9:気付き
翌朝、リリィは予定通りイストリア社に向かった。掠れたままの声で二人に挨拶し、トードとどういった話がしたいか応接室で話し合う。
本来は非常に難しいという口調の再現も順調で、正午を過ぎた頃には「いつでも声を届けられる」とノアが太鼓判を押すほどの完成具合だった。
「じゃあ、明日にでも、自宅に来てもらえますか?」
「えっと……」
近くのパン屋で購入した品々を囲んでの昼食の最中、唯一食事をしていないエルトゥスに問うと、エルトゥスは何故か言葉を濁した。言いにくいことでもあるのか、リリィではなくノアのほうに視線を向けている。
もしかしたら、別途出張費が要るのかもしれない。
そう推測したリリィは頭の中でネムまでの交通費を計算した。
フラッタからンノーまでは普通列車でも行けるが、二倍近く時間がかかる。加えて、ンノーからネムの町まで普通列車で三時間半かかるのだ。ンノーまでは特急列車を利用するしかないだろう。
問題はそれだけではない。「発話代行サービスを利用する際は見届け人としてイストリア社の者が同席しなければならない」というルールがあるそうなのだ。
「片道一人分」と「往復二人分」の交通費に加え、別途出張料が必要になるとすれば、依頼料の合計はリリィが支払おうと考えていた金額を大幅に上回る可能性があった。
「あの、もし――」
もし依頼料の最低金額が不足するのなら、その分だけ後払いにしてもらえませんか? 元通り声が出るようになったら、学生でもできる仕事をして必ず支払います――。
そう頼むより早く、ノアが口を開く。
「今日の二時くらいまで待って」
「え……?」
藪から棒な指示にリリィは時計を見た。
現在時刻は午後一時半。二時まであと三十分だ。
何故待たなければならないのか分からないが、これだけしっかりしているノアが言うからには相応の理由があるのだろう。
リリィは大人しく待つことにした。エルトゥスはリリィが詮索しなかったことにほっとした様子だったが、こちらの理由も分からない。
ひとまずエルトゥスと世間話をしていると、内線を受けたノアが応接室を出て行った。時刻は午後一時五十分で、ノアが提示した時間より十分ほど早い。
「ちょっと早かったみたい」
そう言ってエルトゥスは微笑む。
一体何を待っていたのだろう。不思議に思っていると応接室のドアがノックされた。入室者はノアではないようだ
(じゃあ、一体誰?)
リリィは困惑した。一方、エルトゥスは「どうぞ」と入室許可を出す。
「え、っ……」
リリィは目を見開き、掠れ声で呟く。
開いたドアの向こうにいたのは、一秒でも早く声を届けようとしていた存在――トード・ロウだった。
「リリィ!」
彼はリリィの姿を確認するなり妹のもとに駆け寄り、リリィを勢いよく抱きしめた。耳の高さで切り揃えられた髪の合間からは大きな補聴器が覗いている。
「リリィ、大丈夫か? 危ない目に遭わなかったか?」
「大丈夫、だけど……でも、どうして?」
不安げな表情で尋ねるトードに向かって答えるが、いくら補聴器をつけているとはいえ、今の声量で言葉が届くはずもない。
返事の代わりに頷いたその瞬間、リリィの近くから声が明瞭に響く。
『大丈夫、だけど……でも、どうして?』
「あ……」
突然聞こえた本来の声にリリィは一瞬身を硬くしたが、すぐに状況を理解した。
今この場で「リリィ本来の声」を出せるのは、この世でたった一体だけ。
自らの仕事に真摯に向き合う模造骸骨の発話代行人――エルトゥス・アサラだけだ。
「本当に、がいこつがリリィの声を……」
今日が初対面のトードはリリィを放すと驚いた様子でエルトゥスを見つめた。その背後ではノアが入室し、リリィのために小声で状況を説明する。
「実は今朝、親御さんから連絡があったんだ。『リリィがどこに行ったか息子に訊かれてイストリア社のことを伝えたら朝一番で家を飛び出してしまった。もし到着したらリリィに会わせてやってほしい』って。――ポリープを患った大事な妹が自分のために大枚はたいて得体の知れない会社に依頼したのが心配だったみたいだよ」
「お兄ちゃん……」
だから二時まで待てと言ったのか。自分たちを連れて行かなくとも声と想いは届けられるから、と。
トードの来訪を事前に伝えなかったのは、聴力と体調に不安があるにもかかわらず大事な妹のためにフラッタへ向かったトードの気持ちを慮ってのことだろう。
「それと、電話で話したついでに再現したリリィの声を親御さんに聴いてもらったんだ。そしたら『娘の声にしか思えない』って。――だからね、エルの言葉はリリィの言葉だよ」
「……うん。ノアさん、ありがとう」
この二日間で一番少女らしい笑みを浮かべ、リリィは改めてトードに向き合った。
フードを目深に被ったエルトゥスはリリィと背中合わせの状態で立ち、見届け人のノアは扉の前で再現を見守る。
「おにい、ちゃん」
『――お兄ちゃん』
「……リリィ」
掠れ声を拾ったエルトゥスがリリィ本来の声でトードに話しかける。
トードはどうすればいいのか分からない様子でリリィを見つめていたが、穏やかに微笑む妹の姿に何か思うところがあったらしく、普段話すときのような表情でリリィに向き合った。
「わたしのために、早起きして、こんな遠い街まで来てくれて、ありがとう。お兄ちゃんに喜んでほしくてここに来たのに、かえって心配、かけちゃったね」
掠れた声はエルトゥスを介して『リリィ・ロウ本来の声』へと変換され、トードに届く。
補聴器を介して聴く声は、かつてトードが当然のように聴いていた妹の声そのものだった。
『……何を話したらいいのか分からない、って言ったら変かな? わたしの声をお兄ちゃんに聴いてもらいたくてフラッタまで来たのに。でも、それが今の正直な感想』
トードに伝えたいことはたくさんあった。だが、いざ声を再現してもらえることになったら、急に何を話せばいいか分からなくなった。
もしかしたら、人間なんてそんなものなのかもしれない。『何か』を持っているときには深く考えず、失ってから後悔して、取り戻せばまた分からなくなって。愚かな生き物だと、エルトゥスでなくても思うだろう。
『わたしね、お兄ちゃんのために何かしたいってずっと思ってた。お兄ちゃんのことが大好きだから、わたしの声をたくさん聴いてもらおうって思ってたの。……昨日までは』
「昨日まで?」
『うん、昨日まで』
リリィは頷く。
愛する兄のために自分にできることをしよう。そう考え、リリィは自身の声を聴かせ続けた。そうすれば愛する兄が喜んでくれるからと。
事実、トードは喜んでいた。妹と話す機会が増えたことは純粋に嬉しかったし、自分のために色々な話を聞かせてくれる妹の姿を見ていると、体調が優れないときでも元気が出た。もしリリィの献身的な支えがなければ塞ぎ込んでいたかもしれないのだから、リリィは自分がしたいと思っていたことをきちんと成し遂げられていたのだ。
ただ――リリィは、気付いてしまった。
こうしてイストリア社を頼ってまで自分の声を届けたかったのは、愛する兄のためではない。
「良き妹」でありたい自分のために行動していたに過ぎないのだと。
「そんなことない」
トードはリリィの行動原理を優しく否定した。
だが、リリィは首を横に振る。
『お兄ちゃんのことが大好きっていう気持ちに嘘はないの。でも……わたしが必死だったのは、きっと自分のためだったんだ』
その事実に気付いたのは、昨夜三〇二号室で一人過ごしていたとき。
サンクはエルトゥスを心から慕っていた。だからエルトゥスの気持ちを何よりも大事に扱い、自分の意見や感情を伝えることはあっても押し付けることは決してなかった。
では、自分はどうなのだろう。
リリィ・ロウは兄であるトードを心から愛している。その気持ちに嘘はない。
だが、サンクとリリィには決定的な違いがある。――愛する人の気持ちを尊重しようとしなかったことだ。
イストリア社に依頼するかどうか、まずトードに訊くべきだった。高額な依頼料のことは伏せたとしても、発話代行サービスを利用したいか尋ねた上で自分の意思を伝え、行動すべきだったのだ。
にもかかわらずそうしなかったのは、きっと「良き妹でありたい」と思う感情が強すぎたから。
「声帯ポリープを患っても兄のために尽力した妹でありたい」と無意識のうちに考えていたからだ。
『ごめんなさい、お兄ちゃん。わたしを心配してここまで来てくれたのに、わたしはこんなに自分勝手な妹で』
背後から発せられる言葉と共に、リリィの睫毛が伏せられる。
複雑な感情を湛えているその顔は、彼女の成長を間近で見守ってきたトードですら見たことがないほど大人びたものだった。
「リリィ……」
『だけど……すごく自分勝手だけど、お兄ちゃんのことが本当に大好きなの。わたしにとってトードお兄ちゃんは世界で一番のお兄ちゃんだから』
よく通る可愛らしい声を震わせ、唇をきつく結んで、視線をトードに向ける。
リリィ・ロウは身勝手かもしれない。優しく思いやりに溢れる兄には相応しくないような妹かもしれない。
けれど。
「お兄ちゃんが大好き」だと。
「愛している」と伝えたい気持ちは、決して偽りではない。
『トードお兄ちゃん、大好き。耳が聴こえなくなっても、いつかわたしより大事な人ができても、ずっと愛してる。だから……こんなに自分勝手な妹だけど、これからもわたしが大好きなお兄ちゃんでいてくれる?』
「当たり前だろ!」
微かに震えながら紡がれた問いかけを、トードは即座に肯定した。強く発した言葉と同じ勢いで腕を伸ばし、小さな体を抱きしめる。
「リリィは、っ……俺のために、いろんなことをしてくれた。学校の話を聞かせてくれて、俺が好きな本もたくさん読んでくれて……突然声が出なくなってショックだっただろうに、こんな遠くの街まで一人で来て、自分の声を聴かせてくれようとした。行動の理由なんてどうでもいいんだよ。俺にとってはリリィがしてくれたことがすべてなんだから」
『……おにい、ちゃん……』
「ありがとう、リリィ。俺のために時間を使ってくれて。何も聴こえなくなったって忘れないよ。リリィが俺にしてくれたことも〝お兄ちゃん〟って呼ぶリリィの声も、絶対……っ」
『うん……わたしの声、忘れないで。お兄ちゃん……』
小さな応接室の中、リリィとトードの啜り泣く声が響く。
役目を果たした模造骸骨と見届け人は、想いを伝え合った兄妹に黙って寄り添っていた。