えていく。銃弾の雨を受け止める盾を持つ腕に、重心を載せた両の足に、途方もない力が宿るのを感じる。
身体に課していたリミッターが解き放たれた。拘束具を破り、生の身で世界に飛び出すがごとき昂揚感に全身が歓喜する。
その昂りを押し殺し、足に込める力と変え、そして俺は跳んだ。
床を蹴る。天井を蹴る。最後の着地からの踏み込みで丁度三歩。そこに立っていた後姿の胡瓜男のこめかみに研ぎ澄ませた拳を叩き込む。
この間、おそらく一秒にも満たない刹那。限られた者達しか認知できない領域の世界。
恐ろしくゆっくりとしたスピードで流れる視界の端に、未だ扉に向けて銃を構え、突如消えた標的に混乱する両脇の男二人が映る。
――この二人も片付けておくか。
盾を手放し、ナイフを落とし、空になった両手をその二人へと伸ばした。2の腕を掴み、持ち上げ、そして頭から床に叩きつけた。
防具込みで100kgを超えるであろう質量が柔なビルの床に衝突し、猛烈な音が響いた。色とりどりのコードが露出した床に二人の首がめり込み、彼らが装備していた銃器が床に散らかる。
これで3人をクリアした。そう思った時、ぴりりとした危機の気配を感じ取る。
気配の先は右手奥、ブラインドのかかった巨大な窓ガラスの向こうだった。
そこに複数の人間の気配があった。感じられるのは荒れる息遣い。細かく震える手に握られた重い金属が銃座代わりの机にぶつかる音。
「右手! 待ち伏せ!」
最後の防護服男の頭を平たい机の上に叩きつけ、監視カメラと連動していたと思しき自動射撃装置を抜き放った拳銃で破壊しつつ、俺は警戒すべき事象を情報として後方に送る。
「任せろや!」
応諾の声から間を開けず、直径72mmの硬球が後方から飛んできた。硬球は俺が指さした窓側の壁の中央に衝突し、爆薬の炸裂に匹敵する衝撃音を発生させた。砕け散った壁が粉塵と化し、その向こうから悲鳴と狂騒の声がこちらに届く。敵の混乱のほどが伺えた。
そして俺の背後からは仲間達の駆ける足音が聞こえてくる。
1つ、2つ、3つ、4つ……頼もしい増援の足音が粉塵の上がる部屋に上がり込み、突き進んでいく。
今、後方に残した後詰の一人を除けばこちらの全戦力がこの部屋に集った。一人一人が一騎当千。並み居る軍兵一隊より強大な、圧倒的すぎる戦力が。
粉々に砕かれた壁の向こうで右往左往する敵影に、4人が一斉に食らいつく。
4人共に通常装備の小銃は投げ捨て、それぞれが最も得意とする装備で身を固めている。
それに対するのは、慌てて銃を構える白衣の者達10名。
四対十。
数の差は明らかで、勝敗もまた明らかだった。
一般に、銃を持ち慣れない者はまず一瞬、引き金を引くのが遅れるという。それは人間が通常、意思決定からアクションまでにラグを持つ生き物だからだ。
打つべきタイミングで、考える間もなく反射で引き金を引けるよう訓練を受けるのが軍人だが、彼らはそのような存在ではなかった。そしてそんな彼らが相対する者達は誰もかれも、その一瞬の内で全てを決めてしまうことが可能な者ばかりだった。
先頭を走る小柄な少女の細腕が固定式の事務机を床から引き抜き、投げつける。
いつの間にか姿を現していた身の丈5mの大蜘蛛が天井を蹴り、銃を捨てて果敢に殴りかかってきた男の胸を細足の槍で貫く。
天井を蹴り、敵の隊列に誰よも早く飛び込んだ赤光が文字通り目にもとまらぬ速さで動き回り、嵐の勢いで敵を駆逐していく。
最初の扉の突破から制圧までかかった時間の合計は、1分にも満たなかった。
「負傷確認する。怪我した者は?」
「いねっすよ、隊長。見ればわかるっしょ?」
「よし。ならいい。――作戦本部へ。こちらC。経路C、侵攻率40%。このまま進む。どうぞ」
『本部了解。順調だな。そのまま頼むぞ』
通信が切れるのを待たず、俺は廊下に探知鏡を差し出した。
敵影無し、不審物無し。次の目標、エレベータホール脇の非常階段口まで一直線。
順調な作戦運びだった。
何もかも予定通りに進んでいる、と言い換えても良い。
「行くぞ」
そう。何もかも予定通りだった。
いつも通り、隊長兼斥候という珍しい立場の俺がなにか異常を見つければ後続に対処の指示をする心構えで前を行き。
後方の仲間達も、俺の視線の届かない左右上下後方をを警戒しながら、少し距離を置いて出発する。
問題など何もない。万全の体制だ。
そう思っていた。
あるいは、そんな油断ともいえない小さな甘えがその運命を手繰り寄せる呼び水となったのかもしれない。神の悪戯は、心構えの無い者に降って来るのだ。
俺が飛び出した廊下の先で、それは待っていた。
「――停止っ!」
まっすぐ伸びた廊下の中空に、奇怪な発光体が浮いていた。
探知鏡で確認した時は何も無かった筈のその場所に、まるで自分は最初からここにいたのだとでも言いたげに、堂々と。
人工灯の下で尚眩しく輝くそれは、一言で表すなら紫の五芒星だった。
太い蛇のような線で構成された五角の幾何学模様と、それを取り囲むようにうねる曲線の集合体。
それがまるで生きているかのように体をくねらせ、俺をじっと見つめていた。
「下がれ! 来るな!」
これはきっと何か良くないものだ。
俺は直感に従い、仲間達へ警告を飛ばした。
「隊長も! 早く!」
誰かの声が聞こえ、それと同時に目のくらむような閃光が俺の視界を切り裂いた。
真っ直ぐ飛んできた光の刃は透明な盾を易々と貫通し、咄嗟に瞑った薄い瞼を透過して両の眼球を貫く。
そして俺の意識は、撹拌された洗濯機の中のごとき混乱に陥った。
それは生まれて初めての感覚だった。何か大きなものにのしかかられ、身動きを封じられたような。或いは、あまりに濃すぎる薬液の中に身を浸し、肌を焼かれるような。そんな、圧倒的な何かが自分を通り過ぎて行った感覚。
体がよろけたこと、手に抱えていた大盾の持ち手が手から零れ、担いでいた小銃が背から滑り落ちたことは、俺はあの時のバラバラになった意識の欠片で今も覚えている。
そこからの記憶は、酷く曖昧だ。
背後、仲間達のいる位置から、焦った風に駆けてくる足音を聞いた気がする。
痛みの残る両目を開き、低下した視力で風車のように回る紫の紋様と見つめ合ったはずだ。
「――にきっ!」
そんな時、見慣れた赤い輝きが、この世で一番耳に馴染んだあの声を伴って俺の脇から飛び出してきた。
「来るなと言った!」
「馬鹿! 盾役は! あたしの専売――」
僅かの安堵と、それに匹敵する焦燥の念、そしてひりつくような危機感が胸に溢れた。
その後は――もう、ほとんどまるで思い出せない。
滝のように落ちてきた分厚い紫の奔流に俺は飲みこまれた。
リノリウムの床につけていた両足の感触が消失した。
光も音も、衝撃も。
常人以上に感度を高めていた俺の感覚器官がそれ以降、いったいどんな感覚を何を捉えていたのか、全く何も覚えていない。
「兄貴ぃぃいいいいいいいいいいいいいいい!」
「――紅ぃっ!」
けれど間違いなく、あの時だった。
俺の名を呼ぶ大事な何かに手を伸ばし、決して離すまいとその手を取った、あの時に。
そう。恐らくはあの時に、俺達はこの世界を旅立ったのだ。
「……駄目か」
ふう、と漏らした息が白い大気に溶けていく。
もしため息に味があるならば、それは苦く不快なものなのだろう。
きっと人の肉体はその味を知っていて、だから早く外に吐き出したがるのだ。
≪ザザッ、ザザザザザザザザザザ――ガッガガッガ――≫
≪ザザザザッザザザザザザザザザ―≫
≪ザッ、ザザザザザザザザ――ガッガ―――≫
≪ザザザザッザザザザザザザザザ―≫
だとすれば、吐き出された大気の方もこんな不味いものをよくも、と抗議する気持ちがあるのかもしれない。
だからこそこんなにも厚い化粧を剥ごうとせず、真っ白な厚塗りの体で俺達の視線を阻んでいるのだろう。
しっとりと水を含んだ真っ白い大気に包まれ、雲の中の心地でそんなことを思う。
ならばせめて、この喧しさだけでもどうにかしてやらなければ。
濡れた黒の大岩に腰を下ろしたまま、俺は眼前の喧しい機械達に指を伸ばす。
露で濡れた小さな機械に指を滑らせ、電源を落としていく。
≪ザザザザッザザザザザザザザザ……ザザザッガッ――ピ――ッ≫
≪ザザザッザザザザ――ピ――≫
≪ザザザザッ――ピ――ッ≫
≪ザッ……ピー≫
カチ、カチ、カチと順々に機器を黙らせていき、騒音が途絶えた。
これでここはただの白い空間だ。
静寂が似合う、真っ白い空間。
「交信機器の類は残らず不通か。……しかし、まさか電波の一切を拾えないとは思わなかった」
先程電源を落とした機器は通信機、傍受機、検知器、その他雑多な観測機能を内包した観測装置だ。
いずれも、何の反応も示さない。
雑音はおろか、不可視の電波すら存在しないここは。いったいどれだけ田舎の地なのだろう。
膝に下ろした背負い袋の口を開けながら、上下左右白に包まれた景色の向こうをにらみつける。
電源を切ったばかりの機器を袋の背負い袋の所定ポケットに滑り込ませ、しっかりと口を閉じるまでに景色に変化が起こることはなかった。
この碌に身動きの取れない環境下、唯一期待できた交信手段さえも無力であると知れた。
こうなった今、目の前の白い霧はこの上なく深刻な目隠しだ。
通常装備のトランシーバから私物のPDA。そして虎の子の|送受信機能突き仕込み眼鏡までも。
それら、持ちうる全ての携帯端末が用をなさない現実。
孤立。
その一単語が今の俺達の状況をよく表していた。
再度ため息がこぼれる。
頑丈さと軽さが自慢のはずの自分の眼鏡がやけに重ったるく感じられ、取り外したそれを膝に置いた。
夏の陽気で湧き出た汗を拭うべく、胸元の小布に手を伸ばす。
吸水性は良いが無地で洒落っ気と飾り気の欠けた、機能性だけに拘ったような灰白のタオル。
『ありゃりゃ? おーい。ため息なんてついちゃってどしたの薫っちゃん? ため息をすると幸せが逃げてっちゃうからさ、あんまりハァ~、なんてやっちゃ駄目なんだぞ~? 体がどうでも、心は常に頑健でなきゃね! ……あ、それとももしかして、もしかしなくても、その溜息は僕へのアピールだったり? ひょっとして君、僕に慰めて貰いたがってる? むふふふ。なんだなんだ、そうならそうと最初から言っておけばいいのに、うひひひひひひ。いいよ~薫っちゃんがそこまで言うなら。一肌脱ごうじゃないか! 男同士でも、僕はまったく構わな……って痛い痛い痛い! ごめん紅ちゃん、僕が悪かったから! ただの冗談だから! 僕は普っ通に女の子が好きだから! お兄さん取ったりしないからーっ!』
顔を拭きながら休憩していると、ふと知り合いの古い言葉が記憶の海から浮上してきた。
何で思い出したかと言えば、使った小布がその友人からのプレゼントだったからだと思い至る。汗で湿った小布をポケットに戻すと、言われた際の情景がはっきり頭に浮かんできた。
他ならぬその友人の失態に関する処理で忙殺されていた時の話で、俺の邪魔をするかのように絡んで来るそいつに聞こえよがしな溜息を吐いたのだったか。
聞いた当時は適当に流してしまった言葉だ。
だが、成る程。今ならそれなりの含蓄を認めてやっても良いかもしれない。
心を頑健に。身体がどうでも。状況がどうでも。
それはとても大事なことのように思えた。
大きく伸びをして息を吸い込むと、清浄な空気が肺に流れ込んで来た。
夏の陽気で温まった、生命の息吹を感じる空気だった。
気なしか周囲の光景さえ色づき始めたように思え、小さく笑みが漏れる。
深呼吸一つで気分転換とは、俺の頭は随分単純なつくりであるらしい。
「お、確認終わったのか?」
と、俺の背後から声が飛んできた。
がさりがさりと、草地を踏みながら声の主がこちらにやって来る。
その声は、俺にはとても馴染み深い、良く聞き慣れたものだった。
低音だが通りの良い、聴いていて安心を覚える声。柔らかさと言うには少し違う、瑞々(みずみず)しさを感じさせる、綺麗な声だ。
振り返り、そこにいる良く見知った顔と目を合わせる。
意志の強さを伺わせるくっきり開いた両の瞳が大岩に座る俺の姿を映していた。
急いで駆けてきたためか、少しだけ息が荒い。
首元まで切りそろえられた短い黒髪が、真白い霧の中でしっかりと存在感を放ちながら彼女の肩を撥ねている。
吹き込んで来た風に巻かれ、汗に濡れたその短髪がパタパタと広がった。いつも着けている赤の髪留めを今は外しているらしい。
「ああ。通信機なら全部確認した。そっちはどうだ、周囲の様子は何か分かったか?」
「あ~、確認できたのは木に草に虫に小動物。要はこの辺は森だ森。人のいねえ、普通の森。どうもこの辺一帯ぜんぶ森林地帯っぽいな」
「危険度はどれくらいと見積もる?」
「害獣が近くに居るかもって考えるなら下の上ってとこじゃねえかな。ここがどっかのアングラ組織の資金源になってる違法栽培植物畑とかじゃなけりゃだけど」
そんときゃ中の中から中の上かな、などと言いつつ少女がちらと後ろに目を向ける。
が、それはないだろうと思い直したか、またこちらに水を向けてきた。
「で、そっちはどうなんだよ?」
「通信機器は全滅だ。故障じゃあないから、純粋に電波を拾えていないようだ。隊の人間なら全員持っているはずの電子認識票の反応も調べてみたんだが、俺たち以外のものは見当たらない」
「あ~、てことは、今の状況は兄貴のさっきの予想通りってことで……つまりあたしらは孤立状態ってことか」
「どうもそのようだ」
溜息は吐かない。だが、首を横に振る程度は許して欲しい。
「まったく、隊長も副隊長も纏めて本隊から切り離されるとか、どんなふざけた間抜け話だよ。……で? そんな間抜けな隊の隊長様は今どんな面して、どんなことを考えてらっしゃるんですか? なあ、隊長?」
頭一つ分下から突き上げるようなじっとりとした視線を向けて来る少女――妹の紅に、俺は苦笑を返した。
いや、苦笑しか返せないというべきか。
「大体、兄貴は適当が過ぎんだよ。実働部隊の隊長経験だってそろそろ3年――いや、もっとか? くらいだってのに、未だに部下より前に出ようとするし。や、兄貴の力は斥候向きだし、能力がねえって言ってるつもりもないけどよ。今回だって――」
くどくどと小言を並べ立てる紅だが、その言葉の殆どは俺をこき下ろすため発しているのではなく、心配から発しているのだということは分かっている。
一見乱暴なその口調に惑わされる者もいるらしいが、俺に言わせれば紅の言葉は多くが優しさでできている。
聴いていて不快に思う事は無い。
「って、いつまでジロジロあたしのこと見てんだよ。あたしを見てても、今の状況はどうにもなんねえぞ。あたしの体にはこの辺の地図なんて載ってねえんだからな?」
地図か。
地図と言えば俺は紅の布団に世界地図が載っていた時代を知っていたりする。
例え今この場にその布団が召喚されたとしても何一つ問題の解決の助けにはならないだろうから至極どうでも良い話なのだが。
「大丈夫だ。状況はあまり良くないが情報は揃った。直ぐに行動方針を決めよう」
部下を安心させるべき上官として、或いは妹を守るべき兄として、言うべき言葉を告げる。
それを受け、どこかほっとした風の紅が、右手をひらひらさせて応じてきた。
「おう。さっさと状況打破の案を考えて指示をくれよ。兄貴が指示しねえと、あたしだって何もできねえんだ」
目の前の少女は俺の妹であり、同時に部下でもある。
そんな少女に安心を与えられることに喜びを感じながら、俺は状況整理にかかった。
さて、今一度整理してみよう。
現時点で俺達が把握しているのは二つの事実だ。
事実その1は、俺達は任務中になんらかの事象に見舞われたということ。
事実その2は、俺達二人が現在この場所、まったく未知の地に飛ばされたということ。
事実1についてだが、あの紫の「何か」が自然現象とは流石に思えない。
あの事象、あるいはあの事象を起こした何者かが俺達の敵性存在である可能性は……現状では判断がつかないか。
しかし、現時点でその原因や元凶をどうにかする必要性は薄い。
というより、もっと先にやらなければならないことがある。
より緊急性が高く、大事なのは事実2の方だ。
現在の「仲間から孤立無援、所在不明の場にいる状態」からは絶対に脱却しなければならない。
可能ならば、中途離脱してしまった任務の方もどうにかしたいが、優先度は下がる。
仮にも隊の部下を預かる身としては無責任な言葉だが、仕方あるまい。
不幸中の幸いといべきか、この場所は俺達にとってそこまで危険な場所ではない。
少なくともすぐ近くには危険な猛獣も、頭のおかしいテロリストもいないようだから。
「お、霧がそこそこ晴れてきたみたいだぜ」
そう。この環境は非常に良好と言えた。
立ち上がった紅と俺の周りを包むのは、雑音の少ない自然の空気。
耳に届くのは硬い岩にぶつかる激流の音、微かに香るのは湿った草花と土の匂い。
薄まった霧の奥に浮かびあがってきた風景は白い岩場、緑の森、そして透明な川の白い飛沫。
俺達が今いるのは切り立った地面に突き出したテーブル大の岩の上だった。
その足元、15mほど下方には、岩肌を削りながら飛沫を上げ、ごうごうと音を立てて河川が流れる。
俺達のすぐ背後には、緑の色彩に溢れた森が深く広がっている。木々の幹は真っ直ぐ天に向けて伸び、広がる枝は多くの葉を抱えていた。今にも野生の鹿か狸でも飛び出て来そうな、穏やかな森。
人の争いとは無縁の、平和な山の中の景色だ。
「兄貴?」
川音が聞こえる一方で、虫の鳴き声などは聞こえない。霧に包まれていた先ほどと同じ、静かな世界。
夏という今の季節と今の高気温を考えれば、珍しい事態だ。
この地域にセミは生息していないのだろうか?
小さな疑問を抱いた俺は岩の上から身を躍らせ、草と土で覆われた柔らかな地面に着地した。
覆うものの無い土と豊かな草木の香りが鼻腔いっぱいに広がる。地の上を這う蟻の行列は前の森の奥へと続き、日差しの届く地の上には緑の草が思い思いに繁っていた。
久々に感じる草木と土の香りは、幼いころ紅と二人で山登りに行ったあの時吸ったものと同じものだ。
「兄貴、置いてくなってば」
俺の背後にずしゃんと乱暴に着地してきた紅の気配を感じながら、今度は天を見上げてみる。
霧に埋もれる青空の真ん中で輝く太陽はちょうど南中を迎えていた。
木々の隙間を縫い、強烈な日差しを浴びせかけてくる。
「兄貴ってば……。はあ、にしても、こりゃまた随分暑いな。」
霧が晴れた今、その日差しを遮るものは無い。
紅もその暑さに辟易したのだろう。装備品の戦闘用ジャケットの留め具をパチリパチリと解放していき、両手で裾をぐっと掴んで引き上げる。
「ふいー、少しは楽になったかな」
ショートの濡れ髪をうっとおしそうに持ち上げながら頭をかき上げる。
掌で汗をぬぐいとるつもりらしい。
ずぼらな仕草のようだが、紅がやると不思議と様になる。
紅に触発され、俺もまた眼鏡を外し、顔の汗を拭った。
体の汗も気になるところだが、『万一の事態』を考えると、身を包む分厚いジャケットを脱ぐ訳にはいかない。
このジャケットは熊の爪も対物ライフルの弾丸も通さない特別性。それを「俺達」が着こむことで、重装戦車にも匹敵する防御力を得られる代物だ
南中した太陽の日差しが俺の肌を焼くのには確かに閉口する、が、……、……?
と、そこで気付いた。
南中。そう、太陽は南の空高くで、燦然と輝いている。
それはどう考えても「おかしいこと」だった。
「紅。おまえの腕時計を見せてくれ」
「あん? いきなり何だよ? 腕時計なら兄貴も持ってんだろうが」
「いいから、見せてみろ」
「ちょっ。おい、兄貴。いきなりどうしたんだよ!」
胸元を手団扇でパタパタと扇いでいた紅の左腕を掴み、ぐいと胸元まで引き寄せた。突然掴まれ、引き寄せられた紅の困惑が伝わってくるが、説明は後だ。
俺の目当ては、紅の左手首に装着された時計だった。
素早く目を通した文字盤が指し示す時刻は、PM5:57。
自分のアナログ時計と見比べるが、そちらの針も同じくPM5:57を示している。
「ああもう! いい加減離せって。暑苦しいっつの!」
無理矢理体を密着させられていた紅が、体を大きくゆすった。
俺の腕に囚われていた腕をするりと引き抜き、立ち上がって身を翻す。
落差15mはあるだろう崖の間近で、紅はくるりと宙返りをして見せた。
一瞬、そのまま渓谷に落ちるのではと肝を冷やしたが、紅は危なげなく崖端の岩場に足を下ろし、ぶすっと口を尖らせる。
さすがの身のこなし。戦闘徽章S級は伊達ではないらしい。
「紅」
「何だよ(時計が目当てなら一言言えよ。っつーか、やっぱ兄貴は普通の距離感って奴に疎すぎんだろ。やっぱASPに籠りすぎで一般常識が欠けてんじゃねーのか? やっぱもっと無理矢理にでも学校行く日をとっとくとかさ……)」
紅が小声で呟いている文句らしきものの内容も気になったが、今はそれよりも大事なことがある。
俺は、つい先ほど発見したばかりの事実を伝えることにした。
簡潔な一言で。
「どうやらここは日本じゃないらしい」
「……は?」
「この風景が幻覚でないことは紅もさっき確認したな? 薬物、異能、催眠術。それらが俺の体に作用している様子は一切無いことも確認済みだ。ならば、ここは現実の場所で間違いない。そして、それ故にここは日本ではありえない。作戦開始直前、時計の時刻は覚えているか?」
あ、と紅が気づいた風に時計に目をやった。
至極当たり前の話だが、もしここが日本であるなら天頂に差し掛かった太陽の位置からして今は昼時のはず。
そしてそれは、時計が示す時刻と矛盾している。
もっと早く気付いて然るべきだった。
作戦開始まで窓の無い車内で長く待機していたとはいえ、時計を確認する機会は幾度もあった。
俺も紅も海外渡航の経験は無いが、時刻と風景の差異に気づけば小学生にも分かりそうなことだろうに。
自分のうっかりさを苦々しく思いながら、地に伸びる俺の影に目を落とす。
影の長さの変化等をじっくり観察すれば、この場の経度が割り出せるかもしれない。
恐らく、東経139度から大きく離れた経度が。
「兄貴、一ついいか?」
神妙な顔をした紅の挙手を受け、俺は脳内で進めていた測位法に必要な道具のリストアップを中断した。
「何だ?」
「いや、ここが日本じゃねえってのは分かったんだけどよ。どうしてそんなことが起こったんだ? 敵んとこに空間系の能力者なんていなかっただろ? それに、どんな大層な空間系能力者でも、事前準備なしで人二人を数百kmも飛ばせるとは思えねえ。第一、損だけの力が案なら敵の排除は空間切断なり空間歪曲なりを使った方がよっぽど簡単だろ」
「……確かにそうだ」
生物の長距離転移が可能な奴が敵にいたなら、俺達をビルごと真っ二つにするなり心臓を直接抉り出すなり、いくらでも有効な攻撃手段はあるだろう。後者はまあ、俺たち相手には難しかったとしても、相手を周りの空間ごと数km上空に転移させ、落下死させるなどというのは空間系能力者のメジャーな攻撃方法だ。
だとすると俺達を殺さなかったというのはどういう理屈だろうか。
そして、そのような存在が敵にいるなら隊の仲間達は果たして――
「ま、もし伏兵としてそんな奴が相手んとこにいたとしても、残った戦闘員だけで何とかするだろ。隊長や戦友とはぐれておろおろするような馬鹿はあたしらの隊にはいねえしな。案外、お目付け役がいなくなって無駄にハッスルしてるかもだぜ。敵の方が心配になっちまうぜ」
俺が思考の海に沈み込もうとする気配を感じたのか、紅は、打って変わった明るい声でそんなことを言い出した。
「まったくだ。敵には同情する。今頃、千本ノックの的になるなり、巨大蜘蛛の下敷きになって身を震わしている頃かもしれないな」
「違いねえ。そういや、今回持ってきた"試作兵器"ってなんだっけか? この前の『飛び出る絵本』は個人的には好きだったぜ」
「今回も俺が預かっている。用途があまりに局所的過ぎて今回の任務には向いてなさそうだったが、あいつは『それでも薫君なら上手く使ってくれるよね?』だと。無茶が過ぎる」
「つまりいつも通りってことか」
「あいつにも困ったものだ」
物騒な会話だったが、おかげで場の雰囲気が少し和らいだ。
気遣ってくれた紅に笑みを返し、俺は少し落ち着いた気持ちで状況の分析に戻る。
確かに、俺達をこんな場所――日本の外に無理やり飛ばせる存在など、それこそ空間系の能力者以外に思いつかないが、それでは説明がつかない点がいくつもあるのも事実だ。
俺達の異能は、相手に効果を及ぼすものにせよ、自身に効果を及ぼすものにせよ、その発動した対象に独特の気配というか、肌に感じる違和感を覚えさせるのだが、今回はそれが無かった。
ならば能力持ちが作成した道具の影響か、とも思ったが、あの手の作成能力はどれも制限が大きすぎてこんな大層なものは作れないはずだ。
腕を組んで思索を続けるが、答えは出ない。
息を吐き、顔を上げる。
「まあ、ともかくだ。答えの出ない問題にいつまでもかまけていても仕方ない。今は状況の分析より、状況の解決が重要だろう。まず俺達がすべきことはASP本部と連絡を取ることになるな」
ASP――俺や紅といった異能者達を保護し、同時にその者たちを訓練させて異能犯罪者達に対処させている日本政府の秘密組織。
今から10年前、突如「日本だけ」に出現し始めた異能者達に、世界は大いなる混乱の渦に叩きこまれた。
日本国内には一時、全世界から派遣された諜報員で溢れかえり、霞が関の警備は戦時下かと見まごうほどの厳戒態勢となった。
そしてその混乱状態は、一人の催眠系異能力者を中心とした一団が情報統制、情報管理、情報操作を行うことで日本を沈静化せしめるまで続いたのだ。
その一団はその成果と能力を武器に交渉を進め、対異能者の活動を超法規的に行う権利を日本政府からもぎ取った。その能力者こそ現ASP本部長にして、俺や紅の上司にあたる男、「夢道栄一郎」。
そして全ての始まりともいえるその一団の現在の姿こそ、正式名称「日本防衛省特定病理問題特別対策部」、略称"ASP"。書類上存在しない防衛省部署である。
異能力者の組織だからASP。素直にESPとならないあたりが、Japanese English単語らしいと言えばらしい感じではある。
元々仮の通称であり、もっとクールな名前が良いと主張した構成員達が変名活動を行ったこともあるのだが、「秘密組織の名称変更」に伴う諸々の雑事の煩雑さを理由に、バッサリと一蹴されてしまった。
秘密組織の名称変更を新聞や公式HPに載せて告知する、なんて訳にもいかないからな、しょうがない。
「連絡を取るのは良いけどよ、方法はどうすんだ。連絡手段は残ってねえんだろ?」
「まずは、人里を見つける。人に会えれば、日本との通信手段を手に入れる目途も立つだろうからな」
千里の道も万里の道も、始めるのはまず一歩からだ。
人里に国際電話でもあれば問題は即座に解決だし、そのようなものが無くとも、そういったものがある場所への行き方なり連絡手段が見つかればそれでいい。
「外国かもしれねえんだろ? 言語が通じなかったら?」
「その時は、その場で学ぶまでだ」
俺ならばそれが可能だ。
もっとも、言語を学ぶためには最低限相手方に嫌われていない状態でなければ駄目だろうが。
接触相手が人食い民族ではないことを神に祈っておこう。
「OK。んじゃ、方針も決まったことだし出発しようぜ。ほら、荷物よこしな」
休憩などいらぬとばかり勢いよく立ち上がった紅が良い笑顔でこちらに腕を伸ばしてきた。
荷物を放ってやると、流れるような仕草で背中に回して背負い込んだ。
俺も紅も元より大荷物を抱えていた訳ではないが、最低限必要なものをポケットに移動させた他は、全て紅に任せた形になる。
本来であれば男女が逆の立場だろうが、俺達二人に関して言えばこれで間違っていない。
階級的にも、そして能力的にも。
俺の方から荷物を持つと言い出しても固辞されるだけだ。
「よし、出発するぞ。しばらくは川沿いに進み、そのまま下流に向かう。運が良ければどこかで集落か、少なくとも人の生活の痕跡にぶつかるだろう。長旅の可能性も鑑みて水の補給も行う。その他の指示は歩きながら個別に出していく、良いか?」
「アイアイサー!」
額に手を当てて元気に応じた紅が歩みだし、俺もその後に続いた。
いつの間にか、白い霧はすっかり晴れてきていた。
河川に林、そしてこの温暖な気候を鑑みるに、少なくとも当分飢え死にの心配はないだろう。差し当たっての問題は寝床の確保か。
今は大丈夫だが、雨の備えも早めに用意しなければならない。
山の天気は変わりやすい。今が夏の陽気だとはいえ、冷たい雨に打たれて体を冷やし、風邪でも引いたら洒落ではすまない。
医者も無い、薬も碌に備えていない今の俺達では命の危険だってあり得るのだ。
ASPの突入装備に折り畳み傘やレインコートは含まれていないのが悔やまれる。まあ、小学生の遠足荷物のような装備の携行を義務付ける特殊部隊は俺とて嫌だが。
そんなことを考えていた俺も、恐らくは紅もこの時はまだ、何も気づいていなかった。何も知らなかった。
俺たちが、激しい銃撃戦の行われていた日本のテロリスト占拠ビルから、いったいどこまで飛ばされていたのか。
そもそも誰が、どんな意図で俺達を呼んだのか。
そして、この地で俺達を待ち受ける運命が如何なるものであるのかも。
この時はまだ、何も知らなかった。
二話は夜に投稿
2014.3.27追記
感想、批評、誤字指摘等お待ちしています。
2015.4.11
まえがき追加。
2015.10.27