物語のはじまり
「良かったね、しーちゃん」
気がつけば巴に仕えることになり、とりあえず落ち着きを取り戻そうと白猫が部屋を出たところへ、こっそり立ち聞きしていた拓馬が声をかける。
「……流された感じもするが……」
「用心深いしーちゃんがそんなわけないでしょ。照れなくていいよ」
にこやかな拓馬の横を通り抜け、白猫は草履を履いて庭に出る。
「……あのね、しーちゃん。俺がしーちゃんの変装を見抜ける理由なんだけど……」
白猫は後を追ってくる拓馬を振り返った。
忍びの癖が理由だと思っていたが、違うのだろうか?
「旭川殿が言ってた“目”だよ。しーちゃん、寂しそうな目をしてるんだよ」
「……俺はそんなに惨めな顔をしているのか?」
「ちーがーう!雨の中捨てられた仔猫みたいな感じ!守ってあげたくなる可愛さ!……あ、待って!ちゃかしてないから!」
白猫が庭に転がっていた石を拾うので、拓馬は慌てて付け加えた。
「ともかく、しーちゃんを受け入れてくれる人ができて、俺は嬉しいよ」
「……まあ、とりあえずは仕えるが……どうなるか……」
「ぐだぐだ言わない!ほら、ご主人様が待ってるよ!」
拓馬は白猫の肩を掴むと、縁側からこちらを伺っている巴の方へ向きを変える。白猫は拓馬に押し出され、彼女の前に立つ。
「話はいいのか?」
「ええ、まあ……あなたはお帰りですか?」
「ああ、長く城を空けていたからな。いい加減戻らねば、じいがうるさい。お前は後からゆっくり来るといい」
そう言って巴は踵をかえそうてして、ぴたりと動きを止めた。
「そういえば……名は何と言う?」
「は?」
白猫に向き直った巴は改めて尋ねる。
「お前の名前だ。“白猫”は通り名だろう。親に貰った名前があるだろう?」
そんなことを聞かれるとは思いもよらなかった白猫は面を食らう。忍びとして仕えるのなら、本名を教える必要はないのだが、白猫は意外な問いつい反射的に素直に答えていた。
「……紫央」
「紫央、か……。待っているぞ、紫央」
幼い頃より、愛称や見た目でつけられたそのあだ名で呼ばれ、久しぶりに呼ばれたその響きに、白猫は胸が熱くなるのを感じた。
巴が立ち去った後、背後から拓馬に飛び付かれ、蹴り飛ばしていると、常光がやって来た。
「お前も旭川に行くのか」
「……ということは、常光殿も?」
「ああ。今回の騒動の罰として、出家して旭川の城近くの寺に入ることになった。有事の際には姫を守れ、と……いわば密偵だな」
「密偵が密偵であることをバラすなよ」
拓馬は明るく常光にツッコミを入れる。常光を捕らえた時の彼は本気で怒りを露にしていたが、誤解が解けて再び和倉に忠誠を誓ってからの二人の関係は良好のようだ。
「……もう一人の寂しそうな目の彼も、理解してくれる誰かに会えたらいいけど……」
和倉での任務を終え、引き上げる前に日景は主の元へ挨拶へ訪れた。鈴久も和倉で用が済んだので国に帰るのだが、忍びが堂々と傍について行くわけにはいかないので、帰りの道中は少し離れて護衛することになるからだ。
「お疲れ様、日景」
「鈴様……ご無事で何よりです」
日景は主の元気そうな姿に、心から安堵する。何せ、日沖の中では不穏因子がはびこっているのだから……。鈴久の命令なので従うが、本当は傍を離れることは気が進まない。
「大袈裟だよ」
「いいえ。この日景、鈴様に何かあれば……」
孤独な自分を救ってくれた唯一の光。日景にとって彼はただの雇い主ではないのだ。
「……もう一人の寂しそうな目をした仔猫は無事拾ってもらえたようだね。会えなくて残念」
「旭川は同盟国。これから会う機会はいくらでもありますよ」
「そうだね……」
鈴久は客室から見える桜に目をやる。
「日沖か旭川……はたまた予想外の国か。これから誰が天下を統一するんだろうね」
そう言った鈴久楽しそうに笑みを浮かべた。
後日、一人の忍びが旭川に加わり、旭川は更なる力を得た。
後の世に語られる女武将と忍びの物語は、まだ始まったばかりである。




