花を贈る騎士と、愛を知らない歌姫
カイデンの歌姫、という名前と引き換えに、この世のありとあらゆるものを差し出すと言われてきた。
宝石、ドレス、屋敷、領地。
中には、私が望むなら劇場を一つ建ててやる、などと言った男もいた。
ありがたいことに、私にはそれらを必要としない程度の収入がある。
自分で稼いだお金で好きな服を買い、好きな食事を食べ、好きな場所へ行く。
舞台に立てば、何千人もの観客が私の歌に耳を傾ける。
名前を呼ばれ、拍手を浴び、惜しみない称賛を受ける。
人は私のことを天才と呼ぶ。
確かに私の歌は素晴らしいし、生まれ持った才能のおかげだ。
だけど、それに負けないくらい努力だってしてきた。生まれ持った才能だけでここまで来たなどと思われるのは心外である。
「……はぁ」
「どうされました、アイリーン様」
「いいえ、なんでもないわ」
ハンナが、いかにも何か言いたげな顔でこちらを見ている。
……やめてほしい。
そんな顔をされたら、余計なことを考えてしまうではないか。
ジークハルト・エデン。
エデン家の次男にして、王宮第一騎士団に所属する騎士。
彼が私を訪ねてくるようになって、もう三年になる。
初めの一年は、ただの観客だった。
次の一年は、毎週決まった曜日に花を持ってくる、少々変わった観客だった。
そしてこの二年間、彼は私に花を贈り続けている。
……いや、正確には二年と少し。
花を持ってきて、私の歌を褒めて、帰る。
ただ、それだけ。
それだけだったはずなのに、
そのいつものルーティンを壊し、食事に誘われたのはつい先日のことだ。
「アイリーン様」
「なに?」
「お食事のお約束、いつになさるんですか?」
「……ハンナ」
「はい!」
「あなた、本当に遠慮がなくなったわね」
「アイリーン様にお仕えして八年目ですから!」
元気よく返された。
そういうところは嫌いではない。
「そもそも、まだお約束の日取りも決まっていないのよ。彼にもお仕事があるでしょうし、こちらから急かすものでもないでしょう?」
「そうですけどぉ……」
「それに、私だって暇ではないの」
「来月から二ヶ月間、お休みですよね?」
「…………」
「弟君と妹君のお勉強を見て差し上げるんですよね?」
「…………ハンナ」
「はい!」
「あなた、私に喧嘩を売っているのかしら?」
「まさか!」
にっこりと笑う侍女を見て、私は深く息を吐いた。
まったく。
周囲の人間というのは、どうしてこうも他人の恋愛が好きなのだろう。
私とジークハルト様の間には、何もない。
彼は私の舞台を観に来る。
私は彼に花のお礼を言う。
それだけの関係だ。
……それなのに。
「お食事、楽しみですね」
「……そうね」
口にした言葉が、自分でも驚くほど素直に出た。
ハンナが目を見開く。
私は見なかったことにして、鏡の前で髪を整えた。
***
約束の日は、火曜日だった。
劇場の公演が終わるのを待って、ジークハルト様が楽屋にやってきた。
いつも通り、黒い騎士服。
いつも通り、背筋の伸びた姿勢。
そして、いつも通り、少しばかり強張った表情。
ただし、いつもと違うのは、その手に花束がないこと。
「こんばんは、アイリーン様」
「こんばんは、ジークハルト様。お待たせしてしまったかしら?」
「いえ。」
「…そう。では、参りましょうか」
彼が差し出した腕に、そっと手を添える。
その瞬間。
ぴたり、と彼の動きが止まった。
「……ジークハルト様?」
「……失礼しました」
「?」
「行きましょう」
……何かしら。
歩き始めた彼の耳が、ほんのりと赤い。
まさか。
いや、まさかね。
これまで、数え切れないほどの男性と食事をしてきた。
私の手を取ることに緊張する男もいれば、最初から腰に手を回そうとする男もいた。
けれど、隣を歩くこの人は。
私が腕に手を添えただけで、固まってしまった。
……本当に、変な人。
「今夜は、どちらへ?」
「予約をしてあります」
「まあ。楽しみですわ」
「……はい」
会話が続かない。
いや、続かないというより、彼が必要最低限のことしか話さないのだ。
これは、私が話題を提供してあげるべきなのかしら。
「ジークハルト様は、普段どのようなお食事を?」
「何でも食べます」
「好き嫌いは?」
「ありません」
「甘いものはお好き?」
「……はい」
「あら、意外」
「そうですか?」
「ええ。甘いものがお好きな男性は、もっといらっしゃるけれど。あなたは、あまりそういう印象がなかったから」
「……よく、兄に買ってきてもらいます」
「お兄様に?」
「実家の菓子店への注文を、兄が担当しているので」
「まあ」
思わず笑ってしまった。
名家エデン家の次男。
騎士団に所属する、屈強な男性。
そんな彼が、兄に菓子を買ってきてもらっている。
「ふふっ……ごめんなさい。なんだか、可愛らしいお話ね」
「…………」
「あら、怒ってしまった?」
「いえ」
「本当に?」
「……可愛らしい、ですか」
「ええ」
彼は黙り込んだ。
その横顔は、どこか落ち着かない様子だ。
私は少しだけ、彼のことを知れたような気がした。
***
連れてこられたのは、劇場から馬車で二十分ほど離れた場所にある、こぢんまりとしたレストランだった。
高級店ではあるものの、過度な装飾はない。
個室に通され、窓際の席へ案内される。
「素敵なお店ね」
「……よかったです」
「ジークハルト様のお気に入り?」
「いえ。母に教えてもらいました」
「あら、お母様に」
「女性を食事に誘うなら、相手が落ち着ける店を選べと」
「…………」
「……母は、私がこういうことに慣れていないのを知っていますので」
…なるほど。
なるほど、なるほど。
どうやら、彼の家族はこのお誘いについて、すでに事情をよく把握しているらしい。
それどころか、母親から助言を受けてまで私を誘ってくれたということか。
「ジークハルト様」
「はい」
「ひとつ、伺っても?」
「何でしょう」
「あなたは、どうして私をお食事に誘ってくださったの?」
彼の手が止まった。
給仕がワインを注ぎ、静かに退出していく。
部屋に二人きりになると、彼はしばらく黙っていた。
私は急かさず、返事を待った。
やがて彼は、まっすぐに私を見た。
「……あなたと、もっと話がしたかったからです」
「話?」
「はい」
「……それだけ?」
「それだけでは、いけませんか」
思わず目を瞬かせた。
いけない、なんてことはない。
むしろ、今までの男たちと比べれば、ずいぶんと控えめな理由である。
彼らは私と話がしたいのではない。
私の隣に座りたいのだ。
私を妻にしたいのだ。
あるいは、カイデンの歌姫を手に入れた男として、周囲に自慢したいのだ。
それが悪いとは言わない。
私はそういう世界で生きてきた。
自分の価値がどこにあるのか、嫌というほど教えられてきた。
だからこそ。
「……変わった方ね、あなた」
「よく言われます」
「ふふっ」
私はグラスを持ち上げた。
「では、今夜はたくさんお話ししましょう?」
「……はい」
彼が、ほんの少しだけ笑った。
本当に、ほんの少し。
けれどその笑顔は、舞台の上から見るどんな宝石よりも、ずっと印象に残った。
***
食事は、思いのほか楽しかった。
ジークハルト様は饒舌ではない。
こちらが尋ねれば答えてくれるが、自分から話題を広げることはほとんどない。
それでも、私が話している間は、決して視線を逸らさなかった。
相槌も、決して適当ではない。
私が劇場の話をすれば、以前観た演目について質問してくれる。
私が弟と妹の話をすれば、二人は何歳なのか、どのような勉強をしているのかと尋ねてくる。
「弟が十五歳で、妹が十三歳なの。二人とも、今は学校に通っているわ」
「……そうですか」
「ええ。弟は歴史が好きみたい。妹は算術が得意なのよ」
「アイリーン様は、勉強を教えられるのですか?」
「…………」
一瞬、言葉に詰まった。
けれど、笑顔は崩さない。
「必要なことは、家庭教師の方にお願いしているわ。私は、舞台の仕事があるもの」
嘘ではない。
ただ、すべてを話したわけではないだけだ。
文字の読み書き。
数字の計算。
私は、まともに教わったことがない。
十歳から酒場がある宿屋で働き、十二歳で舞台に上がった。
私に必要だったのは、歌うことだった。
文字が読めなくても、台本は誰かに読んでもらえばいい。
台詞は、耳で覚えればいい。
楽譜が読めなくても、旋律を聴けばいい。
そうやって、ここまで来た。
誰にも知られないように。
誰にも、馬鹿にされないように。
「……アイリーン様?」
「え?」
「お料理が、冷めてしまいます」
「あら、本当」
私は笑って、ナイフを手に取った。
何を考えていたのだろう。
せっかくの食事なのに。
「……ジークハルト様」
「はい」
「あなたは、どうして騎士になろうと思ったの?」
今度は、私から尋ねた。
彼は少し考えた後、答えた。
「……体を動かすのが好きだったからです」
「まあ」
「兄は勉強が得意で、弟は何でも器用にこなします。私は……その、あまり」
「そうなの?」
「はい」
彼は真面目な顔で頷いた。
「昔から、兄のようになれと言われることが多かったので。自分に向いていることを探したかったのだと思います」
その言葉に、胸の奥が小さく疼いた。
兄と比べられる。
自分に向いていることを探す。
……ああ。
そんなこと、私だって。
「それで、騎士に?」
「はい。第三王子殿下に振り回されているうちに、気づけば騎士団にいました」
「振り回されて?」
「……殿下は、昔から大変お元気な方なので」
言い方が妙に遠回しで、思わず笑ってしまった。
「ふふっ。今でもそうなの?」
「……今でも、です」
彼の眉間に皺が寄る。
どうやら、相当に苦労しているらしい。
「でも、楽しそうね」
そう口にすると、彼は少しだけ目を見開いた。
「……そう、見えますか」
「ええ」
私は頷いた。
「自分で選んだ道なのでしょう?」
彼は、しばらく私を見つめていた。
やがて、静かに頷いた。
「……はい」
その声を聞いて、私はなぜか安心した。
***
帰りの馬車の中。
窓の外を眺めながら、私は今日のことを振り返っていた。
食事は美味しかった。
お店も素敵だった。
会話も、思っていたよりずっと楽しかった。
そして何より。
ジークハルト様は、私に何も求めなかった。
歌ってほしいとも。
特別な演目を見せてほしいとも。
美しいと言ってほしいとも。
ただ、話をしたかったと言った。
それだけだ。
……それだけ、なのに。
「アイリーン様」
「なあに?」
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。とても楽しかったわ」
「……よかったです」
彼は一度口を閉じ、少し迷うように視線を落とした。
「また、お誘いしてもよろしいでしょうか」
「……ええ。もちろん」
そう答えると、彼は明らかにほっとした顔をした。
まるで、大仕事を終えたかのように。
私は思わず、くすりと笑った。
「ジークハルト様」
「はい」
「あなた、もしかして……女性をお食事に誘うのは初めて?」
「…………」
沈黙。
それが答えだった。
「……申し訳ありません」
「どうして謝るの?」
「不慣れなもので」
「ふふっ。いいのよ。私だって、あなたのような方は初めてだもの」
そう。
こんなにも不器用で。
こんなにも真面目で。
こんなにも、私を困らせない男は。
初めてだった。
馬車が止まり、扉が開く。
彼が先に降り、私に手を差し出した。
その手を取る。
今度は、彼の動きは止まらなかった。
「それでは、また」
「ええ。またね、ジークハルト様」
私が家の中に入るのを見届けて、
再度馬車に乗り込む姿が窓から見えた。
……本当に、変な人。
そう思いながら、いつのまにか自分の口角が上がっていることに私は気づかなかった。
*
翌週の火曜日。
公演を終えて楽屋に戻ると、いつもの花束が届いていた。
今日は、白いバラ。
添えられたカードには、短い言葉が書かれている。
『本日の第二幕、特に素晴らしかったです』
私はカードを手に取り、目を細めた。
「……アイリーン様?」
「ねえ、ハンナ」
「はい?」
「これ、何て書いてあるの?」
ハンナが、きょとんとした顔をした。
しまった。
そう思った時には、もう遅かった。
「……え?」
「だから、何て書いてあるのかしら」
ハンナはカードを受け取ると、そこに書かれた文字を読み上げた。
「本日の第二幕、特に素晴らしかったです、ですね」
「そう。ありがとう」
私は何事もなかったように微笑んだ。
けれど、ハンナは私の顔をじっと見つめていた。
「……アイリーン様」
「なに?」
「もしかして」
「……」
「ジークハルト様からのカード、今まで読んでいらっしゃらなかったんですか?」
沈黙。
ハンナの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「え、ええっ!? で、でも、今までずっと、毎週、カードを……!」
「声が大きいわ」
「だって……!」
「ハンナ」
私は静かに彼女を見た。
「お願い。誰にも言わないで」
その声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
ハンナは、はっと口を閉じた。
「……申し訳ありません」
「いいの。あなたが謝ることではないわ」
カードを受け取り、机の引き出しにしまう。
文字が読めない。
そんなこと、今さら驚くような話でもない。
私はそれを隠して、二十年近く生きてきた。
それでも。
「……どうして、でしょうね」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「どうして、こんなことが……」
舞台の台詞なら、何万だって覚えられる。
何千人もの前で歌うことだってできる。
それなのに、たった一行の文字が読めない。
私は、自分の指先を見つめた。
この手で、弟と妹の学費を払っている。
この手で、舞台衣装を選び、観客に手を振る。
この手で、何もかも手に入れてきたつもりだった。
なのに。
「……私、何をしているのかしら」
「アイリーン様」
「大丈夫よ」
私は顔を上げた。
笑顔を作る。
いつも通りの、完璧な笑顔を。
「少し疲れているだけ。明日になれば、忘れるわ」
そう。
忘れればいい。
考えなければいい。
私には、やるべきことがあるのだから。
弟と妹の将来。
劇場の公演。
恋愛などに、うつつを抜かしている場合ではない。
そう自分に言い聞かせた。
けれど。
引き出しの中にしまった白いカードのことを、私はその夜、何度も思い出した。
*
翌週。
ジークハルト様は、いつも通り花を持ってやってきた。
「アイリーン様。本日の公演も素晴らしかったです」
「ありがとう、ジークハルト様」
私は花束を受け取った。
今日の花は、淡いピンクのガーベラ。
「……あの」
「はい?」
「先日は、ありがとうございました」
「先日?」
「お食事です」
「ああ。こちらこそ、楽しい時間をありがとう」
彼は頷いた。
それから、いつものように帰ろうとする。
私は、思わず口を開いた。
「ジークハルト様」
「はい」
「……また、お食事に行きましょう?」
彼の目が、大きく見開かれた。
「……よろしいのですか」
「ええ。あなたさえよければ」
「……!」
ほんの一瞬。
彼の表情が、ぱっと明るくなった。
けれど、すぐにいつもの無表情に戻る。
……戻ったつもりなのだろう。
耳が真っ赤だ。
「……ありがとうございます」
「ふふっ。こちらこそ」
彼が扉を開ける。
その背中を見送りながら、私はふと思った。
もし。
もし、この人が。
私のヒミツを知ったら。
文字が読めないことを。
まともな教育を受けていないことを。
平民で、苗字もなく、家族のために働くしかなかった子どもの頃を。
……それでも、今と同じ目で私を見てくれるのだろうか。
「……アイリーン様?」
ハンナが、心配そうにこちらを見ている。
私は笑った。
「なんでもないわ」
そう。
まだ、何も始まっていない。
始まってもいないのに、怖がるなんて馬鹿げている。
私は歌姫だ。
自分の人生くらい、自分で決められる。
今までだってそうやってきた。
……それなのに。
どうして私は、彼の前でだけ、こんなにも臆病になってしまうのだろう。
初投稿です!
優しいコメントだけお願いします(豆腐メンタルです)




