5:きっと君が望むから
「……承知いたしました」
申し出に応じたエルトゥスはベッドに腰掛け、ジュリアンとして口を開く。
『ねえ、ローダン。――思い出話、してもいい?』
「……何だよ、改まって」
『んー? 何だか懐かしい気持ちになったんだ。きっと久しぶりに会ったからだね』
足をぶらぶらと揺らすジュリアンは悪戯っぽく笑った。ローダンと出会った頃を思い返しているのか、「懐かしいなあ」と呟く声にはノスタルジックな響きが含まれている。
『ローダンに出会ってまだ二年しか経ってないなんて信じられないよ。もうずっと一緒にいる気がしてた』
「そうだな、俺もそんな気がしてたよ」
『やっぱり? 僕の感覚的には「幼馴染み」って感じなんだよね。……でも、初めて会ったときのローダン、すごくかっこよかったなあ。あんな怖そうな先輩に「後輩相手にダサいことしてんじゃねえ」ってバシッと言うんだもん、僕びっくりしたよ』
「だって本当にダサいだろ。ちょっと体格がいいからって二つも年下の気弱そうな後輩を脅して金巻き上げようだなんてさ。そう思ったらなんか腹立ってきて、黙ってられなかったんだよ」
先輩二人の顔を思い浮かべたローダンが笑う。
ローダンとジュリアンが出会ったのは、暖かな陽の光が春の訪れを告げ始めた二年前の春。その日は一段と暖かく、久しぶりに外で昼食を取ろうと中庭に向かっていたローダンは、ジュリアンが脅されている場面に偶然出くわした。
正直なところ、ジュリアンのことは「確か同級生だった気がする」くらいの認識しかなかった。ローダンが通っている学校は規模が大きく、同じクラスになるかクラブ活動が被るかしなければ話す機会がなかったのだ。
だからというわけではないが、ローダンがジュリアンを助けなければならない理由はどこにもなかった。名字だけ辛うじて知っている、もしかしたら一言くらい話したことがあるかもしれない同級生。いくら良心を持った人間でも、自分が次の標的になる危険を冒してまで親しくもない相手を助けるのは決して簡単なことではない。
何も見なかったことにして通り過ぎることもできた。だが、ローダンはそうしなかった。先輩二人が「ジュリアンの体が小さく後ろ盾がないこと」を理由に恐喝しているのだと知り、無性に腹が立ったからだ。
結論から言うと、ローダンは暴力を振るうことも次の標的になることもなく先輩二人を退けた。彼らは後輩を脅していたにもかかわらず、小心者だったのだ。
『あのときのローダン、本当にかっこよかったよ。……今だから言うけど、あのときの僕、かなり思い悩んでたんだ。先輩に脅されてたのもそうだけど、当時のクラスメイトから執拗な嫌がらせを受けてたし』
「えっ」
突然の告白に、ローダンは目を見開く。
「そんな……どうして言わなかったんだよ」
『言ったらローダンが怒ると思って』
「当たり前だろ!」
「嫌がらせ」と表現すれば聞こえはいいが、その実態は人権侵害や窃盗、暴力沙汰に過ぎない。
つまり、法の下で裁かれて当然の恥ずべき犯罪行為だ。
たとえ嫌がらせしている側が「遊びのつもり」や「ちょっとした憂さ晴らし」だったと釈明しても、決して許されるものではない。――嫌がらせを受けた側に一生癒えることのない傷を与えて人格を歪め、その後の人生をめちゃくちゃにしてしまった責任など取りようがないのだから。
「……暴力、振るわれてたのか?」
『ううん。まあ、奴らの機嫌が悪いときに蹴られることはあったけど――待ってローダン、怒らないで! 蹴られたなんて知ったら僕の代わりに殴りかかるだろうと思って黙ってたんだよ!』
強い憤りに拳を握りしめ、ものすごい剣幕で「そいつらの名前を教えろ」と詰め寄ったローダンを、ジュリアンが必死に宥める。
それでもローダンは憤っていたが、ジュリアンの「だから秘密にしてたのに……」という言葉を聞いて、ようやく我を取り戻した。
『まあ……そういう状態だったからさ。正直言うと、こんな状態で生きてても仕方ないんじゃないかってずっと思ってたんだ。蹴られるのはもちろん嫌だったけど、登校したときに誰も挨拶を返してくれなかったり、僕が何かする度にひそひそされたり、これまで普通に話してたクラスメイトがあからさまに僕を避けるようになったり、授業でペアを作るときに最後まで余っちゃったり……そういう些細なことの積み重ねのほうがつらくてね。こんな人生が続くだけなら自分の手で終わらせようかなって、ずっと思ってた』
「……ジュリアン……」
『でも、やめた。ローダンに出会ったから』
ジュリアンが明るく言う。嬉しそうなその声は、ジュリアンと二人でいるときによく聞いたものだった。
『僕を助けても何の得もないのに、ローダンは僕を助けてくれた。ううん、それだけじゃない。ごはんに誘ってくれて、また脅されるようなことがあったら絶対俺に言えよって言ってくれて、面白いことも気の利いたことも言えない僕の友達になってくれた。……嬉しかった。すごく嬉しかったんだ。それに、僕も君みたいな人になりたいって思った。だからね、ローダン。――あのときから、君のことが好きだったんだよ』
「……マジかよ……」
なんで言わないんだよ。ジュリアンに告白するとき人生で一番緊張したんだぞ。
唇を震わせながら文句をこぼしたローダンに、ジュリアンは照れたように笑いながら「ごめん」と謝った。
『だって、ローダンも僕のことが好きだなんて思いもしなかったから。ローダンは異性愛者だって知ってたし、僕はたくさんいる友達の一人で、運動が全然できないのを見かねて色々教えてくれてるんだって思ってたから。……僕、ネガティブ思考で意気地なしだからさ。せっかくできた友達と生きる喜びを同時に失うなんて絶対嫌だったんだ』
「何だよそれ。狡いだろ……っ」
『うん、ごめんね。……でも、だからこそ、告白されたときは飛び上がりたいくらい嬉しかった』
あれが僕の人生で一番嬉しい出来事だったかも。
どこか晴れ晴れとした声で紡がれた言葉に、ローダンの両眼から涙がこぼれ落ちる。ぼたぼたと止めどなく滴るそれは頬を濡らすだけでは飽き足らず、純白の掛け布団に灰色の染みを作り続けていた。
「ジュリアン、ごめん……! 俺……俺の、せいで……っ」
『どうして謝るの? ローダンは悪いことなんてしてないよ。二年前に終わるはずだった僕の命を救ってくれたんだから』
「でも……っ!」
あのときローダンが適切な練習方法を教えなければ、想いを告げなければ、ジュリアンが死ぬことはなかった。少なくとも、事故で突然命を奪われるようなことはなかったはずだ。
女手一つでジュリアンを育ててきた母親を、こんな形で悲しませることも、きっとなかった。
――全部、俺のせいなのに。
『ローダンのせいじゃない』
と、すぐ隣にいるジュリアンが断言する。何もかも達観したような穏やかな声で。
『僕ね、ローダン。ずっと考えてたんだ。僕たちはどうして出会ったんだろうって』
「……どうして、って……」
『ほら、僕たちの出会い方ってすごく運命的だし、お互い異性愛者なのに惹かれ合って両想いになれるなんて滅多にないことでしょ? だから、僕たちの出会いには必ず意味があるはずだって、ずっと思ってた。僕、ネガティブ思考なのに案外ロマンチストだからね』
ジュリアンが笑い交じりに言う。
「……答えは、見つかったのか……?」
『見つかったよ。ちょっと抽象的だけど』
「じゃあ……教えてくれよ。俺たちの出会いに何の意味があるのか……」
『いいよ。その代わり、否定しないで聞いてね?』
ジュリアンは穏やかな声に悪戯っぽい響きを滲ませ、吐息が当たらない程度の距離を取って囁く。
『僕たちが出会ったのは――お互いの人生に良い影響を与えるため』
「……良い、影響……?」
『そう。ローダンが僕に与えた良い影響は言うまでもないよね。ただ、僕がローダンに与えた良い影響は、まだ具体的じゃないと思う。……どういうふうに言えばいいのかな。今は形が定まってないけど、これから先、いつか必ず、理解できる日が来ると思うんだ。「俺はこの日のためにジュリアンと出会ったんだ」って。――だからね、ローダン』
穏やかな声の中に真摯さと力強さを込め、ジュリアンは告げる。
『見つけて。僕と出会った理由を』
それで、僕に教えてほしい。ジュリアン・プリゼは愛するローダン・ペリアルにどんな良い影響を与えたのかを。
そう囁いて、ジュリアンはローダンから距離を取った。
本人が気にしていた小さく細い体が、スプリングを僅かに軋ませる。
『……そろそろ行かなくちゃ。母さんを待たせてるんだ』
「ま、って……待って、ジュリアン……!」
行かないで。
どこにも行かないで、ずっと俺の傍にいてよ。
ジュリアンをこの世界に留まらせられるのなら、目でも、手でも、足でも。
ジュリアンを呼ぶこの声だって、俺には見えなかったあの世の門番に全部くれてやるから。
だから、行かないで。――俺を置いて一人で逝かないで。
「……ジュリアン……」
閉じた瞼の隙間から涙をこぼしながら、ローダンは恋人の名を呼んだ。縋るように伸ばした手は空を切り、力なく落ちる。
――ジュリアンにはもう触れられない。生死の境を彷徨うローダンを置いて、一人で遠い世界に行ってしまった。
『……僕はいつでも君の傍にいるよ』
嗚咽を漏らすローダンに、もうこの世にはいないジュリアンが囁く。彼の爪先は、風に揺れる赤毛をそっと梳いた。
『姿は見えないかもしれないけど、ずっと君の傍にいるよ、ローダン。君を愛してるから』
「っ……俺も愛してるよ、ジュリアン。この先もずっと……!」
『ありがとう。……でもね、ローダン。僕は「ずっと僕のことだけを好きでいて」なんてわがまま言わないよ。ローダンはペリアル家の跡取り息子だから』
そりゃあ僕のことだけ好きでいてくれたら嬉しいけど。
そう話すジュリアンの声は悪戯めいていて――それなのに、微かに震えていた。
『僕が君に忘れないでほしいと思うのは……お互いに良い影響を与えるために出会ったんだってことと、僕が君のことを確かに愛していて、君が望む限りずっと傍にいるってことだけ。……覚えていてくれる?』
「……ああ、分かったよジュリアン。絶対、絶対忘れないから……」
『うん。……じゃあ、僕は行くね。――さよなら、ローダン』
遠い未来でまた会えたら、きっと一番に君の名前を呼ぶから。
「……さよなら、ジュリアン……っ」
また会えるその日まで、世界で一番愛してる君に「さよなら」を。
薄く色付いたローダンの頬を涙が伝う。
塩辛いそれには、悲しみ以外の感情が確かに含まれていた。
「……ありがとう、エルトゥス。ジュリアンの声を届けてくれて。……終わらせてくれて」
溢れ続ける涙を拭い、鼻を啜って、ローダンは微笑む。微かに震えるその声は、どこまでも清々しい。
「俺、歩行訓練始めるよ。ジュリアンが与えてくれた『良い影響』を探さなきゃいけないし……ジュリアンが眠ってる場所にも、行きたいから……っ」
「ええ、良いお考えだと思います。……ジュリアン様もお喜びになるでしょうね」
優しい声で言ったエルトゥスに、ローダンは答える。
「……ああ、きっと」
ジュリアンは喜んでくれる。
今ならそう思えるよ、エルトゥス。