2:知り得ない感情
太陽が沈み、フラッタの街が暗闇に包まれた午後七時。
一旦自宅に戻ったエルトゥスは青年の姿で市内のカフェを訪れていた。仕事着の魔人風ローブではなく私服を着ているため、エルトゥスをじろじろ見る者はいない。
もっとも、フラッタ市民であればがいこつ姿のエルトゥスを見ても「来てるんだ」くらいの反応しか示さないだろう。発見当初、一躍「時の人」となったエルトゥスも、ものめずらしさと危険性が薄れた現在では「見た目が恐ろしいだけの存在」でしかない。それだけ人間の順応性は高いのだ。
そういうわけで当然のようにカフェにいるエルトゥスだが、食事をしに来たのではなかった。魔力製で骨身の模造骸骨は食事ができないのだから。
では、一体何のためにカフェに入ったのかというと、人と会うため。
その相手は既に来ており、現在、エルトゥスの対面席でローストビーフサンドを頬張っている。
終業間近のエルトゥスがノアの機嫌を普通以上に保っておきたかった理由。
それは、仕事終わりにサンク・スターチと会う予定が入っていたからだ。
(ノア、サンクさんのことになると急に子どもっぽくなるからなあ)
別に、サンクを嫌っているわけではないのだろう。「金を持て余した暇人」だの「自分のことを『イケてる』って思ってるのが腹立たしい」だのと好き勝手に言ってこそいるが、その言葉にサンクを傷付けようという意思は感じられないし、エルトゥスをサンクから遠ざけようともしていないのだから。
それなら何故、わざわざ誤解されるような態度を取るのか。――その理由は、エルトゥスには未だ分からないでいる。
(サンクさんいい人なのに)
心の中で呟いたエルトゥスに対し、サンクは「ねえ」と声をかけた。
「何ですか?」
「今、ノアのこと考えてる?」
「えっ?」
どうして分かったんだろう。
エルトゥスはサンクをじっと見た。今日のサンクは薄いピンクの長袖シャツに濃いグレーのニットを合わせていて、実によく似合っている。
「今は『どうして分かったんだろう』って思ってるでしょ」
「ええ、まあ……」
またしても考えていることを言い当てられてしまった。
落ち着かない気分になったエルトゥスは改めて「どうして分かったんですか?」と尋ねた。
「まあ……骨の顔のときもそうだけど、君は分かりやすいからね」
「えっ」
そんな、とエルトゥスは悲しそうな顔をした
都合が悪いときに骨身に戻っても上手く誤魔化せないなんて。ショックを受けているエルトゥスを見て、サンクは苦笑を浮かべて言った。
「ほら、エルって隠し事が得意じゃないタイプでしょ? そういう人は考えや感情を顔から読み取りやすいんだよ。まあ、親しくしてるから分かるっていうのもあるだろうけどね」
「……そういうものなんですか?」
「うん。少なくとも俺やノアより、君のほうが読み取りやすいはずだよ」
「うーん……」
確かに、サンクの考えや感情は読み取りにくい。彼が常日頃湛えている微笑みの下で何を考えているかなど、エルトゥスには見当もつかなかった。
人によって読み取りやすさに差があるのは分かった。だとすれば、すぐ顔に出てしまう現状を改めたほうがいいのだろうか。
サンクに問うと、ローストビーフサンドを平らげた彼は「どうだろうね」と答えた。
「確かにエルは分かりやすいけど、無理して直すようなものじゃないと思うよ。考えがちょっとくらい顔に出てたところで、仕事に支障が出るとは思えないしね」
「そう、ですか?」
「そうだよ。分かりやすいところもエルの魅力なんだし、大事にしてほしいな」
サンクの言い分を聞いて、エルトゥスは「そっかあ」と呟く。
――こういう素直さが分かりやすさの所以なのだろうとサンクは思ったが、人当たりのいい笑みを浮かべながらミルクコーヒーを飲むだけに留めた。それから少し申し訳なさそうな表情を浮かべ、話題を変える。
「ところで、いつも夕飯に付き合ってくれてありがとうね。エルは食べられないのに」
「気にしないでください。誰かが食べている姿を見るのは好きですから」
エルトゥスは偽りのない気持ちを述べ、微笑む。
魔力製で骨身のエルトゥスは味覚を持ち合わせていない。恐らく、意図的に与えられなかったのだろう。ヒトよりも制限されている痛覚とは違い、視覚・聴覚・嗅覚はヒトと同等のものを与えられているのだから。
「たとえ食事はできなくても味覚だけは搭載してほしかった」――それがエルトゥスの正直な感想だった。「どうにかできるのであれば体構成の一部を変えてでも味覚を獲得したい」とも。
だが、残念なことに、現状その手段は見つかっていない。
であれば、無い物ねだりをしても仕方がない。エルトゥスはそう考え、味覚がなくても食事を楽しむ方法を探した。
そうして見いだしたのが「匂いを含めて店内や場の雰囲気を楽しむこと」と「知人の食事風景を眺めること」である。
「僕には『味わう』って概念どころか味自体も分かりませんけど、匂いとか形状とか、味覚以外の手段で味を想像するのがすごく楽しいんです」
たとえば、サンクが飲んでいるミルクコーヒーの味。
コーヒーという飲み物は「匂い」と「味」が密接に関わっているのだと、ノアから聞いたことがある。コーヒー豆の香りそのものが味の一部なのだと。
だとすれば、ミルクコーヒーはどのような味がするのだろう。ブラックよりも香りが抑えられていることを踏まえると、加えた分量に合わせてコーヒーが持つ「苦み」という味も抑えられているのだろうか――。
そうやって推理ゲームの一種をすることが、エルトゥスなりの食事の楽しみ方だった。
「そっか。……エルは『できないこと』との向き合い方を心得てるんだね」
「向き合い方、ですか?」
「うん」
首を傾げたエルトゥスに、サンクはダークブラウンの目を細めて答えた。
「個人差はもちろんあるんだけど、ヒトってできないことに目を向けやすいんだ。しかも一度『できない』って感じたら、その時点で諦めちゃうことが多いんだよ。……取り組み方を変えてみるとか、エルみたいに〝できないなりに別の楽しみ方を探す〟とか、やれることはいっぱいあるのにね」
どうしてできないことばかり気にしちゃうのかなあ。
そう呟いて、サンクはカップのフチを指でなぞる。
いつもと同じ微笑みを浮かべながらミルクコーヒーを見つめる彼が何を考えているのか、エルトゥスにはやはり分からない。
「――いやあ、まいったな」
カップからエルトゥスへと視線を移したサンクは、人懐っこさを感じさせる顔に明るい笑みを浮かべ、自分の気持ちを伝える。
「ますますエルのことが好きになっちゃったよ」
サンク・スターチは模造骸骨であるエルトゥス・アサラに惚れている――。
その事実は、サンクの友人であれば誰もが知っている。
つまり、当人であるエルトゥスも知っているということだ。
だが、エルトゥスはサンクに返事をしていない。
「一方的に好きでいることを許してほしい」と、そう言われたから。
正直に言うと、エルトゥスは返事を求められなかったことに安堵していた。目覚めたその瞬間から「心」と形容されるものを持っていたエルトゥスだが、「恋」という感情は未だに理解していなかったのだ。
「概念に対する知識は有していても自分では抱いたことのない感情」。だから、いくらサンクが良き友人であっても、彼の想いには応えようがない。
恋心が分からない過去の遺物でも、誰かに想いを寄せてもらう資格はあるのか――。
自分自身に問いかけてみても、答えは出ないまま。
ノアに相談しても「誰かに想われることに資格も何もないでしょ」と呆れたように言われるだけで、結局、明確な答えは得られなかった。
「サンクさん」
「何?」
「サンクさんは……僕が人間だったらって思うこと、ないんですか?」
ミルクコーヒーを飲んでいるサンクに尋ねる。今までずっと気になっていた、けれど、一度も訊いたことのない内容を。
「うーん、そうだなあ。一緒にごはんを食べられないのは残念だって思うけど……」
空になったカップをソーサーに戻したサンクが答える。
「俺が好きになったのは、模造骸骨のエルだからね。そんなことを考える必要がないんだよ」
微笑みながら説明するサンクの口調は、普段とまったく同じもので。
彼が何を考えているのか、エルトゥスにはやはり分からなかった。
ただ――その言葉に嘘はないのだろうと、何の根拠もなく思った。