8:その感情の名前は
夜を迎えたフラッタのはずれは、相変わらず人通りが少ないままだった。
それでも、仕事終わりの人々や街の中心部へ向かう人々が通りを歩いている影響か、昼間のように閑散とした雰囲気はなく、建ち並ぶ家々や街灯のおかげで真っ暗というわけでもない。
イストリア社の事務所を出て約十分。街の中心部方向へ歩く二人は、事務所にいたときとは打って変わって言葉少なだった。エルトゥスが時折声をかけ、リリィもそれに答えるだけ。一人と一体の間には常に沈黙が落ちている。
本当は、エルトゥスと話したいと思っていた。何か楽しい話を交わし、互いに笑い合いながらホテルまでの道のりを歩きたかった。
しかし、声をかけようと思っても気の利いた話題など何一つとして浮かばないのが現状で、結局何も話せないままここまで来てしまった。
(せめて運転免許の話を詳しく訊けばよかった……)
意外なことに、エルトゥスは運転免許を持っているらしい。会社にも車で来ているそうだが、業務用の免許ではないのでリリィを乗せていくことはできないのだという。
寒いのにごめんね。そう謝ったエルトゥスに、リリィは「大丈夫です」と答えることしかできなかった。事務所を出てすぐのやりとりだったため、相当緊張していたのだ。
だが、内心ではかなり興味を持っていた。
(エルさんってどういう感じで免許を取ったのかな)
恐らく、一般の教習所には通っていないだろう。いくら青年の姿になれると言っても、貴重な模造骸骨が一般人に混じることはないはずだ。
(エルさんの担当になった教官、すごく緊張しただろうな)
免許を与える以上、忖度はできないとはいえ、世界的にも価値のある存在に指導するのは気が引けただろう。詳細を訊きそびれてしまったのはあまりにも惜しい。
(このままじゃホテルに到着しちゃう……)
焦燥感に駆られたリリィは、声帯に負担がかからない程度に声を張り上げた。
「あのっ」
「ん?」
リリィの呼びかけに気付いたエルトゥスが首を傾げる。歩き続ける彼はリリィに近付きすぎないよう注意を払いながら距離を詰めた。
「その……えっと……」
思い切って声をかけたまではよかったが、今さら免許の話を訊くのはおかしい気がして言葉が続かない。
しかも、エルトゥスが近付いた途端、何故か心臓が急激に騒ぎ始めたから、どうすればいいか分からなくなってしまった。
「……エルさん、って、一人暮らし、してるんですか?」
オーバーヒート気味の頭が考えた話題は、エルトゥスのプライベートに踏み込み過ぎたもので。
リリィは内心「わたしの馬鹿!」と叫んだ。もしかしたら「デリカシー」という単語の「デ」すら知らない子どもだと思われたかもしれない。
『すべての終わり』という言葉がリリィの頭を過ぎる。何が終わるのか、どうして終わるのかについては分からない。
(最悪……)
恐怖と羞恥にリリィは俯く。
そんなリリィの耳に届いたのは、エルトゥスの優しい声だった。
「ううん。僕、ノアと一緒に暮らしてるんだ」
「…………。えっ?」
ノア。――ノア・アングレカ?
一緒に?
「あ、え、と……そうなん、ですか」
事情がまったく分からない中、精一杯平静を装いながら返事をする。エルトゥスが気分を害していないのなら、もう何でもいい。
「じゃあ……一日中、ノアさんと一緒に、いるんですね」
ノアさんが羨ましい。
そう感じた自分を偽るように、リリィは「家族みたい」と言った。『一日中一緒にいても嫌じゃない間柄』は家族か親友のどちらかだろうと思ったからだ。
「……うん、そうだね」
エルトゥスは僅かに間を置いて答える。
ただ、ノアに思いを馳せていたリリィはその間に気付かず、ちょうど目的のホテルが見えたこともあって、二人の話題はホテルに移っていった。
✦✦
〈ホテル・メモリアイン〉は、リリィが想像していたよりもずっと綺麗な建物だった。
三階建てのホテルは外壁の大部分がダークレッドのレンガで構成されている。扉の色と漆喰を純白で揃えたのは、コントラストを際立たせるためだろうか。玄関付近に取り付けられたオレンジ色の照明とも相性が良く、日が沈んだ夜間でも目を惹く配色だ。
「――エル!」
エルトゥスに連れられてホテルに入った途端、弾むような声が飛んでくる。
「久しぶり!」と言いながら受付スペースを出た彼は、満面の笑みを浮かべて客人を迎え入れた。
大きい人だ。彼の姿を視界に入れたリリィは真っ先にそう思った。
「サンクさん」と思しき人物は、特徴がたくさんある男性だった。ダークブラウンの髪は大変な癖毛で、力強さを感じる瞳も髪と同じ色。
歳は三十代くらいだろうか。肌は浅黒く、引き締まった体には筋肉がバランス良く付いており、どこか人懐っこさを感じさせる顔立ちは非常に整っている。
着用しているシャツと縄編みニットはごく一般的なデザインにもかかわらず、彼が着ているだけで高級品のように感じられ、声には張りがあり――と、これだけ人目を惹く風貌をしていながら第一印象が「大きい人」になるほど、彼は大きかった。
いや、背が高いから大きく見えるのではないのだろう。彼の推定身長は百八十センチ半ば程度。彼より三十センチ背が低いリリィにとっては十分大きいが、決して類を見ないほどの高身長ではない。
それでも「大きい人」だと感じたのは、彼の姿勢が非常に良く、ただ立っているだけなのに凛とした雰囲気を醸し出しているからだろう。
「こんばんは、サンクさん。お元気でしたか?」
「ああ、元気だったよ。最近エルに会えなかったから寂しかったけどね。――そちらのお嬢さんがロウさん?」
「はい」
エルトゥスはリリィに向き合い、サンクを紹介する。
「このホテルのオーナー、サンク・スターチさんだよ。昔、彼の依頼を受けたのがきっかけで知り合って、それ以来、提携先としてお世話になってるんだ」
「ただいまご紹介に与りました、サンク・スターチです」
サンクはリリィの前で一礼し、その顔に笑みを浮かべて言う。
「まあ、オーナーって言っても田舎町のしがないホテル経営者だけどね」
「スターチさん、初めまして」
リリィも礼を返し、挨拶する。
「こんな声で、すみません。わたしは、リリィ・ロウです。今日は急に部屋を用意していただいて、ありがとう、ございました」
「どうぞ気にしないで楽にしてください。部屋は元々空いてましたし、これも提携サービスの一つですから」
緊張しながら話すリリィに対し、サンクは朗らかに答える。エルトゥスと仲良くしているだけあって優しい人物のようだった。
「じゃあサンクさん、リリィさんをよろしくお願いします」
二人の様子を見守っていたエルトゥスはサンクに言い、リリィにも声をかける。
「リリィさん、また明日ね」
「あ、はいっ。わざわざ、ありがとう、ございました」
エルトゥスは頭を下げたリリィに手を振り、メモリアインをあとにする。
残されたリリィは改めてホテルを確認した。
メモリアインは、外装だけでなく内装も美しかった。壁紙は白、アンティーク調の装飾はチョコレートブラウンとダークブラウンを基調にしており、各所に取り付けられたオレンジ色の照明が温かみを醸し出している。掃除も行き届いているようで、床部分に目立った汚れはない。
こんなに綺麗なホテルに相場の七割で宿泊していいのだろうか。そんなことを考えていると、サンクに声をかけられた。
「ええと、ロウさん。台帳に記入していただけますか?」
「分かりました。……あの、敬語じゃなくて、大丈夫です。エルさんにも、そうしてもらってたので……」
「そう? じゃあ、そうさせてもらおうかな」
申し出を受けたサンクが口調を変える。客と敬語以外で話すことに抵抗がないようだ。
台帳への記入と支払いを済ませたリリィはルームキーを受け取った。リリィの部屋は「三〇二」だ。
「あ、夕飯はどうする? オムレツかサンドイッチでよければ提供できるけど」
「……じゃあ、お願いしても、いいですか?」
フラッタのどこかで外食しようと思っていたが、外は既に暗く、こんな声で知らない街を一人で歩くのはやはり不安だ。
先にメニューを選び、追加料金を支払って食堂へ向かうと、サンク自らが料理を作り始めた。部屋数が少なく宿泊者も多いとは言えないホテルのため、忙しくない時間帯はサンク一人で切り盛りしているらしい。
そして、大変残念なことに、今日はリリィ以外の宿泊者がいないのだという。本当は一部屋予約が入っていたのだが、先方の体調不良で急遽キャンセルになったそうだ。
「――お待たせいたしました。オムレツと野菜スープでございます」
「ふふ……」
気取った声で給仕したサンクにリリィは笑い、礼を述べる。
一度厨房に戻ったサンクは別の皿を持ってくると対面席に座った。「よければ一緒に」と、リリィから提案したのだ。食堂は広く、一人で食べるのは味気ないし、本来なら既に店じまいのところを急に押しかけてしまい申し訳ないというのが理由だった。
「わあ……! このオムレツ、とろとろでおいしいです!」
「よかった。オムレツには自信あるんだよね」
サンクは誇らしげに言いながら微笑む。これまでに見た笑顔とは違う、穏やかな微笑みだった。
「……あの、サンクさん。質問しても、いいですか?」
「何?」
「サンクさんって、その……わたしみたいに、声の再現を依頼したことが、あるんですよね?」
「うん。彼らが活動を始めた頃にね」
遠慮がちな質問に対し、サンクは気負う様子もなく答える。
「そのとき色々お世話になったから、恩返しがしたくて提携ホテルになったんだ。ご覧の通り、フラッタはまあまあ田舎だからさ。遠くから来た人たちの力になりたくて」
「そう、だったんですか。じゃあ、お二人とはもう、友達みたいなもの、なんですね」
「僕とエルはそう思ってるけど、ノアはどうかな」
たまごサンドを平らげたサンクがわざとらしく肩を竦める。
「ノアにはあんまり好かれてないから」
「えっ? ……どうして、ですか?」
昼間、サンクの話をしていたノアの口調は確かに否定的だった。だが、それはあくまでからかっているというような雰囲気で、決して嫌っているようには見えなかった。
「んー……〝エルと恋仲になりたい〟って思ってるからかな?」
「……えっ?」
想像していなかった返答に、リリィは一瞬呼吸を忘れた。声帯ポリープのせいで声はほとんど出なかったが、開いたままの口がリリィの驚きを代弁している。
「僕ね、エルのこと好きなんだよ。まあ、今のところ振り向いてもらえる気配ゼロだけど」
「で、でも! エル、さんは……」
「僕たちとは違う模造骸骨。――それでも好きなんだ」
「っ……」
その言葉を聞いて、リリィはようやく気付いた。
出会って間もない頃から、エルトゥスに惹かれていたこと。
そして、惹かれていたのに、「人間ではないから」と無意識の内に恋愛対象から除外していたことに。
(エルさんは依頼人と真剣に向き合ってくれたのに……)
理解した途端、目の奥が熱くなり、次の瞬間には涙がこぼれていた。
早く泣き止まないと。そう思っても、涙は止まってくれない。
視界が滲んでいるせいでサンクの表情を窺うことはできないが、話していた相手が突然泣き出したのだから困惑しているに違いない。
「ごめん、なさい……っ」
涙を拭いながら謝るリリィの声が聞こえなかったのか、それとも聞こえたからなのか、サンクは何も言わずに席を立った。彼なりに気を遣ってくれたのだろう。
(わたし、迷惑かけてばっかり……)
喉のことで二人に気を遣わせ、稼ぎのない子どもだからという理由で依頼料を安くしてもらった挙げ句、好きになった相手を種族で差別し、急遽泊めてもらったサンクにも迷惑をかけた最低の依頼人。
こんなことが二人に知られたら、次回から子どもの依頼人は問答無用で断られるかもしれない。
考えれば考えるほど涙が止まらず泣き続けていると、何か白いものがテーブルに置かれた。
そこにあったのは、ソーサー付きのコーヒーカップ。中には淹れたてのコーヒーが並々と注がれている。
「当ホテルをご利用いただいたお客様へのサービスです。――こちらをどうぞ」
「え……」
続けて差し出されたのは、ココアパウダーがふんだんに振りかけられたティラミス。
西大陸諸国から伝わった、人を元気付けるときに振る舞われるデザートだ。
「そちらを召し上がったら、今夜はゆっくりお休みください。……気持ちの整理なんてものは、ゆっくりつければいいんだよ」
「お皿はそのままでいいからね」と言い残し、サンクは食堂を出た。スタッフルームに入ったのか、ドアの開閉音が受付のほうから微かに聞こえる。
食堂スペースに一人残されたリリィは涙を拭うと食事を再開した。残っていたオムレツと野菜スープを平らげてから、ティラミスに口をつける。
「……おいし、い……」
口の中に広がるフレッシュチーズの控えめな甘さと、甘味を引き締めるココアの苦み。
スポンジ生地から染み出るビターな味わいのコーヒーシロップは、若干量加えられたリキュールで深みが増していて。
サンクが出してくれたティラミスは、これまでに食べたどのティラミスよりもおいしかった。