1:ローズとローダン
「ローダン、入ってもいいかしら?」
窓から降り注ぐ日差しに確かな熱を感じられるようになり始めた、早春の午後三時過ぎ。
小さなノックのあと、鈴のように澄んだ声が入室許可を求める。
しかし、いつまで経っても返事はなく、入室していいのか分からないまま。
逡巡の末、声の主――ローズ・ペリアルは病室のドアを開けた。
背部に傾斜をつけた純白のベッドが一つ置かれている、小さいながらも過ごしやすそうな四〇五号室。白を基調とした個室内では、くすんだ赤毛とグレーの瞳を持つ十六歳の少年・ローダンが退屈そうに横たわっていた。
大荷物を携えた母親が入室しても、彼女のほうを向こうともしない。不機嫌そうに唇を尖らせながら、看護師に頼んで開けてもらった窓のほうを眺めているだけだ。
「最近よく窓を開けているけど、海を感じたいの?」
トートバッグを棚に入れたローズが尋ねる。
ローダンが入院しているメイジリール国立病院の近くには、夏場になれば海水浴客で賑わう浜辺がある。ただし海がある方向と窓の向きが一致していないため、この部屋から海を臨むことは叶わない。
「昔から海が好きだったものね。……そうだ、今度お父さんが休みの日に行きましょうよ。外出用の車椅子を貸し出してくれるらしいの」
そう提案してみるが、ローダンは窓のほうを眺めているだけで何も答えない。
(事故に遭う前はあんなによく喋る子だったのに)
十六歳前後というのはちょうど難しい年頃で、友人とは明るく話していても、家では寡黙になったり母親を疎ましく感じたりするものだ。それならば仕方がないと思う。
だが、事故に遭うまでのローダンはローズとも仲が良く、恋人とのデートの行き先まで相談していたのだ。明るく饒舌だった一人息子が何の非もなく事故に巻き込まれ、塞ぎ込んでいる姿をただ見守ることしかできないのはローズにとってかなりの負担だった。
「――今日はあなたが好きなアップルパイを作ってきたのよ」
それでも、ローズは息子のために何かできないか必死に考えた。そのうちの一つがアップルパイだ。
ローズお手製のアップルパイはローダンの大好物で、事故に遭う前は「母さんが作ったアップルパイを食べると元気が出るんだよな」とよく言っていた。
(少しでも喜んでくれればいいんだけど……)
そう思いながら息子の様子を窺うと、ローダンがこちらを見ていた。
いや、『見ていた』と表現するのは正しくないのだろう。事故で両目の視力を失い、義眼を着けているローダンの目には誰の姿も映らないのだから。
しかし、愛する息子が興味と反応を示したことに変わりはない。顔を輝かせたローズは「早速いただきましょうか」と提案した。
「今回はバラの形にしたの。かなり上手に作れたのよ」
持参した紅茶をマグカップに注ぎながらアップルパイの形を説明する。
今のローダンにとって、パイの形など、どうでもいいかもしれない。だが、たとえ少しでも楽しんでもらえればとローズなりに工夫を凝らしたのだ。
事実、紙箱から取り出されたアップルパイは美しく作られていた。サイズは手のひら大で、花びらの上端部分にのみ数ミリ残した赤い皮がバラらしさを上手く表現している。
「さあ、一緒にいただきましょう。食べたら感想を教えてね」
ローズはローダンの膝に布を敷くとアップルパイを置き、備品の椅子に腰かける。
だが、ローダンは窓のほうに顔を向けるだけ。その横顔は変わらず不機嫌そうだった。
「ローダン?」
「――ジュリアンは?」
ローダンは抑揚のない声で尋ねる。「恋人の調子はどうなの」という意味だった。
「……まだ、あまり具合が良くないのよ」
この四か月で何度も伝えた言葉を繰り返し伝える。
ジュリアン・プリゼ。
ローダンの同級生である彼は、ローダンの同性の恋人だ。
新暦一九六六年現在では「異常者」として扱われることが多い同性愛だが、西側大陸の端に位置するこの国・テトラノールでは、比較的寛容に受け止められている。
それはテトラノールが多様性を受け入れる国だから――ではなく、数百年前魔人の扱いで失敗したからでしかない。
「魔力」と呼ばれるエネルギーを扱うことができる人間・魔人を、当時の人々は恐れた。魔人側には敵対の意思がなかったのに「自分たちとは違う能力を持っている」という理由だけで排除しようとした。
現存する当時の書物には「森での生活に嫌気がさした魔人側が戦いを挑んだ」と記されていたが、魔人に対する研究が進んだ現代では「恐怖に怯えた人間側が一方的に戦争を仕掛けたにもかかわらず事実を捻じ曲げた」と考えられている。
そして――無意味な戦争の末、魔人は一人残らず滅んだ。
そういう歴史があるからこそ、テトラノールは異端の存在に対して周辺国より寛容にならざるを得なかった。そうしなければ「自らの過ちに向き合っていない」と他国に判断されてしまうからだ。同性愛者に対して寛容であるのもその一環である。
とはいえ、同性間の恋愛は異性間の恋愛のように歓迎されることはない。同性愛に肯定的なローズだって、心のどこかでは「愛する息子には異性の恋人を」と思っていた。
だが、異性愛者であるはずのローダンが選んだのは、同性の同級生だった。
それでも、ローズは愛する一人息子の意思を尊重した。ジュリアンを女手一つで育てていた彼の母親も同じ選択をして、二人は幸せな人生を歩んでいた。――歩んでいたのに。
「録音、ジュリアンに頼んでくれてないの」
「……頼んだわ。ただ……」
言い淀んだローズは複雑な表情を浮かべ、やがて悲しげに微笑んだ。
「ジュリアンが前みたいに話せるようになるまで少し待ってあげて。大変な事故だったから……」
「…………」
「だからね、まずはあなたが歩けるようになって。そうすればジュリアンもきっと喜んでくれるわ」
そう、ローダンが歩行訓練に取り組めば――元通り歩けるようになれば、ジュリアンはきっと喜んでくれる。ジュリアンは優しい子だったから。
その言葉を聞いたローダンは、初めてローズをまっすぐ見据えた。
しかし、ローダンの顔に感情らしい感情は浮かんでおらず、歩行訓練を勧める母親に「分かった」とも「嫌だ」とも言わなかった。
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閉じたカーテンの隙間から宵の口特有の肌寒さが忍び込む。
ベッドに横たわったままのローダンは、アップルパイに手を付けることなくドアのほうを眺めていた。
事故で大怪我を負ったローダンが意識を取り戻して四か月。
目や足の怪我がもたらす酷い痛みに眠れなかった夜も、ただ日が昇っただけの朝も、同じ時を繰り返すだけの昼も――この四か月間、ローダンが考えていたのは恋人であるジュリアン・プリゼのことばかりだった。
学校のことも、これからのことも、どうでもいい。ましてや自分の足のことを考える必要があるとは思えなかった。
(――俺が歩けるようになったって、ジュリアンはきっと喜ばない)
ジュリアンが事故に遭ったのはローダンのせいだ。「学期末テストが終わったからデートしよう」と誘ったのも、デートの場所にウィンター・マーケットを選んだのもローダンなのだから。
(全部、俺のせいで……)
デートの当日だって、ジュリアンはあんなに楽しそうに笑っていたのに。
「ローダンと一緒ならどこへ行っても楽しい」と幸せそうに話していたのに。
ジュリアンがローダンに微笑みかけることは、恐らく二度とない。
「ジュリアン……っ」
自責の念に堪え切れず彼の名前を口にする。
ショートヘアにした柔らかなブラウンの髪、ターコイズブルーの瞳。
十六歳の少年にしてはふっくらした頬と、柔らかな唇、優しく響く高い声、ローダンとは正反対の小さく細い体。
ジュリアンと離れ離れになって四か月経った今でも、その細部を鮮明に思い出せる。――鮮明に思い出せるのに。
「もう一度会いたい」と願う資格などローダンにはないのだろう。ジュリアンのすべてを奪ったのはローダンなのだから。
それでも会いたいと、声を聴きたいと願ってしまう自分の欲深さに反吐が出そうで、ローダンは枕に顔を埋めた。
動かないのは怪我の度合いが酷かった膝から下だけ。それでも四か月以上まともに動いていないせいで、脚以外の筋肉もすっかり痩せてしまっている。事故に遭う前は運動全般が好きで、テスト期間ですら「一日中勉強してるとどうにかなりそうだ」と時間を割いて体を動かしていたのに。
――ローダンはすごいなあ。
物音一つしない病室の中、いつか聴いたジュリアンの声が頭の中で響く。
――僕、運動って好きじゃないんだ。全然上手くできないし、上手くできないから皆の邪魔になって目を付けられるし。
だから運動全般が嫌いになってしまったのだと、いつかのジュリアンは苦笑いした。
事実、ローダンから見たジュリアンの運動能力は著しく低かった。ボールを投げることはおろか打つことも蹴ることも下手で、走りは遅く、持久力もない。
なるほど、ここまでできなければ好きになれないのも無理はないだろう。ローダンだって、ジュリアンと出会うまで物理は大の苦手科目だった。
ただ、ジュリアンの運動能力が極端に低いのは「どうすれば良くなるか」を理解しないまま嫌々続けていたせいで、端的に言えば「良き指導者がいなかったせい」だった。
(運動が苦手だって、ジュリアンに合わせた方法で練習すれば、絶対上達するはずだ)
そう考えたローダンが指導すると、たった二か月でジュリアンの運動能力は大幅に向上した。
あのとき見た『ジュリアンを馬鹿にしていた同級生連中の顔』は、一生忘れないだろう。
――ローダン、ありがとう。
柔らかな頬を喜びに染めながら、いつかのジュリアンが笑う。ローダンが教えてくれなければ「運動神経が悪い自分じゃ何もできない」と思い込んだまま一生を終えていただろうと。
そう語るジュリアンは本当に嬉しそうで、ターコイズブルーの瞳もきらきら輝いていて。
そのとき、ローダンは気付いた。これまで友達だと思っていた同級生に、心の底から惹かれているのだと。
適切な練習方法など教えなければよかった。
毎日一緒に過ごさなければよかった。
そうすれば、自分とジュリアンは「ただの友達」で終わっていたのに。
性別を超えて惹かれ合うことも、こんな形で別れることもなかったのに。
だが、後悔しても遅い。時間は決して巻き戻らないと、十六歳のローダンは知っている。
「……う、ぐ……」
脳裏を過ぎる事故の瞬間と込み上げる吐き気に嗚咽が漏れる。
ローダンは事故発生時のことをほとんど覚えていない。覚えているのは、雪にスリップした大型車がコントロールを失い歩道に突っ込んできたこと、事態を認識した直後に跳ね飛ばされたこと、意識を失う直前叫び声を聞いたような気がすること。それだけだ。
跳ね飛ばされ、何か硬いものに叩き付けられたローダンは、ジュリアンの様子を確認するどころか自分の体がどうなっているかさえ分からないまま意識を失った。
そして、一週間ほど生死の境を彷徨って目覚めたとき、すべては終わっていた。
いや、まだ何も終わっていない。ローダンには終わることすら許されていない。
(終わらせてよ……ジュリアン)
それができるのは君だけなのに、君はもう俺の前に現れない。