3:本当の望み
「ローダン、入ってもいい?」
ローズが再び四〇五号室を訪れたのは、アップルパイを差し入れた翌日のことだった。
この四か月と一週間、彼女は一日と空けず病院を訪れている。殊に、歩行訓練が可能になった一か月前からは、毎日何かしらの差し入れを持ってきていた。
「……どうぞ」
ローダンが小さく返事をすると、扉の向こうから安堵するような声が漏れた。それから一拍置いて、病室のドアが開く。
「あら、今日も窓が開いているのね。寒くない?」
「いいんだ。……閉めないで」
「そう。分かったわ」
ちらりと視線を向けて言ったローダンに、ローズが応じる。
今のローダンには母親の表情を読み取ることができない。だが、今日のローズの声には、普段とは違う響きが――常日頃湛えられている深い悲しみ以外の感情が交じっていることは理解できた。
「……外に誰かいるの?」
「え?」
「ドアを閉めなかったでしょ。誰かいるの」
普段はローズが入室した直後にドアが閉まる。しかし、今日はその音が聞こえなかった。
ぼんやりとドアのほうを見る察しのいい息子に対し、ローズは苦笑を浮かべて「そうなの」と答えた。
「今日はお客さんがいるのよ。あなた、前より耳が良くなったんじゃない?」
「……そうかもね」
喉まで出かかった言葉を呑み込んで、代わりの言葉を発する。――そりゃあ、こんな状態じゃ耳だって良くなるよな。
「どうぞ、お入りくださいな」
「ええ。――こんにちは、ローダン」
入室した女性が挨拶する。遠慮がちなその声には聞き覚えがあった。
「……リンダさん」
声の主はリンダ・プリゼ。ジュリアンの母親だ。
「どうして……」
「リンダさんはね、あなたにお知らせがあって来たの。ジュリアンのことよ」
「……ジュリアン」
『その瞬間』の訪れに身を固くしたローダンは「ジュリアンがどうかしたの?」と尋ねた。
しかし、ローズから告げられた内容は、ローダンが想像していたものとはまったく違ったものだった。
「ジュリアン、転院することになったの。もっと良い治療を受けられる病院に移ることになったのよ」
「転院……?」
「急にごめんなさい、ローダン」
と、リンダが謝罪する。
「あなたはずっと会いたがっていたのに……」
「…………」
「ジュリアンは……随分良くなったのだけれど、この病院では治療の一部に限界があって……止むを得ず転院することになったの。今日決まったのよ」
「ジュリアンには……もう会えないってこと?」
「……そうね」
自分のほうを見つめて尋ねる息子の恋人に、リンダはうっすら涙を浮かべて答えた。
「ここから随分遠い場所だから、当分は……」
「……そう」
それが、大人たちが考えた最良の答えなのか。
そう思うと急に喚き散らしたい気分になって、ローダンは歯を食いしばる。
「みんな嘘吐きだ」と罵りたい衝動が胸の中で暴れて、肺ごと爆発しそうだった。
「でもね、ローダン」
粗野な衝動と必死に戦っているローダンに、リンダが声をかける。
ローダンには見ようがなかったが、ジュリアンによく似た顔には悲しげな笑みが浮かんでいた。
「ジュリアン、転院する前にあなたと話したいって言ってるの。今廊下で待ってるのよ」
「……ジュリアンが?」
そんなの嘘だ。だって、ジュリアンがここに来られるはずがない。
困惑するローダンをよそに、母親二人は廊下で待っているというジュリアンを呼んだ。
白で構成された空間の中、妙な緊張感が辺りを包む。
こつ、と床を蹴る音が小さく響き、廊下で待っている誰かが入室した。
「――ローダン」
「……ジュリ、アン……」
固唾を吞むローダンの耳に届いたのは、この四か月間、ローダンが聴きたくて堪らなかった声だった。
「ごめんね、ローダン。今日まで会えなくて……」
少しバツが悪そうな、躊躇いと申し訳なさを含んだ声色。
ドアのほうから聴こえたその声は、ジュリアン・プリゼ以外の何物でもなかった。
「……デートしたかっただけなのに大変な目に遭っちゃったね、お互い」
母親二人がいる辺りで立ち止まった彼は、横たわるローダンの姿を見ながら言う。
事故に遭う前と何ら変わりない声には、苦笑いするような響きが含まれていた。
それきり、病室に沈黙が落ちた。彼はローダンが喋るのを待っているらしく、何も喋らない恋人をじっと見つめている。
「……母さん」
「何? ローダン」
「しばらくジュリアンと二人きりにしてくれない?」
「それは……」
唐突な申し出にローズは口籠もる。
その姿は「事情があって二人きりにしたくない」と考えているようでもあったし、あんなに待ち焦がれていた恋人の来訪にもかかわらず喜ばない息子に困惑しているようでもあった。
「ねえ、頼むよ。二人きりで話したいんだ。母さんたちがいたら……何を話していいか分からなくなるだろ。なあ、ジュリアン」
「え? ……うん、そうだね。僕も……二人きりがいいかな」
「……そう? ジュリアンがそう言うなら……」
何か言いたげに彼を見たローズだったが、彼が頷いたのを見て許可を出した。
「その代わり、興奮してベッドから身を乗り出しちゃダメよ。今のジュリアンじゃベッドから落ちたあなたを引き上げられないんだから」
「分かってるよ。心配しないで」
「じゃあ、私たちは外に出るわね。……楽しい時間を過ごしてね、ジュリアン」
「ありがとうございます」
リンダと共に退出するローズに声をかけられ、彼は頭を下げる。
ぱたん、と軽い音を立ててドアが閉まる。
開けた窓から肌寒い風が吹き込む白い部屋には、ローダンと彼だけが残された。
「……ジュリアン」
「何? ローダン」
尋ねる声には彼らしい穏やかさと、ローダンに対する確かな愛情がこもっている。
この四か月間、ローダンが聴きたくて堪らなかった声。
ローダンが愛してやまなかった声。
けれど。
「君はジュリアンじゃない。――そうだろ?」
義眼を彼に向け、ローダンは問う。「君は俺の恋人じゃない」と。
「ええ? やっと会えたのに何言ってるの、ローダン」
彼はジュリアンらしく首を傾げ、声に微かな不服を混じらせる。――これまでローダンが幾度となく聴いた、可愛くて堪らない声だった。
「……あ、分かった! 僕がなかなか会いに来なかったから拗ねてるんでしょ。ローダンってそういうとこ――」
「もういいよ、ジュリアンのふりは」
ローダンは彼の話を遮り、重ねて問う。
「発話代行サービスの人でしょ?」
いや、ヒトじゃないのか。
その言葉に、彼はぴたりと動きを止める。
発話代行――。
世界唯一のサービスを提供するイストリア社には、世界中のどこを探しても見つけられないであろう人材が所属している。
人間の言葉を操り、どんな声でも出せる彼は――ヒトのがいこつに似せて創られた、魔力製の模造骸骨だ。
「ローダン、僕は……」
「――お願いだよ」
ローダンが懇願する。その声には、看病を続けていたローズでさえ聞いたことのない悲痛な響きがあった。
「正体を明かさないでほしいって言われてるなら、俺が気付いたことは黙っていればいい。俺も話さないから。……俺はただ、本当のことを知りたいだけなんだよ……」
不格好に立てた膝に顔を押し付け、義眼の隙間から涙をこぼしながら訴える。
こうやって悲しむ姿を誰かに見せるのは、この四か月で初めてのことだった。
「……もう知ってるんだ。ジュリアンはこの世にいないって」
ローダンは声を震わせて話す。もうとっくの昔に知っていて、けれど認めたくなかった事実を。
四か月前のあの日、生死の境を彷徨っていたローダンが意識を取り戻したのは、ローズや病院側がその事実を認識する数時間前のことだった。
そして、その数時間の間に聞いてしまった。「ローダンだけでも助かってくれたら」と涙交じりに話すリンダの声を。
「この四か月ずっと『ジュリアンは?』って訊き続けたのに、誰に何度訊いても『ジュリアンはまだ調子が良くない』の一点張りでさ。誰も本当のこと教えてくれないんだ。俺はもう本当のことを知ってて、でも、この目じゃ直接確認できないから……今さらあの日の行動を後悔したり、ジュリアンの回復を祈ったりしても無駄なんだって、ちゃんと教えてほしかったのに。だから……声の録音を頼んだのに……」
この世に居もしない恋人の声など録音できるはずがない。
それが分かっていて、ローダンはジュリアンの声を望んだ。息子のために嘘を吐き続けている優しい母親を困らせるだろうことは理解していたが、真実を伝えてもらうにはそれしかないと。
――結局、優しい母親は最後までローダンに嘘を吐き続けることを選んだけれど。