3:社長との対面
「――お待たせいたしました」
扉が開く音に続いて聞こえた彼の声に、リリィの体が跳ねる。
リリィが恐れた〝社長〟は、リリィが振り向くより早くリリィの前に現れた。
「どうも。ボクが代表取締役社長のノア・アングレカだよ」
「……え?」
当然と言いたげな態度で姿を現した人物に、リリィの目が丸くなる。
イストリア社は世界でただ一体の模造骸骨が所属している会社だ。緊張こそしているものの、どんな人物が現れても驚かない自信があった。
だが、リリィは驚いている。――テーブルの向こうに立つその人物が、リリィと同じ年頃の少年だったから。
照明の光を受けて輝く金糸のような髪と、形が良くぱっちりとしたエメラルドグリーンの目、すっと通った鼻筋、緩やかな弧を描く唇。
ノア・アングレカは人形のような少年だった。外見は極めて中性的で、耳とうなじにかかる程度に伸ばしたショートヘアがよく似合っている。
隣に並ぶがいこつの彼と比べると頭半分ほど背が低いから、身長は百五十センチから百六十センチくらいだろうか。細いというより華奢で、遠目から見れば少女と見間違えてもおかしくはない。スタンドカラーの白いフリルブラウスに瞳と同じ色合いのズボンを合わせているから、なおさら。
「あ、の……」
「何? ……ああ。最初に一つ言っておくけど、ボクは敬語で話さないからね」
リリィの向かい側に腰かけた若き社長・ノアは、いきなり謎の宣言をした。
「キミがボクと同年代くらいだからじゃなくて、起業してからずっとそういうスタンスでやってるんだ。だからキミも敬語じゃなくていいし、僕の態度が気に食わないならキャンセルして帰ってもいいよ」
「いえ……」
そんなことを言われても、社長相手にタメ口は難しい。リリィは〝友達の友達〟相手ですらぎこちなくなってしまうタイプだ。
しかし、いくら社長とはいえ、依頼人にタメ口というのは怒られないのだろうか。
そう思い敬語で訊いてみると、「怒る人も結構いるよ」と想像通りの答えが返ってきた。
「人にもよるけど、四十代・五十代より上のお客さんは結構怒るかな。『子どものくせに生意気な』『客に対してなんだその態度は』『いくつ年上だと思ってるんだ』って。ボクに言わせれば、年上ってだけで敬ってもらえると思ってるほうがおかしいんだけどね。敬語は使わないけど仕事はちゃんとするわけだし。――まあ、実際に仕事するのはエルだけど」
「あはは」
ノアの左側に着席していたがいこつの彼が笑う。
そう言えば、まだ彼の名前を聞いていなかった。
「あの、発話代行人さんの、お名前は……?」
「ああ、失礼しました。自己紹介がまだでしたね。――イストリア社所属の発話代行人、エルトゥス・アサラと申します。どうぞエルとお呼びください」
「エル……さん」
エルトゥス。あまり耳にしない響きの名前だ。アサラという名字も聞いたことがない。
ただ、魔人風の格好をしている彼には似合いの名前のように思えた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。……よかったらエルさんも、敬語を使わないで、話してもらえませんか? あと、さっき言った通り、がいこつの姿でも大丈夫、ですから」
「しかし……」
「別にいいじゃない」
と、ノアが背中を押す。
「エルの礼儀正しさは立派だと思うけど、時と場合によっては堅苦しすぎることもあるんだよ。依頼を受けることになったら色々作業があるんだし、早い段階で打ち解けたほうがやりやすいでしょ。がいこつの姿でもいいって思ってくれてるなら、なおさら。……あ、ロウさんのこと名前で呼んでも大丈夫? ボクのことはノアでいいけど」
「大丈夫、です。エルさんもそう呼んで、ください」
「……じゃあ、リリィさんで」
逡巡ののちにそう答え、彼――エルトゥスはがいこつの姿に戻った。表情を窺うことはできなくなってしまったが、苦笑しているような響きが声にそのまま表れている。
恐らく、エルトゥスとしては敬語で話すほうが楽なのだろう。生真面目という意味合いではリリィと同じタイプに違いない。
悪いことをしたかな。そう思った。
ただ、エルトゥスが敬語を使わないことを喜んでいる自分もいて、リリィは困惑した。出会ったときは大人と同じ扱いをしてもらえることを喜んだのに、一体何故なのだろう?
「――ところで、声やばいね。大丈夫?」
「あ、はいっ。掠れてるだけ、なので……」
考えを巡らせている最中に声をかけられ、リリィは慌てて答えた。声が出にくく掠れているだけで本当に痛みはない。
「そう? じゃあ本題に入ろっか。――キミの依頼は何?」
リリィに向き合ったノアが尋ねる。
その声は先程までとは雰囲気が違っていて、彼の年齢には不釣り合いなくらい大人びた響きを帯びていた。
背筋を伸ばしたリリィは大きく息を吸い、掠れた声で依頼内容を告げる。
「もうすぐ耳が聞こえなくなる、わたしのお兄ちゃん……トード・ロウに、わたしの本当の声を、届けてほしい、です」
表情を変えない二人にそれぞれ視線を向け、リリィは目を伏せる。
視界に映るのは上質そうな木製テーブル。けれど、リリィの脳裏に浮かぶのは、気丈に笑う兄の姿だった。
✦✦
トード・ロウは、リリィにとって最高の「お兄ちゃん」だった。
歳は八つほど離れているが物知りで優しく、エルトゥスとは違うタイプの美しい声を持った、友達全員が羨むような理想の兄。物心ついた頃のリリィは「おおきくなったらおにいちゃんとけっこんする!」と言ってトードをはにかませ、父親を悲しませたものだ。
難しい年頃になった今でも、リリィはトードを慕っていた。流石に「結婚する」とは言わなくなったが、優しい兄に彼女ができる度、子どもじみた嫉妬心と『良き理解者でいたい』という感情の狭間で揺れ動かざるを得なかったくらいだ。
それなのに。
「……お兄ちゃん、突然、病気になったんです。原因と治療法が明らかになってない、進行性の難聴だって、言ってました」
トードの聴力の大半は突然失われた。
発症者数が少なく、原因も、有益な治療法も分かっていない病気に罹って。
「今はまだ、補聴器を使えば、何とか音を拾えるんです。でも……」
「――進行すれば、完全に聴こえなくなる」
「……はい」
そうなってしまえば聴力が戻ることは一生ない。少なくとも、現在の医療技術では。
いずれ聴力を失うと知ってなお、トードは明るく振る舞っていた。随伴症状である酷い眩暈や耳鳴りは少し堪えるけれど、補聴器を使えばまだ音が拾えるからと。
『頼れる兄』として生きてきた時間が長いとはいえ、トードはまだ二十二歳だ。本当は不安で堪らないだろうし、度々起こる眩暈や耳鳴りで心身共にすり減っているのは間違いない。
それなのに、トードは気丈に振る舞い続けている。両親やリリィが嘆くことのないように。
――なんでトードお兄ちゃんなの?
――みんなに好かれるお兄ちゃんなのに、どうして「音」を失わなきゃいけないの?
――どうして……。
何を恨めばいいのか分からないまま、リリィは「何か」を恨み続けた。
だが、担当医師から「このまま症状が進めば二か月と経たないうちに完全に聴力が失われる」と告げられたとき、リリィは恨むのをやめた。
いや――もしかしたら、今でも「何か」を恨んでいるのかもしれない。
それでも。残された時間を無為に消費するよりも、兄のためにできることをしようと考えるようになった。
たとえ、自分にできることがどれだけ些細で頼りないものであったとしても。